斉藤倫『さよなら、柩』(3)(思潮社、2009年07月30日発行)
きのうの「日記」には余分なことを書いてしまった。斉藤の詩の魅力を伝えるには、まあ、書かなくていいことだったかもしれない。頭がいい、とか「哲学している」なんてことは、きっと読む気をそぐだけだろうなあ、と反省している。--でも、まあ、私は、書き直すというようなめんどうなことはしないので、きょうは別なことを書こう。
斉藤のことばは読みやすい。リズムがある。リズムがあるということは、たぶん、余分なものを書かない、ということと関係しているのだと思う。(余分なことを書かないのは、頭がいいから--とまたまた、書いてしまうのだが……。)
「バビロン」という作品。
ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
はりぼてじゃないか
あんちょこじゃないか
ぼくはまた
いまだかつてないクイズ番組が
スタートしたかと
わくわくしちゃったじゃないか
何が書いてあるか。何も書いてないと私は思う。何も書かなくても、ことばは動く。「じゃないか」ということばがリズムをつくっている。
そして、この「じゃないか」が、なんとも「くせもの」である。
「ない」という「否定」のことばを含んでいる。「否定」をふくむことで、ことばが突き進む。「否定」を含むということは、「肯定」される「ほんとう」がどこかにある。「いんちき」じゃないものが、どこかにある。少なくとも「いんちき」ではないもの、「ほんもの」を斉藤が知っていると感じさせる。
だから、その「ほんもの」がきっと書かれるはずだ、と思って、誘い込まれる。その誘い方と、軽いリズムがとてもうまくあっている。
斉藤の詩は、書かれている(印刷されている)のだが、こういうリズムと「口語」を読むと、きっと、斉藤は、ことばというものを、きちんと「声」にだして伝える習慣があるのだと感じる。話し相手の表情を見ながら、どこまで理解しているかを的確に判断しながら、つぎのことばを選び、それを声にするという習慣がしっかり身についているのだと感じる。
とても安心する。
ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
よく見たら
ファファのファーが
いたることろに貼ってあるじゃないか
おしゃれじゃないか
ぼくはまた
オープンカーで走ったら
女の子が降ってくる国かと
コウフンしちゃったじゃないか
「おしゃれじゃないか」が、ずるい。ずるい、というと否定的になってしまうけれど、あ、頭いいっ、と思ったとき、思わず「ずるい」と言ってしまうときの、あの「ずるい」。(ごめんね、また、頭がいい、と書いてしまった。)
1連目の「じゃないか」は全部否定。「いま」「ここ」にあるものが「いんちき」であって、「ほんもの」はどこかにあるという意識からはじまる「否定」。けれど「おしゃれじゃないか」は違う。これは「絶対肯定」。「とても、おしゃれ」という意味。
そうなんだねえ。「ない」には「否定」と「肯定」が入り乱れている。ことばなんて、すべて、そうなっている。否定的意味にも、肯定的意味にもつかうことができる。文字だとわからないけれど、「声」でなら、「大嫌い」と言っても「大好き」になる。「ばか」と言っても「愛してる」という意味にもなる。
むかし、「ラストワルツ」か「ラストソング」か忘れたけれど、若い女が中年の男の胸を叩きながら「アイ・ラブ・ユー」を連発する。死んでしまったと思っていたら、生きて歩いてくる。その男を見て、興奮して、そう口走る。そのときの字幕。だれが訳したのか知らないけれど「ばか、ばか、ばか」。ね、状況次第で、それが「好き、好き、大好き」になる。
2連目で「じゃないか」を、そんなふうにずらして、それから、ことばはとんでもない(?)動きをする。
ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
花嫁かとおもったら
部長じゃないか
どこまでが股上かわからないじゃないか
夢かとおもったじゃないか
幸せかとおもったじゃないか
ヘイ ヘイ
ばらを咥えたまま
近所に買い物なんて本当にいんちき
でもここに
たどりつくまで
ずいぶん遠回りしちゃったなあ
詩全体としては、何か予想外のものを見てしまって(?)、そのときの興奮を書いているのだろうけれど、それが本当に買い物をする部長かどうかは知らない。そういうことは、まあ、私はどうでもいいなあ、と考える。
リズムと口調が楽しければそれでいい。
そして、
夢かとおもったじゃないか
幸せかとおもったじゃないか
この2行。この「ない」は「否定」、それとも「肯定」?
びっくりしたときというのは、それを「否定」していいのか、「肯定」していいのか、一瞬わからなくなるね。そのわからない感じを、わからない感じのまま、きちんとことばにする。あ、すごいなあ。「おもった」は、そのまえにも出てくるのだけれど、「おもった」が、この否定、肯定の入り乱れた(?)感覚をいっそう複雑にする。「おもった」ことは間違い? でも、間違えて、くやしいの? うれしいの? 両方。矛盾ではなく、両方。
私はよく、矛盾のなかに思想がある、と書くのだけれど、斉藤は矛盾のかわりに「両方」一緒の状態なのかに思想があるといいそうだなあ。
最後に、念押し。
最終行がすごい。ここだけ「じゃないか」がつかわれていないじゃないか。(わざと、つかってみました。)
「ずいぶん遠回りしちゃったじゃないか」と書いても「意味」はかわらない。かわらない、と思い込んでしまうが、ほんとうは違う。「ずいぶん遠回りしちゃったじゃないか」だと、ことばがつづいていってしまう。最初に書いたように、「じゃないか」は否定を含んでいる。それも、どこかに「肯定」があるということを前提とした「否定」である。「じゃないか」で終わってしまうと、読者は(わたしだけ?)「肯定」を無意識に探してしまう。それでは、「語り」にならない。「語り」というのは、「はい、きょうは、これでおしまい」という安心感が必要なのだ。
最終行から「ない」という「否定」を取り除くことで、斉藤は、この詩をとても落ち着きのあるもの、安心感のあるものにしている。
斉藤が何をしている人(職業のことだけれど)か知らないけれど、きっと話を聞くと、そのまま、そのことばを全部信じてしまいそう。そういうリズムと、明解さと、しなやかさがある。