「梅のにがさ」。その書き出しの3行。
五月の末むさしのの女達をたずねて
くぬ木の夢もはかない昔いた梅の
庭へ迷い込んだのだ。
2行目の「くぬ木の夢もはかない」は、この作品の他の行とどんな関係にあるのだろうか。どの行とも関係がない。「くぬ木」は、その後、この作品には出てこない。「くぬ木の夢もはかない」は、ない方がことばの「意味」がとおりやすいといえる。
けれども西脇は、その余分な(?)ことばを書く。
意識とは、いつでも逸脱するものである。逸脱しながら、逸脱することで、新しい刺戟に触れ、ことばが動きはじめるためのエネルギーを獲得する。
オリーブ色の芝生を越え
下を向いて歩いた。
芝の花は人間の眼には
あまりに小さすぎる。
その唐紅(とうべに)の色は
人間の恋より偉大だが
芝生をみつめる女の涙を通してだけ
その花を発見するのだ。
これは、「昔いた梅の/庭」を歩いているときの感想だが、「くぬ木の夢もはかない」という逸脱があったからこそ、芝の花の「唐紅の色は/人間の恋よりも偉大」というような飛躍が、飛躍ではなく、軽い逸脱になる。「はかない」が「恋」と「女の涙」を呼び寄せ、「昔」を清潔にする。
「くぬ木の夢もはかない」という逸脱がなかったら、単なるセンチメンタルになる。つまり、「人間の恋」「女の涙」は、こだわりに、情のからんだものになる。「くぬ木の夢もはかない」が、ことば全体から「情」を洗い流すのだ。
「情」を洗い流したあと、何が残るか。
八年はもう過ぎ去りあの梅園
枝をのばしみどりの実がふくらむ
くちなしの藪がしげる窓
からのぞいてみた。
『まだ梅はにがすぎる。
この「まだ梅はにがすぎる。」の美しさ。自然のもっている非情、野蛮。人間の「情」にはいっさい配慮しないもの。ただ、自分のいのちをまっとうに育てる、その力だけがのこる。
くちなしのころの梅は、まだ青い。青梅は毒、といわれるくらい、にがい。
西脇の詩の美しさは、こういう自然を知っていることである。旬の味だけではなく、それが大きくなる前の、未熟な味を知っていることである。(エッセイに、熟す前の、まだ渋が白くて、水気の多い実の味について書いたものがあったはずである。)
その「未熟な味」こそ、「センチメンタル」以前の、「はかない夢」である。
『まだ梅はにがすぎる。
お前もアップルパイかせんべいでも
コカコーラでも紅茶でも飲んでよ
お前の頭髪は長すぎる
短くお刈りなさい』と云つて
真紅なおしべをつけた姫百合
をさした花瓶の影から水色の
一人の女がピカソの作つた皿を出した。
「はかない夢」を通って、ひとは「人間」になるということを知っているもの、「女の涙」をくぐりぬけたものは、知っているがゆえに、すべてを洗い流す「梅のにがさ」を、ただ「存在」としてそこに提出するのだ。
それも、意味を拒絶して、わからなくていい、という感じで。
「意味」を拒絶して、ただ、ことばを独立させる。
この運動は、そのつづきにこそ、よくあらわれている。「真紅」と「水色」の対比。対比は美しいが、では、その「水色」は何の色? 考えると、いろいろなものが「水色」に見えてくる。「一人の女」が「水色」かもしれない。ピカソの作った皿かもしれない。そうではなくて、「花瓶の影」そのものかもしれない。花瓶の影が水色だから、そこから女やピカソの皿が登場できるのだ。
「花瓶の影」が「水色」だとすると、ことばの順序が違う?
もちろん違う。
しかし、詩は、国語の教科書ではない。詩は、教科書文法で書かれているわけではない。「くぬ木の夢もはかない昔いた梅の」というような奇妙なことばは教科書国語にはない。論理的な「文体」(構造)による詩もあるのだけれど、西脇は、そういう論理的構造の詩よりも、ことばが独立して、独立することで乱反射する乱調の美を描いているのだから、「花瓶の影」こそ「水色」であっていいのだ。
という読み方は、強引すぎるだろうか。
だが、私は「影」を「水色」と読みたいのだ。詩の、最後を読むと、特にそういう気持ちになる。
今日は新しい女神がこの大学
の校長になる儀式だ。
梅の樹のまたに腰掛けて
女神たちのささやきが終るまで
パイプをすいながら待つていた。
さびれた頭がふるえるのだ。
青い梅。苦い梅の下で「水色」を思う。それは、ブルーよりも、みどりに近い水色かもしれない。繊細な美しさ。「過去」が、頭のなかでふるえる。「過去」は過ぎ去る。「はかない」夢は昔。今は、ただ青い梅のにがさが、そこにある。
「水色」は青い梅の「にがさ」の色なのだ。
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