詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(73)

2009-09-01 23:56:22 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『近代の寓話』の「近代の寓話」。書き出し。

四月の末の寓話は線的なものだ
半島には青銅色の麦とキャラ色の油菜
たおやめの衣のようにさびれていた
考える故に存在はなくなる
人間の存在は死後にあるのだ
人間でなくなる時に最大な存在
に合流するのだ私はいま
あまり多くを語りたくない
ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ

 自然の風景と、思索とが互いをひっかきまわすように動いている。「旅人かへらず」の「一」の「この考へる水も永劫には流れない/永劫の或時にひからびる/ああかけすが鳴いてやかましい」の取り合わせにいくらか似ている。
 私がとてもおもしろいと思うのは

に合流するのだ私はいま

 という1行である。この1行は「人間でなくなる時に最大な存在」という行と「あまり多くを語りたくない」という行を一気に結びつける。そこには「間」がない。文法的(?)にはというか、教科書国語的には、「人間でなくなる時に最大な存在に/合流するのだ/私はいまあまり多くを語りたくない」という「意味」になるのだが、そんな「意味」にしたくないという意思が働いている。
 整然と「意味」を整理したくない。ことばを「意味」に従属させ、整然とした形にしたくない。そういう意思が働いている。

 整然、の反対は何だろうか。猥雑、だろうと、私は思う。

 西脇は、猥雑に動く人間の精神を、そのまま描きたいのだ。整然とことばを動かし、その整然としたことばの動きを「論理的」と定義するなら、西脇のやっていることは「非論理的」なことばの運動である。「論理」を破壊することばの運動である。
 「論理」を破壊する瞬間に、詩が溢れ出るのである。
 そして、その瞬間、瞬間を、猛スピードで拾い集めていく。それが西脇の詩の特徴である。そして、その猛スピードが象徴的にあらわれているのが、

に合流するのだ私はいま

 という行である。
 「考える故に存在はなくなる」という考えがふいに浮かぶ。浮かぶのだけれど、それを追求しつづけるのは、ことばを窮屈にする。だから、それを破壊する。破壊して、「自由」な風をとおす。
 そして、というのは、論理の飛躍になるかもしれないが、この破壊の方法として、論理的なことばから非論理的なことば(?)へ移動する方法として、西脇がとっている方法は、とても矛盾に満ちている。
 論理的なことばの運動--それは、緊密な「間」をもっている。「間」に揺らぎがない。ことばからことばへの移動には、整然とした「間」がある。その「間」が整然としていないと、論理はつかみにくい。別なことばでいうと、ことばからことばへの運動において(意味の形成過程において)、「飛躍」があると、なぜ、そんなふうになる? という疑問がわく。「飛躍」した部分で「意味」がわからなくなる。
 「飛躍」の大きい文章が「非論理的」と呼ばれる文章である。
 ところが、西脇は、その「飛躍」を隠すのである。「飛躍」をむりやり1行に凝縮するのである。

に合流するのだ私はいま

 本来あるはずの「間」をもう一度/をつかって書き直せば「……に/合流するのだ/私はいま」になる。その「間」を消してしまう。「間」の位置をわざと不自然な位置に動かしてしまう。
 「飛躍」ではなく、「つまずき」である。

 「つまずき」が西脇の詩である。

 「つまずき」とは、また、笑いでもある。特に、「論理」のように、ちょっと偉そう(?)なものがつまずくとおかしい。子どもがバナナの皮で滑ってもおかしくないが、警官がバナナの皮で滑って転ぶとおかしい。そういうときの「つまずき」。
 あるいは、「脱線」「脱臼」と言い換えてもいいかもしれない。
 整然と進むべきものが(整然とあるべきものが)、その本来の位置からずれる。
 その瞬間に、笑いが生まれる。その笑いのなかに、詩がある。



西脇順三郎全集〈第2巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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岡井隆『注解する者』

2009-09-01 00:30:54 | 詩集
岡井隆『注解する者』(思潮社、2009年07月25日発行)

 岡井隆『注釈する者』は「現代詩手帖」に連載されたものである。連載のときから何度か感想を書いてきた。何と書いたか忘れてしまったが(いいかげんな話だが)、何度読んでもおもしろい。
 「側室の乳房について」は米川千嘉子の「側室の乳房(ちち)つかむまま切られたる妻の手あり われは白米を磨ぐ」という歌がラフカディオ・ハーンの「奇談」にもとづくというので、その「奇談」を読みながらあれこれ考えるという作品である。米川とラフカディオ・ハーンをつないでいるもの、ふたつの作品が共有するものを追いかけていく。
 それを純粋に(?)、文学の中だけで追いかけるのではなく、岡井の日常というか、現実の時間とからめながら追いかけていく。米川、ハーンの文学のことばのなかに岡井の日常が、岡井の肉体が紛れ込む。紛れ込み、その紛れ込んだものをかいくぐって、文学のことばへと、岡井のことばは動く。
 簡単に言い換えると、脱線する。注解が脱線するのだ。
 脱線するのだが、脱線したあと、ずるっとした感じでもとに戻る。その「ずるっ」とした感じがなんともいえず楽しい。
 この「ずるっ」とした感じ、あるいは「ぬるっ」とした感じというのは、「文学」から、特に「注解」からは切り捨てられることが多い。なぜなら、「注解」というのは本来、よくわからないものを丁寧に解説し、分かりやすくするものである。分からないものが「ずるっ」「ぬるっ」と脇道へそれてしまっては、何を言っているのかわからなくなる。「あんたの、あれこれの思いはいいからさあ、さっさと、そこに何が書いてあるのか説明してよ」と言いたくなるかもしれない。そして、実際、「注解」というものは、そういう個人的な「ずるっ」「ぬるっ」とした脱線を省略し、純粋に(?)、抽象的に、書かれるものなのだ。受験の解説(国語の、とはかぎらないけれど)は、だれのものでもないことば、最初から「共有」されることを前提としたことばで書かれている。
 岡井は、逆に(というと、言い過ぎかもしれないけれど)、教科書的「注解」が捨ててきたものを紛れ込ませることで、「注解」を詩にしている。 

 「注解」に個人的なことを、そのとき、その日々のできごとを加える--そう書いてしまうと、それでおわりなのがだ、実は、「詩」は、そんなに単純ではない。「注解」ついでに脱線しただけなら、それは詩にならない。

 脱線したときの「文体」が詩なのである。書かれている内容ではなく、書き方--注釈のなかに紛れ込む「日常」の描写の文体が詩なのである。

若い長身の理髪師に白髪を摘(つ)んで貰ひながら乳房を持たない性から見てそれをもつ性の二人が相争ふさまを思つてゐると青年はにこやかに話しかけながらここ数日此の詩を書くために(といふのは嘘だが)凝りに凝つた肩から背中にかけてその長い指でほぐして呉れるのだつたが鏡の中ではたしかに肩ごしにのばされた彼の手がいくたびとなく私の肉体を掴んだのであつた……。

 読点「、」のない長い文章のまま、うねっていく。背中をもんでいる手が、意識の中では胸を(?)つかんでいる--というぐあいに、米川の歌、ハーンの短編のようにねじれている。背中をもまれながら、乳房をつかまれた女の気持ちを想像しているのだが、それが実際に理髪店という現実の場で動くので、奇妙な、なんだか男色の匂いのようなものがまじり、その奇妙・異様な感じが、なぜだか「文学」とつながっていく。
 「文学」というのは、奇妙・異様なことを、日常のことばで語り直したものなのである。逆に、奇妙・異様なことを日常のことばで語りなおす--ということもできるが、まあ、区別はない。奇妙・異様と日常が出会うのが「文学」である。
 なんだか、脱線してしまうが……。
 岡井のことばがおもしろいのは、その脱線のときの文体である--ということに戻ろう。
 岡井の、この読点のない文体は、読点がないにもかかわらず、うねうねとうねっているにもかかわらず、とても読みやすい。読んでいて、すぐに理解できる。理路整然としていない(?)のに、とてもよくわかる。
 なぜなのだろうか。
 岡井のことばは、頭で理路整然と動かされたことばではなく、「肉体」にそって、自然に動かされたことばだからである。そこには「肉体の自然」がある。「理路整然」を放棄した、夏の草いきれがむんむんする野原のような、いのちの力がある。その自然な力が説得力を持っているのである。夏の草いきれが人間を圧倒するように、岡井のもっている「肉体の自然」が私を圧倒するである。
 そして、私はいま、岡井の「肉体の自然」と書いたのだが、そのときの「肉体の自然」とは、ほんとうは、岡井の身体のことではない。岡井が吸収し、蓄積した「日本語の文体・伝統」のことである。繰り返し読み、書き、鍛えられた文体が「肉体」になってしまっている。「日本語」の力、日本語の「文学のいのち」が、私を圧倒するのである。
 くねくね、うねうね、ずるっ、ぬるっ、と乱れながらも、その運動は「ぎくしゃく」ではない。豊かな水が、水自身の重さにしたがって低みへ自然に流れていく--そういう自然なつややかさがある。どこへ流れるかなど、どうでもいい。つややかな輝きをみせて流れればそれでいい。そのつややかさの自然。豊かな自然だかがもつつややかさ。そういうものが、脱線するたびに、静かに光るのである。

 この自然を、岡井は、この作品の中で、別のことばで書いている。私は記憶力が悪いので間違っているかもしれないが、岡井は「注解」の連載の中で、1回だけ、「手の内」をみせている。岡井の日本語のいのち、力の源泉について、岡井のことばをつややかにしている力について、1回だけ語っている。
 「側室の乳房」のほぼ終わりの方。

そして治療のために呼ばれたオランダ人の外科医は、雪子を助けるためには両手を死体から手首のところで切断する外はないと言ひその通りにしたのであつたが古い伝統の和歌の手のひらはそんなことで死に絶えることはない。黒くて硬いその手は毎夜丑の時が来ると「大きな灰色の蜘蛛のやうに」、若い外来種の詩の乳房を寅の刻まで「締めつけ責めさいなむのである。」とこの帰化したアイルランド人は語るのであつた。雪子が尼になつて奥方の供養をして歩く結末はどうでもよいように思はれ、私は深夜の三鷹駅頭でバスを待つた。

 「古い伝統の和歌の手のひら」。語り継がれ、古典となった和歌のなかにあることば。それは死なない。肉体は死んでも、ことばは死なない。ことばだけが生き延びる。岡井は、そのことを「肉体」として知っている。そして、その「和歌の手のひら」は「大きな灰色の蜘蛛」になったように、形をかえながら生き延びていく。たぶん、それは人から人へ、語り継がれるたびに形をかえる。ここでは「大きな灰色の蜘蛛」と書かれているが、あるときは「黒い蜘蛛」かもしれない。あるときは「むらさきの蛸」かもしれない。「和歌の手のひら」とは、何かを語ろうとする「日本語」のことである。何かを語ろうとすれば、かならず、その対象を歪めてしまう。手のひらは、蜘蛛になるように。そして、手のひらを蜘蛛と語るとき、その蜘蛛によせた思いというものがある。妻への同情か。側室への嫉妬か。そういうもの、人間の感情・情念が、「手のひら」を歪め、「蜘蛛」にする。そういう語ることの「伝統」が「和歌」のなかにあり、そして、いまも日本語全体のなかに生きている。
 語り継がれ、そこで鍛えられた日本語の力--岡井のことばの魅力はそこにある。ことばの「根っこ」が深いのである。ことばの水源の水圧が高いのである。だから、ごとへでも自然に動いていく。つややかである。「理路整然」がくずれる(?)たびに、つややかに光る。その水量の豊かさをみせる。どんなに脱線しても、つややかに流れていくという力をみせる。

注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社

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