ことばの「脱臼」、行のわたりによることばの乱調は、「乱れ」というよりも、乱れの前後にあることばそのものをくっきりと浮かび上がらせる。乱れることによって、1行のことばの強さ、輝きが増す。そして、乱反射する。乱反射の光が、いままで見落としていた存在を照らしだし、にぎやかになる。あるいは、「やかましくなる」というべきか……。
「秋の写真」の前半部分。
この武蔵野の門をくぐつてみると
ひとりの監視人以外に人間らしい
ものはなにもなかった。
今日は小鳥の巣のコンクールがある日
だつたがまだ一人もそうした少年芸術家の
青い坊主頭がいない
(谷内注・「くぐつてみた」の「ぐ」を西脇はをどり文字で書いている。
をどり文字が表記できないので、書き換えた。以降の引用も同じ。)
行のわたりによって「監視人」「青い坊主頭」の存在の対比が強烈になる。「乱調」がなくても対比はあるけれど、それは「対比」として強調されるにすぎない。「乱調」は対比と同時に、それぞれの「存在」を印象づけるのである。文脈が破壊される(学校教科書の文法が、という意味である)ことによって、文章の流れ、構造ではなく、構造を支える「存在」がくっきりと浮かび上がる。「存在」がことばとして浮かび上がる。
詩とは、「存在」を「ことば」として浮かびあがらせること--ではなく、「ことば」が「存在」になることなのだが、西脇の「脱臼」(乱調)は、「ことば」を存在」にしてしまう方法なのである。
さまざまな「乱調」をくぐりぬけて、ことばは、次のように変化する。
秋の写真秋の女の写真
デュアメルの奥さんに読んで貰うものが
ないのはこまつたことだ。
くもつたカメラの中へこぼれるのは
ぼけ、いいぎり、くさぎ
まゆみ、うばら、へくそかずら
さねかずら
の実の色 女のせつない色の
歴史
歴史はくりかえされるのだ。
ふいに登場する草々。どんな修飾語も拒絶して、ただ、「存在」そのままに、そこにある。「歴史」とはいつまでもかわらない「存在」のなかでのみくりかえされる。それは、女の「せつなさ」と同じもの。
この突然の、「女のせつない色」は、乱調の光が照らしだしたもののひとつだ。何の説明もないが、それは説明できな。乱調そのものが説明を逸脱している。説明を逸脱していく、文脈を逸脱していくのが乱調なのだから。
「女のせつない色の/歴史」ということばを、西脇は、この詩のなかでは、「存在」そのものにしたかったのだ。
西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1982年)西脇 順三郎筑摩書房このアイテムの詳細を見る |