詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(92)

2009-09-20 06:55:08 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 異質なものの出会い、「俗」の乱入。それは、西脇の乱調の美学によるものだろう。乱調というのは、意識の脱臼だ。脱臼された世界--そこでは、ものがものとして存在する。ことばとものとが直接出会う。つまり、ことばが、ある意識によって統合された状態ではなく、意識が解体された状態で、独立して動く。
 それは、あたらしいことばの運動の可能性でもある。巨大な哲学(?)を構築する動きをとらないので、その運動は、可能性という視点からはとらえにくいが、それは、私たちに(私だけかもしれないが)、そういう世界を構築する視点が欠けているからにすぎない。すべての構築は、解体をしないことにははじまらないのだから。
 「アタランタのカリドン」の、ことばの不思議な出会い。

深沢のおかみさん
一生色ざめた桃色の腰巻きを
して狼のようにうそぶく
その頬骨のために
ピカソの作つた皿をあげる
雪女(ゆきおんな)の庭に春が来る
生きていた時紫のタビをはいた
女にあげる
あらびあ語に訳した伊勢物語を

 「色ざめた桃色の腰巻き」がいちばん魅力的だが、「頬骨のために/ピカソの作つた皿をあげる」の「頬骨」と「ピカソの皿」の取り合わせが、なんともいえず、「頬骨」を明るくする。強烈にする。「あらびあ語」と「伊勢物語」も、とてもおもしろい。
 こうした取り合わせを、私は「乱調」、あるいは「脱臼」と呼んでいるが、西脇自身は、別のことばをつかっている。その「西脇用語」の出てくる部分。

ピカソ人は
皿の中に少年を発見
少年の中に皿を発見
野ばらの中に人間
人間の中に野ばらを発見
野ばらの愛は
人間の中の野ばらの情感
野ばらとしての人間
人間としての野ばら
生命が野ばらと人間とに分裂した
がまだその記憶がにじんでいる
野ばらと人間の結婚
この生垣をのぞく
女の庭

 「取り合わせ」を西脇は「結婚」という。(フランス語で、料理と取り合わせの妙を「マリアージュ」というのに似ている。)そして、「脱臼」(解体)は「分裂」ということになるのだが、そのことばよりも重要なのは「記憶がにじんでいる」である。
 世界を解体する--そのとき、世界の存在が、ものが、もの自身が、孤立するのだが、その孤立の中に、人間が、そのものと一体だったころの「記憶がにじんでいる」。「記憶がにじんでいる」からこそ、解体した世界のなかで、そのものが、人間に直接触れてくる。他のものをおしのけて、たとえば「野ばら」が。野生のいのちが。

 そして、この「記憶がにじんでいる」感じが「淋しい」である。
 詩は、「もの」ににじんでいる「記憶」の発見--「もの」から人間のにじんでいる記憶を引き出すことである。




西脇順三郎のモダニズム―「ギリシア的抒情詩」全篇を読む
沢 正宏
双文社出版

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斉藤倫『さよなら、柩』(3)

2009-09-20 00:01:59 | 詩集
斉藤倫『さよなら、柩』(3)(思潮社、2009年07月30日発行)

 きのうの「日記」には余分なことを書いてしまった。斉藤の詩の魅力を伝えるには、まあ、書かなくていいことだったかもしれない。頭がいい、とか「哲学している」なんてことは、きっと読む気をそぐだけだろうなあ、と反省している。--でも、まあ、私は、書き直すというようなめんどうなことはしないので、きょうは別なことを書こう。
 斉藤のことばは読みやすい。リズムがある。リズムがあるということは、たぶん、余分なものを書かない、ということと関係しているのだと思う。(余分なことを書かないのは、頭がいいから--とまたまた、書いてしまうのだが……。)
 「バビロン」という作品。

ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
はりぼてじゃないか
あんちょこじゃないか
ぼくはまた
いまだかつてないクイズ番組が
スタートしたかと
わくわくしちゃったじゃないか

 何が書いてあるか。何も書いてないと私は思う。何も書かなくても、ことばは動く。「じゃないか」ということばがリズムをつくっている。
 そして、この「じゃないか」が、なんとも「くせもの」である。
 「ない」という「否定」のことばを含んでいる。「否定」をふくむことで、ことばが突き進む。「否定」を含むということは、「肯定」される「ほんとう」がどこかにある。「いんちき」じゃないものが、どこかにある。少なくとも「いんちき」ではないもの、「ほんもの」を斉藤が知っていると感じさせる。
 だから、その「ほんもの」がきっと書かれるはずだ、と思って、誘い込まれる。その誘い方と、軽いリズムがとてもうまくあっている。
 斉藤の詩は、書かれている(印刷されている)のだが、こういうリズムと「口語」を読むと、きっと、斉藤は、ことばというものを、きちんと「声」にだして伝える習慣があるのだと感じる。話し相手の表情を見ながら、どこまで理解しているかを的確に判断しながら、つぎのことばを選び、それを声にするという習慣がしっかり身についているのだと感じる。
 とても安心する。

ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
よく見たら
ファファのファーが
いたることろに貼ってあるじゃないか
おしゃれじゃないか
ぼくはまた
オープンカーで走ったら
女の子が降ってくる国かと
コウフンしちゃったじゃないか

 「おしゃれじゃないか」が、ずるい。ずるい、というと否定的になってしまうけれど、あ、頭いいっ、と思ったとき、思わず「ずるい」と言ってしまうときの、あの「ずるい」。(ごめんね、また、頭がいい、と書いてしまった。)
 1連目の「じゃないか」は全部否定。「いま」「ここ」にあるものが「いんちき」であって、「ほんもの」はどこかにあるという意識からはじまる「否定」。けれど「おしゃれじゃないか」は違う。これは「絶対肯定」。「とても、おしゃれ」という意味。
 そうなんだねえ。「ない」には「否定」と「肯定」が入り乱れている。ことばなんて、すべて、そうなっている。否定的意味にも、肯定的意味にもつかうことができる。文字だとわからないけれど、「声」でなら、「大嫌い」と言っても「大好き」になる。「ばか」と言っても「愛してる」という意味にもなる。
 むかし、「ラストワルツ」か「ラストソング」か忘れたけれど、若い女が中年の男の胸を叩きながら「アイ・ラブ・ユー」を連発する。死んでしまったと思っていたら、生きて歩いてくる。その男を見て、興奮して、そう口走る。そのときの字幕。だれが訳したのか知らないけれど「ばか、ばか、ばか」。ね、状況次第で、それが「好き、好き、大好き」になる。
 2連目で「じゃないか」を、そんなふうにずらして、それから、ことばはとんでもない(?)動きをする。

ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
花嫁かとおもったら
部長じゃないか
どこまでが股上かわからないじゃないか

夢かとおもったじゃないか
幸せかとおもったじゃないか

ヘイ ヘイ
ばらを咥えたまま
近所に買い物なんて本当にいんちき
でもここに
たどりつくまで
ずいぶん遠回りしちゃったなあ

 詩全体としては、何か予想外のものを見てしまって(?)、そのときの興奮を書いているのだろうけれど、それが本当に買い物をする部長かどうかは知らない。そういうことは、まあ、私はどうでもいいなあ、と考える。
 リズムと口調が楽しければそれでいい。
 そして、

夢かとおもったじゃないか
幸せかとおもったじゃないか

 この2行。この「ない」は「否定」、それとも「肯定」?

 びっくりしたときというのは、それを「否定」していいのか、「肯定」していいのか、一瞬わからなくなるね。そのわからない感じを、わからない感じのまま、きちんとことばにする。あ、すごいなあ。「おもった」は、そのまえにも出てくるのだけれど、「おもった」が、この否定、肯定の入り乱れた(?)感覚をいっそう複雑にする。「おもった」ことは間違い? でも、間違えて、くやしいの? うれしいの? 両方。矛盾ではなく、両方。
 私はよく、矛盾のなかに思想がある、と書くのだけれど、斉藤は矛盾のかわりに「両方」一緒の状態なのかに思想があるといいそうだなあ。

 最後に、念押し。
 最終行がすごい。ここだけ「じゃないか」がつかわれていないじゃないか。(わざと、つかってみました。)
 「ずいぶん遠回りしちゃったじゃないか」と書いても「意味」はかわらない。かわらない、と思い込んでしまうが、ほんとうは違う。「ずいぶん遠回りしちゃったじゃないか」だと、ことばがつづいていってしまう。最初に書いたように、「じゃないか」は否定を含んでいる。それも、どこかに「肯定」があるということを前提とした「否定」である。「じゃないか」で終わってしまうと、読者は(わたしだけ?)「肯定」を無意識に探してしまう。それでは、「語り」にならない。「語り」というのは、「はい、きょうは、これでおしまい」という安心感が必要なのだ。
 最終行から「ない」という「否定」を取り除くことで、斉藤は、この詩をとても落ち着きのあるもの、安心感のあるものにしている。

 斉藤が何をしている人(職業のことだけれど)か知らないけれど、きっと話を聞くと、そのまま、そのことばを全部信じてしまいそう。そういうリズムと、明解さと、しなやかさがある。

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