『近代の寓話』の「近代の寓話」のつづき。
西脇のことばは「つまずき」や「脱臼」のような運動に特徴がある。「に合流する私はいま」の運動を「つまずき」ときのうの日記に書いたが、「つまずき」と書くと、「つまずきの石」が必要になるから、ほかの表現がよかったかもしれない。「マイナスの飛躍」とか……。
いや、やはり「つまずき」がいいだろう。
「つまずき」--つまずいた瞬間、体のリズムが乱れる。そして、予想外のところへ体がはみだしてしまう。「に合流する私はいま」には、そういう急激な変化がある。
そしておもしろいのは、こういう「つまずき」のあとでは、「飛躍」が「飛躍」に感じられないことである。
考える故に存在はなくなる
人間の存在は死後にあるのだ
人間でなくなる時に最大な存在
に合流するのだ私はいま
あまり多くを語りたくない
ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
アンドロメダのことを私はひそかに思う
「アンドロメダ」がなぜここに登場するのかわからない。「考える故に存在はなくなる」という思いと「アンドロメダ」をつなぐものがわからない。「ワサビののびる落合でお湯にはいる」こととの関係もわからない。
わからないけれども、「に合流する私はいま」という奇妙な「つまずき」の行のあとでは、さーっと読んでしまう。たぶん、「つまずき」の方が肉体にとっては衝撃が大きいのだ。飛躍が意識された運動であるのに対して、「つまずき」は想定外の運動であり、そこには意識が存在しない。「つまずき」の対象に対する意識が欠如していたために起きた予想外の運動である。たぶん(また、たぶんなのだが)、ことばにも「肉体」というものがあり、ことばが「つまずく」とき、ことばの「肉体」にも不思議な衝撃のようなものが残り、その影響で「飛躍」をなんでもない一歩のように意識させてしまうのだろう。
こういう運動には、「音楽」も影響していると思う。
「アンドロメダのことを私はひそかに思う」という音の動き--それは、その前の「ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」の音と、とてもよくち響きあっていると私には感じられる。「ワサビののびる落合で」のなかの濁音の位置というか、濁音が閉める位置がつくりだすリズムと「アンドロメダ」の濁音のリズムが響きあう。「ワサビののびる落合で」のリズムが凝縮する(?)と「アンドロメダ」のリズムになる。そして、その凝縮には、同じ「ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」の「だけだ」の短い濁音の交差するリズムが影響している。「ワサビののびる落合で」が「だけだ」のリズムに叩かれて「アンドロメダ」という形になったのだ。
こういう急なリズムのあとに、そのリズムを「脱臼」させるように、ゆるやかなことばがつづく。「考える故に存在はなくなる」というような「形而上学」のあとに「お湯にはいる」ような動きである。
形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
アンドロメダのことを私はひそかに思う
向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうつている
ふところから手を出して考えている
リズムのかきまぜ、攪乱が、西脇のことばをいきいきとさせる。
「つまずき」も「脱臼」も、ことばの攪乱なのだ。そうやって、ことばの「乱調」がはじまる。
西脇の美は「乱調」にある--と言いなおすこともできるだろうと思う。
「乱調」(「つまずき」「脱臼」など、教科書文法からはありえないことばの動き)の例。
ベドウズの自殺論の話をしながら
道玄坂をきぼつた頃の彼のことを考え
たり白髪のアインシュタインがアメリカの村を
歩いていることなど思つて眠れない
「考え/たり」という行のわたり。ふいの意識の「ずれ」。そこに「乱調」がある。
一本のスモモの木が白い花をつけて
道ばたに曲つている、ウグイスの鳴く方を
見れば深山の桜はもう散つていた
(西脇は「スモモ」を「をどり字」をつかって表記しているが、
ここでは表記できないので「スモモ」と書いておく。)
「道ばたに曲つている、ウグイスの鳴く方を」は「に合流するのだ私はいま」に似ている。読点「、」があるぶん意識はたどりやすいが、なぜ1行に書いたのか、そのことは明確には理由が特定できない。「つまずいた」のだ、としかわからない。
そして、このつまずきのあと、ことばがとても美しく動き。
一本のスモモの木が白い花をつけて
道ばたに曲つている、ウグイスの鳴く方を
見れば深山の桜はもう散つていた
岩にしがみつく青ざめた菫、シャガの花
はむらがつて霞の中にたれていた
私の頭髪はムジナの拝椅子になつた
忽然としてオフィーリア的思考
野イチゴ、レンゲ草キンポウゲ野バラ
スミレを摘んだ鉛筆と一緒に手に一杯
にぎるこの花束
あのたおやめのためにあの果てしない恋心(れんしん)
のためにパスカルとリルケの女とともに
この水精の呪いのために
「岩にしがみつく青ざめた菫、シャガの花/はむらがつて霞の中にたれていた」の「は」の位置。「青ざめた菫、シャガの花」および「野イチゴ、レンゲ草キンポウゲ野バラ」の読点「、」の有無。そして、「スミレを摘んだ鉛筆と一緒に手に一杯/にぎるこの花束」の入り乱れたことばの順序。「スミレを摘んだ」のあとに、学校教科書なら句点「。」が必要である。一般的な行かえ詩なら、そこで改行があるはずである。しかし、西脇は読点や改行をことばの運動の中に吸収、消化して痕跡を消してしまう。
その「つまずき」のあと。
「あおやめのための」という音楽。「あの」という音も「たおやめ」「ための」と響きあい、パスカルとリルケも、ここでは音(音楽のための要素)になってしまっている。
なんとも楽しい。
西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1982年)西脇 順三郎筑摩書房このアイテムの詳細を見る |