「夏(失われたりんぼくの実)」のつづき。
詩は「意味」ではない--そうわかっていても(頭で理解していても)、「意味」が出てくるとどうしても「意味」を追いかけてしまう。頭は「意味」に頼ってしまうものなのかもしれない。
連想を破ることだ
意識の解釈はしない
この2行には、どうしても、そこに西脇の「思想」が書かれていると思ってしまう。詩の「理想」が書かれていると思ってしまう。
きのう読んだ部分につづく行にも同じことがおきる。
連想を破ることだ
意識の解釈をしない
コレスポンダンスも
象徴もやめるのだ
さんざしの藪の中をのぞくのだ
青い実ととび色の棘(とげ)をみている
眼は孤立している
「眼は孤立している」に、どうしても「意味」を感じてしまう。「孤立した眼」に西脇は「理想」を託していると読んでしまう。
「象徴もやめるのだ」という行は、たとえばさんざしを見る。そのさんざしになんらかの意味を与える。象徴としてながめる、ということをやめることを言っていると思う。眼はただ単純にさんざしをみつめるだけで、そのさんざしを「いま」「ここ」にないものの象徴としてみない、象徴とすることで、そこになんらかの「意味」(意識)をつけくわえないということだろう。さんざしに、「意味」も「意識」も、あるいは「意味」や「意識」につながる何者をも結びつけない。そうすると、「眼」は人間の意識から離れ、つまり孤立して、さんざしという存在と向き合うことになる。
「孤立している」とは、「自然」(詩人のまわりにあるもの)から「孤立」しているという「意味」ではなく、詩人の「意識」そのものから切り離され、孤立しているということである。
こういう状態こそが、「意識を解釈しない」ということであり、「連想を破る」ということだ。「意識」から離れて「孤立」しているから意識を「解釈」しようがない。そして、「孤立」しているといことは、「意識」の「連続」を破っているということでもある。「意識の連続」とは、また、連想のことでもある。
西脇は、ここでは、西脇のいちばん大切な思いをことばにしている。「思想」を書いている--と私は思ってしまう。
そして、たしかに「思想」を書いているのかもしれないけれど、それを「思想」として読んでしまってはいけない。こういうことばを「思想」と連続させて解釈してしまう--そういう意識を破らないことには、西脇の書いている詩とはほんとうに向き合っていることにはならない。
ここでは、私たちは、西脇の「思想」に触れているのではなく、西脇から重大な課題を与えられているのである。
ことばを連想からひきはがしてしまうこと。肉眼を「意識」からひきはがしてしまうこと。そういうことを求められているのだ。それは、「意識」を、「いま」「ここ」という「社会」からひきはがすということでもある。
ひきはがして、どうするか。と、書くと、また「意味」になってしまうのだが、たぶん、こういう矛盾を犯しながらというか、西脇が禁じていることをやりながらしか、西脇には接近できないのだと思う。禁止を犯し、同時に犯していると自覚して、考える。いま、考えていることは、やがて否定されなければならないとわかっていて考える--そういう行為でしか、西脇には接近できないのだと思う。
ひきはがして、どうするか。「いま」「ここ」ではなく、「宇宙」と一気につながってしまうのだ。
レンズの神性
ジュピーテルの威厳
バスの終点から
一哩も深沢用賀(ふかざわようが)の生垣をめぐる
オ! ジュピーテル
あらゆる生垣をさまよつた
初めてthe wayfaring treeに wood-spurge
を発見した
「ジュピーテル」と叫んでみる。叫ぶことで、ジュピターと一体になる。ジュピターのように、「意識」から離れて、宇宙に孤立してしまう。
あ、またまた「意味」を書いてしまった。
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