詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(79)

2009-09-07 05:02:18 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ことばの「脱臼」、行のわたりによることばの乱調は、「乱れ」というよりも、乱れの前後にあることばそのものをくっきりと浮かび上がらせる。乱れることによって、1行のことばの強さ、輝きが増す。そして、乱反射する。乱反射の光が、いままで見落としていた存在を照らしだし、にぎやかになる。あるいは、「やかましくなる」というべきか……。
 「秋の写真」の前半部分。

この武蔵野の門をくぐつてみると
ひとりの監視人以外に人間らしい
ものはなにもなかった。
今日は小鳥の巣のコンクールがある日
だつたがまだ一人もそうした少年芸術家の
青い坊主頭がいない
   (谷内注・「くぐつてみた」の「ぐ」を西脇はをどり文字で書いている。
    をどり文字が表記できないので、書き換えた。以降の引用も同じ。)

 行のわたりによって「監視人」「青い坊主頭」の存在の対比が強烈になる。「乱調」がなくても対比はあるけれど、それは「対比」として強調されるにすぎない。「乱調」は対比と同時に、それぞれの「存在」を印象づけるのである。文脈が破壊される(学校教科書の文法が、という意味である)ことによって、文章の流れ、構造ではなく、構造を支える「存在」がくっきりと浮かび上がる。「存在」がことばとして浮かび上がる。
 詩とは、「存在」を「ことば」として浮かびあがらせること--ではなく、「ことば」が「存在」になることなのだが、西脇の「脱臼」(乱調)は、「ことば」を存在」にしてしまう方法なのである。
 さまざまな「乱調」をくぐりぬけて、ことばは、次のように変化する。

秋の写真秋の女の写真
デュアメルの奥さんに読んで貰うものが
ないのはこまつたことだ。
くもつたカメラの中へこぼれるのは
ぼけ、いいぎり、くさぎ
まゆみ、うばら、へくそかずら
さねかずら
の実の色 女のせつない色の
歴史
歴史はくりかえされるのだ。

 ふいに登場する草々。どんな修飾語も拒絶して、ただ、「存在」そのままに、そこにある。「歴史」とはいつまでもかわらない「存在」のなかでのみくりかえされる。それは、女の「せつなさ」と同じもの。
 この突然の、「女のせつない色」は、乱調の光が照らしだしたもののひとつだ。何の説明もないが、それは説明できな。乱調そのものが説明を逸脱している。説明を逸脱していく、文脈を逸脱していくのが乱調なのだから。
 「女のせつない色の/歴史」ということばを、西脇は、この詩のなかでは、「存在」そのものにしたかったのだ。






西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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望月苑巳「だらしない物語」

2009-09-07 02:37:22 | 詩(雑誌・同人誌)
望月苑巳「だらしない物語」(「孔雀船」74、2009年07月15日発行)

 望月苑巳「だらしない物語」は大切な人を亡くした悲しみが静かに揺れている。

闇夜は星が美しい
月の出た夜はひとが美しい
梅の香りをまとって笑っているよ
月の光も香っているよ
でもね
雨の降る日は
天の涙に表札が磨かれて
大根のように冷たくなるよ
ずぶぬれで帰ってきた父は
母さんが置いて行った
子守唄をうたっているよ
赤ん坊をあやすように
空のご機嫌をとるように
泣きたくなるような子守唄だったよ

 前半は母の記憶だろう。月夜の梅のような、まぶしく美しい母の記憶。その母を(妻を)亡くして、父は、ずぶぬれになって歌を歌っている。母が歌っていた子守唄。それは望月が聞いた子守唄だが、そのとき父も一緒に聞いていたのだ。子守唄に、父の悲しみを知る望月。望月自身も悲しいが、父も悲しい。
 ひとの悲しみを知るのは悲しい。
 くりかえされる行末の「よ」は、ことばの断定をやわらかくする。悲しみを受け止めるには、何かしらのやわらかいものが必要なのだ。

人間は二度死ぬ
最初は焼かれて灰になった時
二度目は存在したことを忘れられてしまった時

そんな始末書の脇で
ぼくが冷たくなっているよ
開いた瞳孔が青空を吸い取ってしまったのか
朝から雨
だらしない雨だよ
きのうまで蛇口で水を飲み
好きな物を食べて
堂々と人を好きになったりもしたのに
だらしないったりゃ、ありゃしない
劣化してゆく、ぼく
退化してゆく鍋の底に
溜まっていたのは
使い方を間違えた父の靴紐

何も知らなかったあるころに帰って
だらしない雨に打たれ
三度目の死を迎えるよ
だらしないぼくの物語だよ

 母がなくなり、その亡くなったこともふと忘れてしまったとき、もう一度、大事なひとの死がやってくる。父の死。
 そのとき、ふいに思い出すのだ。父が、母が死んだときに悲しんでいたことを。
 その悲しみを、望月は心底理解していたわけではなかった。なぜなら、彼自身が悲しかったから。自分自身が悲しく、そして、同じように(それ以上に)悲しんでいる父を見て、また別の悲しさ、せつなさを感じた。
 そういうことも、ふと、忘れてしまう。
 時間のなかで。
 「忘却」という名の「始末書」。ひとは忘れるものなのだ。「だらしない」のだ。その「だらしなさ」に気づいたとき、また、悲しみが新しくなる。
 
 どうすることもできない悲しみを、「だらしない」と呼ぶことで、自分自身を叱ってみる。そんなふうに叱るしかない。その悲しみ。
 その悲しみを支えてくれるひとがないから、自分で支える。「よ」というやさしいことばで。

 とても美しい「よ」である。



紙パック入り雪月花 (21世紀詩人叢書)
望月 苑巳
土曜美術社

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平松洋子評「渡辺裕一『小説家の開高さん』」

2009-09-07 01:05:14 | その他(音楽、小説etc)
平松洋子評「渡辺裕一『小説家の開高さん』」(「朝日新聞」2009年09月06日朝刊)

 朝日新聞の書評欄。平松洋子が、渡辺裕一の『小説家の開高さん』を紹介している文章の最後の方。

 「骨董屋の善二さん」では、湯島の居酒屋「シンスケ」の主人が燗(かん)をつけるとき、徳利(とっくり)の尻をさりげなく撫(な)でて温度をたしかめる場面が描かれる。
 「その手つきは手練(てだれ)の痴漢にも似て自然であり、悩ましい」
 ああもう。わたしもあの所作にはおおいに反応するものだが、当意即妙。

 この部分だけで、渡辺裕一の『小説家の開高さん』が読みたくなる。すぐれた批評というのは余分なことは書かなくていい。ただ、この部分がよかった、と書くだけていいのだ。

 で、(というのは変だけれど)。
 ちょっと気がかりな部分。引用した部分の前の方にあるのだけれど。

 釣り三昧(ざんまい)の一カ月の回想を綴(つづ)ったこの短編のなかに、釣り人としての開高健の本質をざぶりと洗いだす一行がある。わずか十三文字。しかし誰もけっして書かなかったそらおそろしい一行が、「小説家の開高さん」の深淵(しんえん)をのぞきこませる。

 あ、これは、いやだなあ。平松としては、その一行は本を手にとって読んでもらいたいということで伏せてあるのだろうけれど、うーん、買いたくなくなる。燗の手つきの部分は、それがほんとうに書いてあるのか確かめるために買って読みたくなるけれど、この思わせぶりの部分は、私は読みたいとは思わないなあ。
 ほんとうにおもしろいのなら、どうしても、書いてしまう。燗の部分のように。思わず書かずにはいられないほどはおもしろくないのかもなあ、と私は疑問に感じてしまったのだ。

 書評は難しいねえ。



小説家の開高さん
渡辺 裕一
フライの雑誌社

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