西脇の詩には「非情」の詩がある。「情」を拒絶した、「存在」の清潔な詩がある。「南画の人間」のなかほど。
シャカ堂道をのぼつて行くと
イーソップ物語の木版に出てくる
ような百姓がウナギを探しに来ていた。
彼らはロマン・ロランもロトレアモンも
知らない偉大な人間だ
数丈ある岩から山の藤豆が花の咲く
長い蔓(つる)をたらして旅人の頬をかする。
「非情」とともに生きている「イーソップ物語の木版に出てくる/ような百姓」はロマン・ロランもロートレアモンも知らない。けれど、偉大である。彼らは、自然を知っている。山藤の花が旅人の頬をかすることを知っている。それは、山藤からの「あいさつ」である。自然は、人間の「情」には配慮をしない。ひとが悲しんでいようが喜んでいようが、そういうことに配慮して、表情をかえるというようなことはしない。人間が、かってに、自分の感情を自然におしつけて、自然が自分といっしょに嘆いたり、悲しんだりしていると思い込むだけである。
自然は人間の「情」に配慮はしない。しかし、「あいさつ」はするのだ。
西脇の詩を読んでいると、ときどき「俳句」の世界に触れたような気持ちになるときがある。それは、そこに昔ながらの自然、ちいさな植物たちが丁寧に描かれているから--というよりも、そのことばが「あいさつ」に満ちているからだ。
誰かと出会い、何事かを話す。そのとき、話されたことばは「結論」をめざして動くわけではない。「やあ、こにんちは。お元気ですか? どうしています? 私は、いま、こんなことを考えています。あなたは、なにか新しいことを考えていますか? あ、それはおもしろそうですね」という具合だ。
そこにはことばを突き合わせ、何かを探し出すというようなやりとりはない。それぞれの「世界」を報告するだけだ。「過去」を確かめあう--それぞれが生きてきた「時間」を互いにたたえあう、というのに似ている。
この作品の、前半にある3行。
小山さんを尋ねたのはこの月だ。
郵便局のわきを曲つたとき突然
羅馬人のように「ジューピテル」と叫んだ。
小山さんが「ジューピテル」と叫んだという事実だけが書かれている。それに対する批評はない。「「ジューピテル」と叫んでしまう小山さんの「過去」と「いま」をただ受け止めている。受け止めた、と伝えるのが「あいさつ」である。
この作品の終わりも「あいさつ」である。
二人は庭を見ながら南画の人間の
ようにチョンマゲを結んで酒を汲み
かわした「雪が降つていたらいいんですがね」
宗時代の時期のかけらを眼を細くして
すかしてみた。「なるほどね」
ここでは、互いを受け止めるだけである。「いま」「ここ」で出会えてよかった--そういうことを、さまざまなことばで言い換える。それが「あいさつ」だ。
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