詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

夏目美知子「心の底」「過去の領域」

2009-09-22 00:46:08 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「心の底」「過去の領域」(「カラン」4、2009年07月25日発行)

 夏目美知子「心の底」が不思議にこころに残った。

夜中、大勢の人が家の前を通っていく気配で
目が覚める。白装束で、黙々と歩いて行く。
町が眠っている間に、何処へ移動するのか。
俯き加減の人々の、街灯に照らし出された頬
が、まるで実際に見たかのように私の眼の中
に残る。
可笑しなことをと自分で笑う一方で、やっぱ
りそうだったのかと思う気持ちがある。
奇妙なことは心の底で進行中である。

 「実際に見たかのように私の眼の中に残る。」この、現在形の文体が強い。「残った」だったら、たぶん、それは夏目の意識の側にとどまって、私にまでとどかなかっただろうと思う。「残る」と現在形で語られた瞬間、それが、夏目の感覚というよりは、私自身の「肉体」の中に残ったような気持ちにさせられてしまったのである。
 「残る」という現在形の動詞によって、「いま」という瞬間に、夏目と私の「肉体」が重なって、同じ「肉眼」、同じ「眼の中」を持ったような気持ちにさせられた。
 夏目は、「可笑しなことをと自分で笑う一方で、やっぱりそうだったのかと思う気持ちがある。」と、いわば、「夏目」と「夏目をみつめる夏目」というふたりにわかれるのに、読者の私の方が「夏目」に(どちらの夏目だろう)に吸収されてしまう。
 「奇妙なこと」は、「夏目のことばの中」で進行中である、といいたい気持ちになる。 

「過去の領域」は、むかし見た光景を描写している。

長屋らしき一角だ
開け放たれた玄関の外側に
赤い傘が一本、斜めに立て架けられている
人の気配はない
前庭に光があたっている
時が止まっている
すっぽり青空に抜かれるような
静寂がある

掴みどころもないが
疼くような懐かしさに
呆然としてしまうことがある

 ここでも、夏目の動詞は現在形である。
 日本語の時制は、過去のことであっても現在形で書くことがある。現在形にして書くと、その瞬間が、過去ではなく、「いま」として目の前にあらわれてくる。なまなましくなる。
 考えてみれば、1秒前も10年前も、あるいは 100年前も、思い出すという行為のなかでは区別がない。意識的に「1秒前」「10年前」というだけであって、「1秒」と「10年」を「へだたり」として「手触り」として、「手触りの距離」として(肉体で触れ得るものとして)、把握できない。
 そのことを、夏目は、無意識の内に知っているのかもしれない。「肉体」として知っているのかもしれない。そういうあいまいさ(?)のようなものが、ぐい、と私を引き込む。私は、そういう領域にぐいと引き込まれてしまう。


私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社

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