詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アンドレア・モライヨーリ監督「湖のほとりで」(★★★★)

2009-09-03 19:25:31 | 映画

監督 アンドレア・モライヨーリ 出演 トニ・セルヴィッロ、ヴァレリア・ゴリーノ、オメロ・アントヌッティ

 冒頭に、とてもおもしろいシーンがある。狂言回しの役の子供が学校をさぼって家へ帰る。少女に、知恵おくれの男の車がちかづく。カメラは、それを遠くから写している。会話は聞こえない。(ちらりと「字幕」が少女の声を伝える。)
聞こえないけれど、話の内容は想像できる。――これが、村なのだ。小さな村なのだ。
 そこでは何も起きないようにも感じられる。しかし、殺人事件が起きる。被害者は若い女性。美人だ。湖のほとりに、争った形跡もなく、裸体で横たわっている。
 こんな小さな村では、犯人もすぐにわかる。誰もが誰もを知っている。不審な行動をとればすぐに分かってしまう。――はずだが、なかなか犯人が絞れない。

 その犯人探しが映画のストーリーだが、犯人を探していく過程が、犯罪映画としてはとても変わっている。刑事は必死になって追ってはいるのだろうが、その追い方が「犯人」そのものを追うというよりも、なぜ、若い女性が抵抗もなく死を受け入れたのか、その真相を探ってゆく。犯人に対する怒り(?)、正義の追及というより、真理の追究。
 真理は、心理でもある。
 様々な登場人物(疑惑のある人物)の、動機を探る。若い女性が争わずに死を受け入れている(殺されている)ということの背景には、若い女性との「こころ」の問題が含まれるからである。女性とこころが通い合っている人間しか、そんな殺害の仕方ができないからである。
 そこに事件を追及している刑事自身のこころもからんでくる。妻は痴ほう症で入院している。娘は母が家に不在なためにこころがすさんでいる。しかも、そのこころのすさみの原因は母が不在というよりも、父が真相を話してくれないということに対する不満から生じている。家族なのに、母のことを話してくれない。真理を話してくれない。――これはとても重要な伏線である。
 同じことが、村でも起きているのだ。
 小さな村。誰もが名前を知っている。顔を知っている。そればかりか、誰が何をしているか。誰と誰が恋愛しているか、憎みあっているかというようなことは、誰もが知っている。
 けれども、誰にでも秘密がある。人に言えない悲しみがある。
 刑事が、妻のこと、娘のことに悩んでいる。でも、そのことを誰かにこころを割って話すことはできない。娘とさえ、妻のことを、こころを割って話せない。話せば娘を傷つけると勝手に思い込んで、自己抑制している。
 この「自己抑制」が、事件を見えなくしている。抑制された「心理」は、普通の状態にある心理よりも、もっと見えにくい。
 映画は、映画に登場する人々の悲しみを静かに解きほぐしながら、丁寧に丁寧に進む。人間をひとりずつ丁寧に描写する。少し知恵の遅れた息子と暮らす老人。守らなけらばならない頭で分かっていても、この子がいなければと思ったことがあった。工場の労働でいらいらする若者。他人に馬鹿にされたくないので、被害者の女性とセックスをした、とウソをつく。被害者の女性を溺愛する父(自分の血は流れていない、妻の連れ子だ)、その父と姉の関係に不快感をもつ妹。障害を持った(?)息子の子育てに悩み続けた夫婦。真夜中に何度も起こされ、眠ることができない。ひそかに死んでくれればいいとさえ望んでしまう。誰もが自分の悩みを話せないまま、秘密にして生きている。小さな村ゆえに秘密にするしかない、ということもある。誰もが村人のことを何でも知っている。だからこそ、その知られていることを見せながら、その奥に、人間のいやらしい欲望を隠して生きていく。苦悩を隠して、「きれいごと」を生きていくのだ。
 これは、せつない。とてもせつない映画でもある。

 このせつなさを、映画のラストシーンが救う。
 刑事は娘をつれて、妻の療養所を訪問する。妻は夫はもちろん、娘のことも思い出せない。娘は悲しむ。けれど、父は言うのだ。「お前を見て微笑んだよ。」ひとのこころがわからないなら、ひとのこころを、いい方に理解し、そう信じたっていいい。もし、その想像が互いをやさしく包むなら、それはそう信じた方がいい。
 人は真理というよりも、信じたいことを信じて生きてゆく。
コメント (1)
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誰も書かなかった西脇順三郎(75)

2009-09-03 11:02:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「キャサリン」。書き出しは「飛躍」の大きい文体である。

女から
生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である

 これだけでは、何のことかわからない。「投げられた抛物線」とは何のことか。何を投げたのか。「視線」と考えると何かがわかったような気持ちになるが、一般的に視線は抛物線を描かない。直線である。抛物線をゆるやかな線と解釈すれば、何気なく時化が気に投げかけられた視線、ふっと生垣をながめる視線、ほとんど無意識の視線、ということになるだろう。
 私の連想が正しいかどうかは別にして、ことばはいろいろな連想呼び起こす。そういう連想を呼び起こすこと、ひとつのことばを契機に、ことばが「意味」から逸脱してどこかへ行ってしまうことを詩ととらえれば、ここに詩があることになる。
 「注釈」(解釈)というのは、まあ、そういう連想の「最大公約数」のようなものを引き出して、読者にとどけるという仕事(作業)なのだと思うが、私は、注釈も解釈もめざしていないので、違うことを書く。
 私が、いま引用した5行で一番ひかれるのは、

美しい人間の孤独へ憧れる人間の

 という行である。「美しい人間」「孤独へ憧れる人間」というふたつの「人間」が電池の直列のように結びついている。
 なぜ?
 西脇は、なぜ、どちらかひとつにしなかったのだろうか。
 「美しい人間の/生命線である」、あるいは「孤独へ憧れる人間の/生命線である」と書いた方が、5行の「意味」は簡潔になりそうである。
 しかし、西脇は「美しい人間の孤独へ憧れる人間の/生命線である」と書く。

 「意味」のとりようはふたつある。ひとつは「美しい人間の/生命線」であり、同時に「孤独へ憧れる人間の/生命線である」。つまり、並列されている、と考える見方。こちらは「意味」がとりやすい。
 もう一つは、先に「電池の直列」と書いたのだが、並列ではなく、ふたつが「直列」であるという状態。あくまでも、それは直列につながり、直列のまま、「生命線である」ということばに結びつくのである、という考え方。
 では、その直列のつながりだと、「意味」はどうなる?
 実は、どうにもならない。「意味」は、まあ、どうでもいいのだ。「意味」を通り越して、あれ、何か、変なことばの動きだなあ。無理なエネルギーが動いているなあ、という感じ。つまり、ふつうのことば(学校教科書のことば)とは違った何かがここにあるぞ、という印象が残ればいいのだ。ふつうのことばでは言えないことを言おうとして、西脇は、「わざと」ことばを直列にしているのである。

 「直列」というのは、エネルギーを膨れ上がらせる方法なのである。

 この視点から、きのう読んだ「近代の寓話」の「に合流するのだ私はいま」という行もまた直列である。その1行自体「直列」だが、その行によって「考える故に存在はなくなる」というような形而上学的なことばと、「ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」ということばが「直列」になる。異質なことばが直列になって、いままで存在しなかったエネルギーを発散しながら動いてゆく。

 この直列を、きのう私は「つまずき」と書いたが、つまずくのは、そこに障害物があるからではなく、エネルギーが高まりすぎて、筋肉の中をそのエネルギーが暴走するからなのだ。

 直列のエネルギーと逸脱、あるいは暴走。逸脱・暴走による乱調。そこに西脇の美がある。乱調は、直列のエネルギーが大きいほどあざやかに乱れる。

女から
生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である
ギリシャの女神たちもこの線
を避けようとするのだ。
十二月の末から一月にかけて
この辺は非常に淋しいのだ。
コンクリートの道路が
シャンゼリゼのように広く
メグロの方へ捨てられた競馬場を
越えて柿の木坂へ走っているのが
あの背景はすばらしい夕陽。
さがみの山々が黒くうねって。
この夕焼けを見たら
あなたも私と同じように
恋愛の無限人間の孤独人間の種子の起源
のために涙が出そうに淋しく思うだろう。

 直列によってエネルギーが高まったことばは、もう、国語教科書的な動きはしない。「十二月の末から一月にかけて/この辺は非常に淋しいのだ。」は何気ない2行、非常に散文的な2行だが、とても変である。「この辺」って、どの辺? あとを読んでいけばわかるが、ふつうの散文では、まず場所を明確にし、そのあとで「この辺」という。「この」という指示代名詞は、それに先行するものがないと、何を「この」と呼んでいるかわからない。
 直列によって、ことばのエネルギーが高まっているため、ことばが先回りしてしまうのだ。あとでいうべきことが、倒置法のように、先になってしまうのだ。いいたいことを行ってしまったあとで、説明する。
 それだけではなく、その説明の過程で、ことばが散文的に散らばってしまうと(三万なると?)、ことばが徐々に直列の方向へ態勢を整え、むりやり直列になってしまう。

恋愛の無限人間の孤独人間の種子の起源

 読点「、」も1時アキもなしに連続したことば。
 西脇のことばは直列によってエネルギーを蓄え、暴走することによって、そのエネルギーを解放し、ふたたび直列をめざし、互いを呼び寄せ合う。
 そういう集中(直列)と解放(発散)を繰り返すが、その集中と発散が「乱調」なのである。集中なら集中、発散なら発散ではなく、それを繰り返す。そこに、入り乱れた美が生まれる。





西脇順三郎の世界 (1980年)
池谷 敏忠
松柏社

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山本純子「秋」、松下育男「ブランコのように」

2009-09-03 00:48:27 | 詩(雑誌・同人誌)
山本純子「秋」、松下育男「ブランコのように」(「交野が原」67、2009年10月01日発行)

 山本純子「秋」はことばの動きがとても自然である。「頭」で書くのではなく、「声」で書くひとだけがもっている自然な動きがある。耳で聞いてわかる距離へしかことばが跳ばない。(バッタのことを書いているので、ついつい、「跳ばない」ということに、連想がうごいてしまったようだが……。)
 その全編。

秋へ
足を踏み出すと
二時の方へ
十一時の方へ
五時の方へ
次々に
跳ぶものがいて

急いで
二時の方へ
行ってみると
細い草につかまって
ショリョウバッタが
ツンと横を向いている

今は
草になっているところ
という姿へ向かって
ここへ跳びたかったのかい
と聞くと

キチキチの
どこへ跳んでも草っぱら
と跳んでいくので

それなら
おどかすことを
恐れずに、と
気ままに足を踏み出すと

八時のほうへ
一時のほうへ
次々に
跳ぶものがいて

秋は私を
一人にしたがるのである

 「何時の方」というのは一回だけだとわかりにくいが、何度も出てくると時計を利用した方向だとわかる。(アメリカの戦争映画の兵士の指示みたいだね。)あっち、こっち、といわず、東西南北ともいわず、この時計をつかった方向の指示の仕方は、広い広い野原で、方向の基準が、いまいる点であることをはっきり教えてくれる。(これが、最後に、効果的にきいてくる。)
 バッタに誘われるままに、あっち、こっちとさまよい、

今は
草になっているところ

 というバッタに出会う。
 この2行は、いいなあ。バッタと遊んでいる。バッタが遊んでくれている。隠れん坊の子どもが「モクトンの術」なんていいながら、「木になっているんだから、見えないはず」と言っているような感じ。「童心」が、こんなふうに自然によみがえってくるのは、ここに書かれていることばが、「頭」ではなく、一度「声」をとおして書かれているからだろう。
 そんなバッタにさそわれながら、あっちこっち、どこまでも野原を動いていくが、バッタはつかまらない。いつまでも、つかまらない。
 ひとりぼっち。

 と、突然、「秋はセンチメンタル」という感じで「ひとりぼっち」の世界へまぎれこむ。「秋は、やっぱりひとりでセンチメンタルに浸らなくっちゃ。」バッタは、遊びながら、そんなことを、遠くから聞こえる「声」で語りかけてくる。
 こういうセンチメンタルは好きだなあ。
 ほんとうは、センチメンタルではない。でも、秋は、やっぱりセンチメンタルにならなくっちゃ。孤独になって、もの思いにふけらなくっちゃ。なんてことを、ちょっと軽口のように言ってみる。ひとに聞かせてみる。この軽さ。この、おかしさ。

 「声」というのは不思議なもので、「頭」のことばと違って、必ず相手がいることろで発せられる。(ひとりごと、という例外はあるけれど。)そして、相手がいるということは「ひとり」ではない、ということ。そういう状況で、あえて、センチメンタルを強調するように「一人」を状態を語る。「秋は私を/一人にしたがるのである」と。
 「秋」といっても、実際に、秋が人間に働きかけるなんてことはない。ここでの「秋」とは定型化した、「秋」という概念だね。
 その概念を、ちょっとからかっている。それが楽しい。



 松下育男「ブランコのように」は3行ずつの連が重なってひとつの詩になっている。その連の、3行目に工夫がある。

いつから乗っていただろう
はてなくこいで
いたような

いつから乗っていただろう
そらのたかさに
きらわれて

いつから乗っていただろう
どこへもいかない
のりものなんて

いつから乗っていただろう
水のちゅうしん
のみほして

いつから乗っていただろう
このよにいまだ
慣れません

いつから乗っていただろう
はてなくこいで
ゆくような

 中途半端に終わるのである。そうすることで、ことばが、「こころ」の中へ帰ってゆく。引き返してゆく。
 こういう動きをセンチメンタル、と私は呼んでいる。

 山本純子のセンチメンタルには、センチメンタルを笑う余裕があったが、松下のセンチメンタルにはそういう余裕がない。どっぷりと浸ってしまう。どこまでもどこまでも浸りつづけるために、中途半端にことばを終わるのである。
 終わりから2連目だけ「慣れません」という断定があるが、これは、最後の「ゆくような」という中途半端を強調するための、わざと書かれた断定である。
 「頭のいい」作品である。
 「慣れません」の連の前に、「水のちゅうしん/のみほして」と、考えないとイメージできないようなもの書いて、それが「哀しみ」であるかのように書いておいて、「このよにいまだ/慣れません」と断定する。
 そしてもう一度「ゆくような」と、「こころ」そのものを放り出してみせる。
 「いつから乗っていただろう」ということばの繰り返し、そして七五調のリズム。1行目は必ず「7+5」の12音で書き、そのあと2行目を「7」、3行目を「5」で書く。声に出すと気持ちよさそうだが、「頭」でつくられたリズムなので、私にはなんとも気持ち悪く響いてくる。センチメンタルというのは、「頭」でつくられるものだ、とあらためて思った。



 


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