「午後の訪問」は友人を訪ねたが、友人は留守だったので帰ってきた--という作品だが、とてもおもしろい。1回では書き切れないくらいおもしろい。たぶんきょうと、あすとの2回に分けて書くことになると思う。短い詩を何回にも分けて感想を書くというのは詩にとっていいことなのか、わるいことなのか、よく分からない。
詩はストーリーではないから、まあ、どこから読んでも、どこでやめてしまってもいいものだろうと思うので、思いつくままに書いていく。
バスの終点から野に出てみた。
のびた麦(むぎ)は月夜(つきよ)の海のように銀色に光つていた。
春の淋しさは夏のさびしさへと
いつの間(ま)にか変つていたのであつた。
下馬でお湯屋(ゆや)をはじめた男と話が
したいので用賀をまわつて行つた。
燃えたつような蜻蛉(とんぼ)も
極彩色の蝶々もまだ出ていない。
犬は生垣の下から鼻を出してかすかに吠えるが
外へは一匹もうろうろしていない。
何時、とは書いていないのだが、昼下がりの光景だろう。時間が昼間なのに、夜を連想する2行目、
のびた麦は月夜の海のように銀色に光つていた。
これに驚かされる。「いま」と「いまではない時間」が突然結びつけられる。この急激な、予想外のものの出会いのなかに詩がある。広がる麦畑を海にたとえるというのは慣用句の一種だが、そこに「月夜」が呼び込まれるのでびっくりしてしまう。
いきなり、現実の風景が、現実から引き剥がされ、純粋な風景になる。
3行目に登場する「淋しさ」(淋しい)は西脇が多用することばだが、2行目のあとに読むと、その「意味」(内容)がわかったような気持ちになる。
淋しさとは、現実(日常)から引き剥がされた純粋さ、純粋な「美」のことである。その「美」に共感するこころのことである。現実(日常)から引き剥がされた--とは、人間の人事とは無関係という意味である。熟れた麦の美しさは、人間の感情などには配慮しない。非情である。情を拒絶した美しさ--それを感じるときの、情の欠落が「淋しい」であると私は思う。
自然は人間の情を拒絶して生きている。そして、その情を拒絶した美のなかにも変遷がある。季節ごとの美しさがある。春のみどりから、夏の銀色、乾燥しきらきら光る麦の穂。そこには変化があるが、「美」であることそのものには変化がない。矛盾をかかえこみながら(のみこんで、消化してしまって、あるいは昇華して)、自然は輝いている。
そんな光景に触発されるからだろうか。西脇の精神は、現実(日常)から引き剥がされて、美の世界を飛び回る。
燃えたつような蜻蛉も
極彩色の蝶々もまだ出ていない。
この2行には驚くしかない。
「燃えたつような」「極彩色の」。なんでもない修飾語のようにみえる。安っぽい(?)というか、安易な直喩にもみえる。ところが、なんでもないことはない。安易でも、慣用句でもない。
ふつう、そういう修飾語は、たとえばトンボがいて、蝶が飛んでいて、そのトンボや蝶の美しさに触れて、はじめてそういうことばが出てくる。
ところが、西脇が歩いている野にはトンボも蝶もいない。その存在しないトンボ、蝶を描写して「燃えたつような」「極彩色の」ということばが飛翔する。「蜻蛉も/蝶々もまだ出ていない」なら現実(日常)の描写である。けれども、そのトンボ、蝶々に精神力が呼び込んだ修飾語が結びつくとき、それは現実や日常の描写ではなくなる。現実、日常から引き剥がされた「美」の描写になる。
そういう虚というか、現実から引き剥がされた美のあとでは、現実の描写は、なんとも生々しい。リアルである。
犬は生垣の下から鼻を出してかすかに吠えるが
外へは一匹もうろうろしていない。
「生垣の下から鼻を出して」という肉眼で見たままの描写がすごい。いないトンボや蝶々の描写のあとで、こんなふうに楽々と現実へ帰ってくる精神の力がすごい。ことばのちからがすごい。
そして、その生々しい描写が、不思議なことに、とても軽い。重大なことにつながらない。
たぶん、「外へは一匹もうろうろしていない。」がそういう効果を引き起こしている。犬、その生々しさは、「現実」に属してはいるけれど、それはあくまで「生垣」のなか。「生垣」の外ではない。
生垣の外は、あいかわらず、現実・日常から引き剥がされている。淋しさに輝いている。
--このことは、また、あす。
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