詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(80)

2009-09-08 07:19:07 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「梅のにがさ」。その書き出しの3行。

五月の末むさしのの女達をたずねて
くぬ木の夢もはかない昔いた梅の
庭へ迷い込んだのだ。

 2行目の「くぬ木の夢もはかない」は、この作品の他の行とどんな関係にあるのだろうか。どの行とも関係がない。「くぬ木」は、その後、この作品には出てこない。「くぬ木の夢もはかない」は、ない方がことばの「意味」がとおりやすいといえる。
 けれども西脇は、その余分な(?)ことばを書く。
 意識とは、いつでも逸脱するものである。逸脱しながら、逸脱することで、新しい刺戟に触れ、ことばが動きはじめるためのエネルギーを獲得する。

オリーブ色の芝生を越え
下を向いて歩いた。
芝の花は人間の眼には
あまりに小さすぎる。
その唐紅(とうべに)の色は
人間の恋より偉大だが
芝生をみつめる女の涙を通してだけ
その花を発見するのだ。

 これは、「昔いた梅の/庭」を歩いているときの感想だが、「くぬ木の夢もはかない」という逸脱があったからこそ、芝の花の「唐紅の色は/人間の恋よりも偉大」というような飛躍が、飛躍ではなく、軽い逸脱になる。「はかない」が「恋」と「女の涙」を呼び寄せ、「昔」を清潔にする。
 「くぬ木の夢もはかない」という逸脱がなかったら、単なるセンチメンタルになる。つまり、「人間の恋」「女の涙」は、こだわりに、情のからんだものになる。「くぬ木の夢もはかない」が、ことば全体から「情」を洗い流すのだ。
 「情」を洗い流したあと、何が残るか。

八年はもう過ぎ去りあの梅園
枝をのばしみどりの実がふくらむ
くちなしの藪がしげる窓
からのぞいてみた。
『まだ梅はにがすぎる。

 この「まだ梅はにがすぎる。」の美しさ。自然のもっている非情、野蛮。人間の「情」にはいっさい配慮しないもの。ただ、自分のいのちをまっとうに育てる、その力だけがのこる。
 くちなしのころの梅は、まだ青い。青梅は毒、といわれるくらい、にがい。
 西脇の詩の美しさは、こういう自然を知っていることである。旬の味だけではなく、それが大きくなる前の、未熟な味を知っていることである。(エッセイに、熟す前の、まだ渋が白くて、水気の多い実の味について書いたものがあったはずである。)
 その「未熟な味」こそ、「センチメンタル」以前の、「はかない夢」である。

『まだ梅はにがすぎる。
お前もアップルパイかせんべいでも
コカコーラでも紅茶でも飲んでよ
お前の頭髪は長すぎる
短くお刈りなさい』と云つて
真紅なおしべをつけた姫百合
をさした花瓶の影から水色の
一人の女がピカソの作つた皿を出した。

 「はかない夢」を通って、ひとは「人間」になるということを知っているもの、「女の涙」をくぐりぬけたものは、知っているがゆえに、すべてを洗い流す「梅のにがさ」を、ただ「存在」としてそこに提出するのだ。
 それも、意味を拒絶して、わからなくていい、という感じで。
「意味」を拒絶して、ただ、ことばを独立させる。
 この運動は、そのつづきにこそ、よくあらわれている。「真紅」と「水色」の対比。対比は美しいが、では、その「水色」は何の色? 考えると、いろいろなものが「水色」に見えてくる。「一人の女」が「水色」かもしれない。ピカソの作った皿かもしれない。そうではなくて、「花瓶の影」そのものかもしれない。花瓶の影が水色だから、そこから女やピカソの皿が登場できるのだ。
 「花瓶の影」が「水色」だとすると、ことばの順序が違う?
 もちろん違う。
 しかし、詩は、国語の教科書ではない。詩は、教科書文法で書かれているわけではない。「くぬ木の夢もはかない昔いた梅の」というような奇妙なことばは教科書国語にはない。論理的な「文体」(構造)による詩もあるのだけれど、西脇は、そういう論理的構造の詩よりも、ことばが独立して、独立することで乱反射する乱調の美を描いているのだから、「花瓶の影」こそ「水色」であっていいのだ。

 という読み方は、強引すぎるだろうか。

 だが、私は「影」を「水色」と読みたいのだ。詩の、最後を読むと、特にそういう気持ちになる。

今日は新しい女神がこの大学
の校長になる儀式だ。
梅の樹のまたに腰掛けて
女神たちのささやきが終るまで
パイプをすいながら待つていた。
さびれた頭がふるえるのだ。

 青い梅。苦い梅の下で「水色」を思う。それは、ブルーよりも、みどりに近い水色かもしれない。繊細な美しさ。「過去」が、頭のなかでふるえる。「過去」は過ぎ去る。「はかない」夢は昔。今は、ただ青い梅のにがさが、そこにある。
 「水色」は青い梅の「にがさ」の色なのだ。






西脇順三郎の世界 (1980年)
池谷 敏忠
松柏社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小川三郎「雪だるま」

2009-09-08 00:37:07 | 詩(雑誌・同人誌)
小川三郎「雪だるま」(「詩誌酒乱」3、2009年07月10日発行)

 小川三郎「雪だるま」の書き出しの2行に非常に驚いた。

いくら渡せば
その雪を私にくれますか。

 まず驚いて、それから、驚いてしまったことに、もう一度驚いた。何かを買う--というのは、現代ではあたりまえのことである。買うという行為を通して世界が動いている。買うということは「いくら」か、相手の求めるものを払うことである。ここには何の不思議はない。何の不思議はないのだけれど、やはり驚いた。そして、なぜ、驚いたのだろうか、とかんがか始めた。
 買う--その対象が「雪」だからだろうか。「花」だったら、驚かなかっただろうか。どうも違う。
 私は、「いくら渡せば/その雪を私にくれますか。」の「いくら渡せば」「私にくれますか」という切羽詰まったような文体に驚いたのだ。私は、「……をください」という表現はつかう。「いくらですか」という表現もつかう。けれども、「いくら渡せば……を私にくれますか」とは言わない。
 あ、まるで身代金目的の誘拐犯人と交渉しているみたいじゃないか。
 私が驚いたのは、たぶん、そのせいである。「いくら渡せば、娘をかえしてくれますか?」というような感じで、何かを買うということは、したことがない。

 金(かね)ということばはつかわれていないが、まるで「金」が「もの」として見えてきたのである。今はカードが支払いの多くを占める世の中になって、「金」そのものが抽象的な「数字」になってしまっているが、何といえばいいのか、金の暴力が、ふいに浮かび上がって見えてきたのである。
 労働の代価、といえば聞こえがいいが、金は暴力である。物々交換のときは、ほしいものを自分がつくったものと交換した。そのとき、自分がつくったもののなかには具体的汗というか、時間があった。けれど、それが金に換わった瞬間から、ほんとうはそこにあるはずの汗や時間、苦労、あるいはよろこびというものが、抽象的な「数字」になってしまって、「実感」というものが消されてしまった。金は、労働を「消去」してしまう暴力である。カードは、その金さえも直接手渡ししないので、もっと暴力的である。お札や小銭を数えない。ただ頭のなかで(?)数字を動かすだけである。
 この暴力のいちばん悪質なところは、それが暴力的に見えないことである。

 その、見えなかった「暴力」が、一瞬、ふっと、目の前をよぎったのである。自分の時間を犠牲にして稼ぐ金--その「いくら」を費やせば、雪を渡してもらえるのか。「買う」のではなく、「くれる」、つまり相手の手元から自分へと渡してもらう。そのために、それまでにつかってきた「時間」(労働)を「いくら」(幾日、幾時間)渡せばいいのか。
 いまでは抽象的になってしまった金のやりとりが「金」と「もの」(雪)の「物々交換」のように見えてしまった。
 「物々交換」というあり方を浮かび上がらせることばの動きに私はびっくりしてしまったのである。

 2連目以降は、その雪で「雪だるま」を「ふたつ」つくりたいという「私」の夢が語られる。
 なぜ、「ひとつ」ではなく「ふたつ」?
 労働し、金を稼ぐ。そして、その金で何かを買う。買って、暮らしていく。そのなかには「ひとつ」ではないものがある。「ふたつ」の存在があってはじめて成り立つ何かがある。そういうことが関係しているかもしれない。
 小川は、具体的には書いていないが、私は最初の2行の「暴力的」なことばの動きから、そういうものを考えてしまった。
 「ふたつ」はもしかすると、買うとは無縁のことかもしれない。
 たとえば、愛。
 男と女。ふたつ(ふたり)のいのち。そこで何かをやりとりする。気持ち、こころ。そこには悲しみや憎しみもあるかもしれない。それがなんであれ、何かが行き来する。そして、その行き来には、現実の「経済」と違って、金は動かない。金という「暴力」を仲立ちにしないで動くものがある。
 その、目に見えないもの--それを見るために、「私」は、雪を、雪だるまを切実にほしいと思っている。

私のつくる雪だるまは
きっと無表情だろうけど
何かを主張するわけでも
ひとを幸福にするわけでもないけれど
確かにそれはふたつあって
なによりそれは、雪だるまであって
明日には溶ける運命を
誰にも渡さずに持っている。

生まれたままに見る悪夢を
わななく夜空に向かって
大の字に広げたい
儚いとはいえ
終わることを考えるのは
人間だけですから
そういう習性なんです
いつでもどこでも。
だから嫌われるのですが。

 「嫌われる」--けれど、嫌われるものにもいのちがある。そして、嫌うものにもいのちがある。そのいのちは、金とは違って、やがて終わる。終わるしかないものが、金の暴力に突き動かされて、疲れ切っている。
 その悲しみを感じた。
 
 小川は、金の暴力を肉体で感じる詩人なのだと思った。そして、また、いま、こういう作品が書かれないのは(私が知らないだけなのかもしれないが)、なぜなのだろうか、とも思った。私たちは金の暴力に、もう馴らされきってしまっているのだろうか。「高速道路無料化」とか「子ども手当て」とか、甘い甘い暴力が、暴力の姿を隠して、すぐそこまで来ているが……。






流砂による終身刑
小川 三郎
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする