『近代の寓話』の「近代の寓話」。書き出し。
四月の末の寓話は線的なものだ
半島には青銅色の麦とキャラ色の油菜
たおやめの衣のようにさびれていた
考える故に存在はなくなる
人間の存在は死後にあるのだ
人間でなくなる時に最大な存在
に合流するのだ私はいま
あまり多くを語りたくない
ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
自然の風景と、思索とが互いをひっかきまわすように動いている。「旅人かへらず」の「一」の「この考へる水も永劫には流れない/永劫の或時にひからびる/ああかけすが鳴いてやかましい」の取り合わせにいくらか似ている。
私がとてもおもしろいと思うのは
に合流するのだ私はいま
という1行である。この1行は「人間でなくなる時に最大な存在」という行と「あまり多くを語りたくない」という行を一気に結びつける。そこには「間」がない。文法的(?)にはというか、教科書国語的には、「人間でなくなる時に最大な存在に/合流するのだ/私はいまあまり多くを語りたくない」という「意味」になるのだが、そんな「意味」にしたくないという意思が働いている。
整然と「意味」を整理したくない。ことばを「意味」に従属させ、整然とした形にしたくない。そういう意思が働いている。
整然、の反対は何だろうか。猥雑、だろうと、私は思う。
西脇は、猥雑に動く人間の精神を、そのまま描きたいのだ。整然とことばを動かし、その整然としたことばの動きを「論理的」と定義するなら、西脇のやっていることは「非論理的」なことばの運動である。「論理」を破壊することばの運動である。
「論理」を破壊する瞬間に、詩が溢れ出るのである。
そして、その瞬間、瞬間を、猛スピードで拾い集めていく。それが西脇の詩の特徴である。そして、その猛スピードが象徴的にあらわれているのが、
に合流するのだ私はいま
という行である。
「考える故に存在はなくなる」という考えがふいに浮かぶ。浮かぶのだけれど、それを追求しつづけるのは、ことばを窮屈にする。だから、それを破壊する。破壊して、「自由」な風をとおす。
そして、というのは、論理の飛躍になるかもしれないが、この破壊の方法として、論理的なことばから非論理的なことば(?)へ移動する方法として、西脇がとっている方法は、とても矛盾に満ちている。
論理的なことばの運動--それは、緊密な「間」をもっている。「間」に揺らぎがない。ことばからことばへの移動には、整然とした「間」がある。その「間」が整然としていないと、論理はつかみにくい。別なことばでいうと、ことばからことばへの運動において(意味の形成過程において)、「飛躍」があると、なぜ、そんなふうになる? という疑問がわく。「飛躍」した部分で「意味」がわからなくなる。
「飛躍」の大きい文章が「非論理的」と呼ばれる文章である。
ところが、西脇は、その「飛躍」を隠すのである。「飛躍」をむりやり1行に凝縮するのである。
に合流するのだ私はいま
本来あるはずの「間」をもう一度/をつかって書き直せば「……に/合流するのだ/私はいま」になる。その「間」を消してしまう。「間」の位置をわざと不自然な位置に動かしてしまう。
「飛躍」ではなく、「つまずき」である。
「つまずき」が西脇の詩である。
「つまずき」とは、また、笑いでもある。特に、「論理」のように、ちょっと偉そう(?)なものがつまずくとおかしい。子どもがバナナの皮で滑ってもおかしくないが、警官がバナナの皮で滑って転ぶとおかしい。そういうときの「つまずき」。
あるいは、「脱線」「脱臼」と言い換えてもいいかもしれない。
整然と進むべきものが(整然とあるべきものが)、その本来の位置からずれる。
その瞬間に、笑いが生まれる。その笑いのなかに、詩がある。
西脇順三郎全集〈第2巻〉 (1982年)西脇 順三郎筑摩書房このアイテムの詳細を見る |