詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(74)

2009-09-02 12:34:38 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『近代の寓話』の「近代の寓話」のつづき。
 西脇のことばは「つまずき」や「脱臼」のような運動に特徴がある。「に合流する私はいま」の運動を「つまずき」ときのうの日記に書いたが、「つまずき」と書くと、「つまずきの石」が必要になるから、ほかの表現がよかったかもしれない。「マイナスの飛躍」とか……。
 いや、やはり「つまずき」がいいだろう。
 「つまずき」--つまずいた瞬間、体のリズムが乱れる。そして、予想外のところへ体がはみだしてしまう。「に合流する私はいま」には、そういう急激な変化がある。
 そしておもしろいのは、こういう「つまずき」のあとでは、「飛躍」が「飛躍」に感じられないことである。

考える故に存在はなくなる
人間の存在は死後にあるのだ
人間でなくなる時に最大な存在
に合流するのだ私はいま
あまり多くを語りたくない
ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
アンドロメダのことを私はひそかに思う

 「アンドロメダ」がなぜここに登場するのかわからない。「考える故に存在はなくなる」という思いと「アンドロメダ」をつなぐものがわからない。「ワサビののびる落合でお湯にはいる」こととの関係もわからない。
 わからないけれども、「に合流する私はいま」という奇妙な「つまずき」の行のあとでは、さーっと読んでしまう。たぶん、「つまずき」の方が肉体にとっては衝撃が大きいのだ。飛躍が意識された運動であるのに対して、「つまずき」は想定外の運動であり、そこには意識が存在しない。「つまずき」の対象に対する意識が欠如していたために起きた予想外の運動である。たぶん(また、たぶんなのだが)、ことばにも「肉体」というものがあり、ことばが「つまずく」とき、ことばの「肉体」にも不思議な衝撃のようなものが残り、その影響で「飛躍」をなんでもない一歩のように意識させてしまうのだろう。
 こういう運動には、「音楽」も影響していると思う。
 「アンドロメダのことを私はひそかに思う」という音の動き--それは、その前の「ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」の音と、とてもよくち響きあっていると私には感じられる。「ワサビののびる落合で」のなかの濁音の位置というか、濁音が閉める位置がつくりだすリズムと「アンドロメダ」の濁音のリズムが響きあう。「ワサビののびる落合で」のリズムが凝縮する(?)と「アンドロメダ」のリズムになる。そして、その凝縮には、同じ「ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」の「だけだ」の短い濁音の交差するリズムが影響している。「ワサビののびる落合で」が「だけだ」のリズムに叩かれて「アンドロメダ」という形になったのだ。
 こういう急なリズムのあとに、そのリズムを「脱臼」させるように、ゆるやかなことばがつづく。「考える故に存在はなくなる」というような「形而上学」のあとに「お湯にはいる」ような動きである。

形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
アンドロメダのことを私はひそかに思う
向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうつている
ふところから手を出して考えている

 リズムのかきまぜ、攪乱が、西脇のことばをいきいきとさせる。
 「つまずき」も「脱臼」も、ことばの攪乱なのだ。そうやって、ことばの「乱調」がはじまる。
 西脇の美は「乱調」にある--と言いなおすこともできるだろうと思う。

 「乱調」(「つまずき」「脱臼」など、教科書文法からはありえないことばの動き)の例。

ベドウズの自殺論の話をしながら
道玄坂をきぼつた頃の彼のことを考え
たり白髪のアインシュタインがアメリカの村を
歩いていることなど思つて眠れない

 「考え/たり」という行のわたり。ふいの意識の「ずれ」。そこに「乱調」がある。

一本のスモモの木が白い花をつけて
道ばたに曲つている、ウグイスの鳴く方を
見れば深山の桜はもう散つていた
       (西脇は「スモモ」を「をどり字」をつかって表記しているが、
        ここでは表記できないので「スモモ」と書いておく。)

 「道ばたに曲つている、ウグイスの鳴く方を」は「に合流するのだ私はいま」に似ている。読点「、」があるぶん意識はたどりやすいが、なぜ1行に書いたのか、そのことは明確には理由が特定できない。「つまずいた」のだ、としかわからない。
 そして、このつまずきのあと、ことばがとても美しく動き。

一本のスモモの木が白い花をつけて
道ばたに曲つている、ウグイスの鳴く方を
見れば深山の桜はもう散つていた
岩にしがみつく青ざめた菫、シャガの花
はむらがつて霞の中にたれていた
私の頭髪はムジナの拝椅子になつた
忽然としてオフィーリア的思考
野イチゴ、レンゲ草キンポウゲ野バラ
スミレを摘んだ鉛筆と一緒に手に一杯
にぎるこの花束
あのたおやめのためにあの果てしない恋心(れんしん)
のためにパスカルとリルケの女とともに
この水精の呪いのために 

 「岩にしがみつく青ざめた菫、シャガの花/はむらがつて霞の中にたれていた」の「は」の位置。「青ざめた菫、シャガの花」および「野イチゴ、レンゲ草キンポウゲ野バラ」の読点「、」の有無。そして、「スミレを摘んだ鉛筆と一緒に手に一杯/にぎるこの花束」の入り乱れたことばの順序。「スミレを摘んだ」のあとに、学校教科書なら句点「。」が必要である。一般的な行かえ詩なら、そこで改行があるはずである。しかし、西脇は読点や改行をことばの運動の中に吸収、消化して痕跡を消してしまう。
 その「つまずき」のあと。
 「あおやめのための」という音楽。「あの」という音も「たおやめ」「ための」と響きあい、パスカルとリルケも、ここでは音(音楽のための要素)になってしまっている。
 なんとも楽しい。




西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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岡井隆『注解する者』(2)

2009-09-02 02:18:32 | 詩集
岡井隆『注解する者』(2)(思潮社、2009年07月25日発行)

 語り継がれ、語り継ぐことで鍛えられた日本語の力。その水圧の高い水源からのことばが、流れながらつややかな輝きをみせる。その輝きは、別な表現で言いなおせば、「水の層の複雑さ」ということになるかもしれない。水は透明であり、たとえば川の表面の水と川底の水を、区別することは難しい。それは、岡井の「文学」そのものを語ることばと、日常を語ることばが、同じ「日本語」という表現でくくられてしまうのに似ている。川面の水も川底の水も「水」なのだ。文学そのものを注釈する文学的解説語(?)も、日常のあれこれを語る俗語(?)も同じ「日本語」なのだ。そして、それが「同じ日本語」であることを利用して(?)、ふたつは混じり合うのだ。
 いま、便宜上、「ふたつ」と書いたが、ほんとうはもっと複雑に、「いくつも」そういうものが混じり合う。それが岡井のことばであり、そのことばの奥には、和歌の、つまりは、伝統的なことばの動きがあるのだ。うねりながら、いろいろなものを取り込み、ひとつにしてしまう「詩」の伝統があるのだ。

 「鼠年最初の注釈(スコリア)は、志貴皇子の歌について語っていたのに、途中から鴎外の作品について語るという変な(?)作品である。鴎外の作品について語った部分がおもしろいが、枕(?)の志貴皇子の歌の部分には、日常がふいに顔を出すので、その部分もおもしろい。
 旅館の一室で、庭の藤棚の黒々池を覆うのを見ながら話せ、というテレビ局の指示にしたがいながら「注釈」をするが、二人の質問者があった。

一人は志貴皇子の人柄をどう思ひますかと言うんだが明解はある筈がない。皇子は技巧にすぐれた歌人であつたといふまでで天智帝の第四皇子でありながら天部帝の支配下に生きた逆境をこの歌から読みとるのは注解者の大きらひな作者偏重であらう。作者は難波へ旅して来て家郷を思つてゐる壮年の歌人といふところまででいいのぢやありませんか。それなら男の独り寝についてはどう思ひますかともう一人の質問者の声があがつたので、つまり男の淋しさを番(つが)ひの鳥たちに比べて歌ふのが一つのパターンなのでせうね。

 この応答。実際は、どうなのかわからないが、何とはなしに、岡井の「そんなこと、どうだっていいじゃないか」というような「いらいら」した感じが滲んでいて、とても好きである。(イライラしていなかったのだったら、岡井さん、ごめんなさいね。)文学と「人柄」なんて、関係ない。岡井は、そう言いたい。けれども、聞いているひとは、文学よりもたぶん「人柄」(人の生き方)の方に関心がある。岡井の言いたいことと、岡井から聞きたいことのあいだに「ずれ」がある。
 どんなときでも、発話者と、それを聞く人(読む人)とのあいだにはずれがある。
 そのずれを小さく(?)してみせるのが、注釈の仕事、発話者と聞く人のあいだをとりもつのが注釈の仕事なのだろうけれど、その注釈に対しても発話者と聞く人との関係があって、岡井のことばは強引にずらされてしまう。
 「といふところまででいいのぢやありませんか」「なのでせうね」と、丁寧に応答すればするほど、イライラが滲む。いいなあ。この口調は尾を引いて……。

高市黒人(たけちのくろひと)だつてさうぢやありませんか。今の愛知県熱田あたりを通りかかつた旅人がただ鶴の啼きながらとぶのに感動したわけではないでせう。鶴は家族を組んで飛び自分はひとりこの浜に立つてゐるといふところに歌の核心があり志貴皇子の鴨とその点同じである。

 このイライラ(?)というか、「ずれ」が引き起こす哀しみが、なぜか、(あたりまえ?)歌人の孤独と岡井の孤独引きつける。歌を読んで、作者の哀しみに引きつけられるというのはもちろんなのだが、そこに聴講者の質問が引き起こした「ずれ」が作用して、ばどうしてわからない?という哀しみとなり、岡井を孤独にする。
 こういう深層のこころの動きが、その後の岡井の日本語を進行方向を変える。ずらす。ほかのことだって書き得たはずなのに、「孤独」になって、「理解者」をついつい、求めてしまう。そんな感じで、志貴皇子の部分は終わる。さっきの引用のあと、終わりまで。

すべての動物は美しく緊密に描かれるが孤独ではないのに作者はひとりであると答へながらもう一度庭をみると黒松が立ち灯がともつて夜へ移らうとしてゐる。ヴィデオはいつのまにか止みかたはらの渋茶も冷えて注解者に与へられた時はしづかに消え去らうとしてゐるのであつたから注解する者は妻の待つ「大和」へ向けて退席するために傘を持ちオーバーコートを着て黒のハンチングをななめにかぶつてよろりと立ち上つた。

 うーん。「動物」を「質問者」、「作者」を「注解者」に置き換えて読みたくなりますねえ。
 そして、思うのだが、ああ、こういう「孤独」があるから、ことばはおもしろくなるんだなあ。孤独にたえながら、層を増やしてゆくものなのだなあ。
 ということと同時に。
 やっぱりわかってくれるのは、長年暮らしている連れ合いだけなんだなあ。哀しいような、さみしいような、うれしいような……。岡井の大嫌いな「人柄」を、思ってしまいますねえ。(ごめんなさいね。)

 一番俗(?)な部分を取り上げてみたけれど、岡井のことばの層はほんとうに豊かである。作品ごとにいろいろな層が登場する。地層の断面をみると、その縞模様の美しさにひかれて、地質学者ではない私は、ただそこにいくつもの層があるということがわかるだけで満足するけれど、岡井の作品に触れて感じるのも、その感動に似ている。
 書いてあることはきっといろいろ重要な「意味」をもっているのだろうけれど、それよりも、いくつものことばの層が、それぞれの断面の美しさをみせながら、揺るぎなく重なっている。そのことに驚き、そのことに、ふと笑いがこみあげるくらい楽しい気持ちになる。



瞬間を永遠とするこころざし (私の履歴書)
岡井 隆
日本経済新聞出版社

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