「夏(失われたりんぼくの実)」のつづき。
西脇の詩には植物がたくさん出てくる。
ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない
生垣にはグミ、サンショウ、マサキが
渾沌として青黒い光りを出している
私がおもしろいと感じるのは、そうのち「ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない」というような否定の中に出てくる植物だ。そこにあるもののなかから美しいもの、珍しいものをことばにするのなら、そこには植物に対する美意識が働いていることになる。もちろん、そこにないものを「ない」というときも、もしそれがあれば、という美意識が働くだろうけれど、そのほかに「音」、音に対する感覚が働くとはいえないだろうか。
「ゆすら梅」「りんぼく」--その音だけではなく、「ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない」と言ったときの「音」。それは、たぶん、次のように書き換えることができる。全部ひらがなにして、音がわかるように書くと……。
ゆすら・むめ・も・りんもく・の・み・も・みつからない
「ま行」の音の動きがとてもおもしろいのだ。「むめ(うめ)」「りんもく(ぼく)」。私には、西脇は、この行を、音の楽しみのために書いたとしか思えない。
その音は、「ジュピーテル」や英語で書かれている音とはずいぶん違う。くずれ方(?)というか、つながり方というか、そういうものがずいぶん違う。日本語の、不思議にまるっこい(?)音が、カタカナ(外国語)の音と拮抗して、何か、いままで聞いたことのない音楽を聴いたような気持ちになる。
たぶん、その「ま行」のくずれ方を浮き彫りにするために、次の行に「グミ、サンショウ、マサキ」というシャキッとした音が選ばれているだと思う。
そして。
これから書くことは、私の「誤読」の癖だと思っているのだが、その「ま行」が、復活してくるのを感じる行があるのだ。
この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している
「偉大なたかまるしりをつき出して」。この行の「ま」の音が、「ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない」という行をぐいと引き寄せ、その間のことばを圧縮する。消してしまう。消してしまうというと言い過ぎかもしれないけれど、私には、なんだかどうでもいい行に見えるのである。
「たかまるしり」(高まる尻)とは、直接的には女神・プロセルピナの尻であり、プロセルピナは「ジューピテル」との関連で出てくると思うのだが、私は、それとはまた別のことを考えてしまう。連想してしまう。
接ぎ木をした木は、その接ぎ木の部分が、すこし膨れ上がっている。これを「たかまるしり」と呼んだのだとしたら、どうなるだろう。
私は、そう読みたいのだ。誤読したいのだ。
接ぎ木の膨れ上がった「肉体」。そこにある「いのち」。その「かたまり」の「たかまり」の「まるっこさ」。私の、口蓋で、「ま行」がゆらぐ。そして、「ゆすら梅……」の「ま行」のゆらぎの間で、すべてのことばが消えていく。
「ゆすら梅……」の行がなかったら、「偉大なたかまるしり」はきっと違うことばになっていたと思う。
それは、途中をちょお省略するが、次の行へとつづいてゆく。
散歩に出て蝶ががまずみの木や熊鉢
がたかとうだいの樹にとまつている
のをみつめている人間と生垣との間に
恐ろしい生命のやわらかみがある
「生命のやわらかみ」。それは人間と人間とは別のものの「間」にある。そういう「間」をうめるもの、つなぐものとして、人間は「ことば」を持っている。ことばは基本的には「意味」なのかもしれないが、「意味」を超える何かも持っている。「音楽」を持っている。
どう書いていけば、それをきちんと証明(?)できるのかわからないが、私が感じるのは、西脇は人間と人間ではないものの「間」を「音楽」で埋めようとしているということだ。「音楽」のなかに「生命のやわらかみ」がある。そんなふうに西脇は感じている--と思うのである。
西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |