監督 アンドレア・モライヨーリ 出演 トニ・セルヴィッロ、ヴァレリア・ゴリーノ、オメロ・アントヌッティ
冒頭に、とてもおもしろいシーンがある。狂言回しの役の子供が学校をさぼって家へ帰る。少女に、知恵おくれの男の車がちかづく。カメラは、それを遠くから写している。会話は聞こえない。(ちらりと「字幕」が少女の声を伝える。)
聞こえないけれど、話の内容は想像できる。――これが、村なのだ。小さな村なのだ。
そこでは何も起きないようにも感じられる。しかし、殺人事件が起きる。被害者は若い女性。美人だ。湖のほとりに、争った形跡もなく、裸体で横たわっている。
こんな小さな村では、犯人もすぐにわかる。誰もが誰もを知っている。不審な行動をとればすぐに分かってしまう。――はずだが、なかなか犯人が絞れない。
その犯人探しが映画のストーリーだが、犯人を探していく過程が、犯罪映画としてはとても変わっている。刑事は必死になって追ってはいるのだろうが、その追い方が「犯人」そのものを追うというよりも、なぜ、若い女性が抵抗もなく死を受け入れたのか、その真相を探ってゆく。犯人に対する怒り(?)、正義の追及というより、真理の追究。
真理は、心理でもある。
様々な登場人物(疑惑のある人物)の、動機を探る。若い女性が争わずに死を受け入れている(殺されている)ということの背景には、若い女性との「こころ」の問題が含まれるからである。女性とこころが通い合っている人間しか、そんな殺害の仕方ができないからである。
そこに事件を追及している刑事自身のこころもからんでくる。妻は痴ほう症で入院している。娘は母が家に不在なためにこころがすさんでいる。しかも、そのこころのすさみの原因は母が不在というよりも、父が真相を話してくれないということに対する不満から生じている。家族なのに、母のことを話してくれない。真理を話してくれない。――これはとても重要な伏線である。
同じことが、村でも起きているのだ。
小さな村。誰もが名前を知っている。顔を知っている。そればかりか、誰が何をしているか。誰と誰が恋愛しているか、憎みあっているかというようなことは、誰もが知っている。
けれども、誰にでも秘密がある。人に言えない悲しみがある。
刑事が、妻のこと、娘のことに悩んでいる。でも、そのことを誰かにこころを割って話すことはできない。娘とさえ、妻のことを、こころを割って話せない。話せば娘を傷つけると勝手に思い込んで、自己抑制している。
この「自己抑制」が、事件を見えなくしている。抑制された「心理」は、普通の状態にある心理よりも、もっと見えにくい。
映画は、映画に登場する人々の悲しみを静かに解きほぐしながら、丁寧に丁寧に進む。人間をひとりずつ丁寧に描写する。少し知恵の遅れた息子と暮らす老人。守らなけらばならない頭で分かっていても、この子がいなければと思ったことがあった。工場の労働でいらいらする若者。他人に馬鹿にされたくないので、被害者の女性とセックスをした、とウソをつく。被害者の女性を溺愛する父(自分の血は流れていない、妻の連れ子だ)、その父と姉の関係に不快感をもつ妹。障害を持った(?)息子の子育てに悩み続けた夫婦。真夜中に何度も起こされ、眠ることができない。ひそかに死んでくれればいいとさえ望んでしまう。誰もが自分の悩みを話せないまま、秘密にして生きている。小さな村ゆえに秘密にするしかない、ということもある。誰もが村人のことを何でも知っている。だからこそ、その知られていることを見せながら、その奥に、人間のいやらしい欲望を隠して生きていく。苦悩を隠して、「きれいごと」を生きていくのだ。
これは、せつない。とてもせつない映画でもある。
このせつなさを、映画のラストシーンが救う。
刑事は娘をつれて、妻の療養所を訪問する。妻は夫はもちろん、娘のことも思い出せない。娘は悲しむ。けれど、父は言うのだ。「お前を見て微笑んだよ。」ひとのこころがわからないなら、ひとのこころを、いい方に理解し、そう信じたっていいい。もし、その想像が互いをやさしく包むなら、それはそう信じた方がいい。
人は真理というよりも、信じたいことを信じて生きてゆく。