詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(81)

2009-09-09 07:49:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の詩には「非情」の詩がある。「情」を拒絶した、「存在」の清潔な詩がある。「南画の人間」のなかほど。

シャカ堂道をのぼつて行くと
イーソップ物語の木版に出てくる
ような百姓がウナギを探しに来ていた。
彼らはロマン・ロランもロトレアモンも
知らない偉大な人間だ
数丈ある岩から山の藤豆が花の咲く
長い蔓(つる)をたらして旅人の頬をかする。

 「非情」とともに生きている「イーソップ物語の木版に出てくる/ような百姓」はロマン・ロランもロートレアモンも知らない。けれど、偉大である。彼らは、自然を知っている。山藤の花が旅人の頬をかすることを知っている。それは、山藤からの「あいさつ」である。自然は、人間の「情」には配慮をしない。ひとが悲しんでいようが喜んでいようが、そういうことに配慮して、表情をかえるというようなことはしない。人間が、かってに、自分の感情を自然におしつけて、自然が自分といっしょに嘆いたり、悲しんだりしていると思い込むだけである。
 自然は人間の「情」に配慮はしない。しかし、「あいさつ」はするのだ。

 西脇の詩を読んでいると、ときどき「俳句」の世界に触れたような気持ちになるときがある。それは、そこに昔ながらの自然、ちいさな植物たちが丁寧に描かれているから--というよりも、そのことばが「あいさつ」に満ちているからだ。
 誰かと出会い、何事かを話す。そのとき、話されたことばは「結論」をめざして動くわけではない。「やあ、こにんちは。お元気ですか? どうしています? 私は、いま、こんなことを考えています。あなたは、なにか新しいことを考えていますか? あ、それはおもしろそうですね」という具合だ。
 そこにはことばを突き合わせ、何かを探し出すというようなやりとりはない。それぞれの「世界」を報告するだけだ。「過去」を確かめあう--それぞれが生きてきた「時間」を互いにたたえあう、というのに似ている。
 この作品の、前半にある3行。

小山さんを尋ねたのはこの月だ。
郵便局のわきを曲つたとき突然
羅馬人のように「ジューピテル」と叫んだ。

 小山さんが「ジューピテル」と叫んだという事実だけが書かれている。それに対する批評はない。「「ジューピテル」と叫んでしまう小山さんの「過去」と「いま」をただ受け止めている。受け止めた、と伝えるのが「あいさつ」である。

 この作品の終わりも「あいさつ」である。

二人は庭を見ながら南画の人間の
ようにチョンマゲを結んで酒を汲み
かわした「雪が降つていたらいいんですがね」
宗時代の時期のかけらを眼を細くして
すかしてみた。「なるほどね」

 ここでは、互いを受け止めるだけである。「いま」「ここ」で出会えてよかった--そういうことを、さまざまなことばで言い換える。それが「あいさつ」だ。





西脇順三郎変容の伝統 (1979年)
新倉 俊一
花曜社

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郡宏暢「朝」、岡崎よしゆき「ラストシーン」、谷口哲郎「詩編2」

2009-09-09 00:05:24 | 詩(雑誌・同人誌)
郡宏暢「朝」、岡崎よしゆき「ラストシーン」、谷口哲郎「詩編2」(「詩誌酒乱」3、2009年07月10日発行)

 郡宏暢「朝」は「肉体」を感じさせることばである。特別新しいことばの運動があるというのではないけれど、まず、自分の肉体からことばを動かす、という詩が私は好きだ。安心して読むことができる。
 2連目。

体温を失ったすべてのものを、今は食糧と呼ぼう
湿った皮脂の古く沈んだシーツと
不衛生な食後
--それが私の形だった
ぬるい呼吸の聴こえてくるテレビの前に座り
米つぶのこびりついた言葉を吐く
食卓の傍らに置いた石油鑵からは鰯が溢れ
水平線を対角に押し潰したような歪んだ鉄函の中で
次第にすり身になっていゆく身体を抱えたまま
ぴちぴちと飛び跳ねている
そして
誰かの口臭のような健康が欲しい と
濁ったガラス窓に
もう一度、朝を
閉じ込めようとしている

 「湿った皮脂の古く沈んだシーツ」ということばが、郡の肉体だけではなく、「ぬるい呼吸の聴こえてくるテレビ」という具合に、他人の肉体にまで感染していく(?)感じが、手触りがあってとてもいい。それが、「口臭のような健康」という強靱なものにまでかわっていくのが、とてもいい。
 3連目には、

もう、爽快なひと言は要らない
ただ、あなたの具体的な歯形が欲しい。あるいは

 という行もある。「健康」とは、「体臭」(1連目)や「口臭」「歯形」のようなものをすべて受け入れる力のことである、とあらためて思った。



 岡崎よしゆき「ラストシーン」はなんだかなつかしいことばの運動である。「酒乱」3は「八〇年代詩を考える」という特集をやっているが、60-70年代という感じがする。ことばの選択、ひらがなのつかい方などにそういう「におい」を感じる。もちろん60-70年代にも、80年代にも、そして現在でもさまざまな詩が書かれているから、これは私が70年代にそういう作品を多く読んだ記憶があるということしか意味しないのかもしれないけれど。

とおくで
わられたガラスの音が地平線にひびきわたり
ひとが
世界ということばを意識するとき
おちてゆく鳥の飛翔にも
夕陽は濡れて
高架橋をはしる電車にもきっと意味があったりするのだと
だれもがそう思いたくなる
みずによって
しつらえられた罫線を風にひくと
そこから彩雲がながれこむ
問うための
根拠
などはどこにもありはしない

 「ありはしない」という「敗北」の美学。センチメンタルは私は好きではないが、岡崎の文体はきちんとしている。そのことはとても気持ちがいい。



 谷口哲郎「詩編2」は「ばあさん」の書いたはがきからの引用と、それに触発されたことばの運動である。私は、誰かのことばを引き継いで、そのことばの運動を生きてみるということにとても関心がある。途中までは、とてもおもしろく読んだ。
 ところが、次の部分でつまずいてしまった。

はこばれたふうけいに
あじさいのかおりはにんじんで
いつもならしょくたくにあるぱんもない

 「にんじんで」は「にじんで」なのかなあ。よくわからない。それは、まあ、わからなくてもいいのだけれど。次の「ぱん」ということば。
 私が読んだ印象でいえば、「ばあさん」の語っていることは、「いま」ではなく、戦中・戦後という感じがするのだけれど、その時代に「ぱん」が出てくることになじめなかった。もちろん、戦中・戦後にパンを食べていたひとはいるだろうけれど。

 郡の詩に感じた「肉体」が、谷口の詩から感じられなかった。岡崎の作品が「過去」から学んだことばの運動をていねいに復習しているのだとしたら、谷口の復習の仕方はだいぶ不足している、と思った。



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