詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(89)

2009-09-17 07:17:29 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「夏(失われたりんぼくの実)」のつづき。
 詩は「意味」ではない--そうわかっていても(頭で理解していても)、「意味」が出てくるとどうしても「意味」を追いかけてしまう。頭は「意味」に頼ってしまうものなのかもしれない。

連想を破ることだ
意識の解釈はしない

 この2行には、どうしても、そこに西脇の「思想」が書かれていると思ってしまう。詩の「理想」が書かれていると思ってしまう。
 きのう読んだ部分につづく行にも同じことがおきる。

連想を破ることだ
意識の解釈をしない
コレスポンダンスも
象徴もやめるのだ
さんざしの藪の中をのぞくのだ
青い実ととび色の棘(とげ)をみている
眼は孤立している

 「眼は孤立している」に、どうしても「意味」を感じてしまう。「孤立した眼」に西脇は「理想」を託していると読んでしまう。
 「象徴もやめるのだ」という行は、たとえばさんざしを見る。そのさんざしになんらかの意味を与える。象徴としてながめる、ということをやめることを言っていると思う。眼はただ単純にさんざしをみつめるだけで、そのさんざしを「いま」「ここ」にないものの象徴としてみない、象徴とすることで、そこになんらかの「意味」(意識)をつけくわえないということだろう。さんざしに、「意味」も「意識」も、あるいは「意味」や「意識」につながる何者をも結びつけない。そうすると、「眼」は人間の意識から離れ、つまり孤立して、さんざしという存在と向き合うことになる。
 「孤立している」とは、「自然」(詩人のまわりにあるもの)から「孤立」しているという「意味」ではなく、詩人の「意識」そのものから切り離され、孤立しているということである。
 こういう状態こそが、「意識を解釈しない」ということであり、「連想を破る」ということだ。「意識」から離れて「孤立」しているから意識を「解釈」しようがない。そして、「孤立」しているといことは、「意識」の「連続」を破っているということでもある。「意識の連続」とは、また、連想のことでもある。
 西脇は、ここでは、西脇のいちばん大切な思いをことばにしている。「思想」を書いている--と私は思ってしまう。

 そして、たしかに「思想」を書いているのかもしれないけれど、それを「思想」として読んでしまってはいけない。こういうことばを「思想」と連続させて解釈してしまう--そういう意識を破らないことには、西脇の書いている詩とはほんとうに向き合っていることにはならない。
 ここでは、私たちは、西脇の「思想」に触れているのではなく、西脇から重大な課題を与えられているのである。
 ことばを連想からひきはがしてしまうこと。肉眼を「意識」からひきはがしてしまうこと。そういうことを求められているのだ。それは、「意識」を、「いま」「ここ」という「社会」からひきはがすということでもある。
 ひきはがして、どうするか。と、書くと、また「意味」になってしまうのだが、たぶん、こういう矛盾を犯しながらというか、西脇が禁じていることをやりながらしか、西脇には接近できないのだと思う。禁止を犯し、同時に犯していると自覚して、考える。いま、考えていることは、やがて否定されなければならないとわかっていて考える--そういう行為でしか、西脇には接近できないのだと思う。

 ひきはがして、どうするか。「いま」「ここ」ではなく、「宇宙」と一気につながってしまうのだ。

レンズの神性
ジュピーテルの威厳
バスの終点から
一哩も深沢用賀(ふかざわようが)の生垣をめぐる
オ! ジュピーテル
あらゆる生垣をさまよつた
初めてthe wayfaring treeに wood-spurge
を発見した

 「ジュピーテル」と叫んでみる。叫ぶことで、ジュピターと一体になる。ジュピターのように、「意識」から離れて、宇宙に孤立してしまう。

 あ、またまた「意味」を書いてしまった。




ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
文芸文庫

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山口賀代子「少女期」

2009-09-17 00:38:26 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「少女期」(「左庭」14、2009年08月30日発行)

 山口賀代子「少女期」は少女の感覚がリアルである。私は少女であったことはないのだけれど、リアルに感じる。少女も少年も、ある部分はかわらないのかもしれない。その「かわらない部分」、共通の部分を出発点にして、違う部分にたどりつき、あ、これが少女の感覚か--と思い、納得するというのがほんとうのところかもしれないけれど。

 山口は、はじめて海へはいったときのことを書いている。

ときどき波のすくない水際で
こわごわ海に足指をいれたり
ひっこめたり
おそるおそるすることが恐ろしい
そんなわたしを海に誘ったのは誰だったのか
記憶にもないその人につれられ
下着のまま海にはいる
こわごわ 足をすすめる
綿のシュミーズが肌にまとわりつく
恥ずかしさよりも
おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ
ゆるゆるとからだにまとわりつく水の感触

 「少女」を「少女」にしているのは、具体的には「綿のシュミーズが肌にまとわりつく」ということばかもしれない。けれども、それはよくよく考えれば、シュミーズのかわりに綿のパンツと言い換えれば「少年」に簡単にかわってしまう。水着ではなく、薄いパンツ。それが水に濡れて、肌にまとわりつく。もっといえば、ペニスにまとわりつく。
 そして、そのときの「恥ずかしさ」もまた共通のものである。「少年」にも恥ずかしさはある。だから、その感覚は「少女」特有のものではない。

 別の言い方をすべきなのかもしれない。

 私が、はっと驚いたのは、「おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ」の「おもいがけない」である。私は、こどものころを思い返してみたが、海へ入って「おもいがけない」と感じた記憶がない。
 私は虚弱体質だったので、実は、小学校のときは海にははいったことがない。禁じられていた。学校の申し送りがうまくいかなかったのか、中学には「禁止」がつたわっていなくて、中学になってはじめて海にはいった。それでも、私には、その海が「おもいがけない」ものではなかった。
 何かに触れて、そのことから「おもいがけない」と感じることが、たぶん「少女」なのだ。
 そして、そのあとがもっと「少女」っぽい、私は感じる。はっきりいえば、びっくりしてしまった。

おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ

 「からだがなじむ」。ああ、そうなのか、「少女」とは「おもいがけない」ものに「からだがなじむ」のか。
 「少年」は違うのである。
 からだ「が」なじむのではない。からだ「に」なじませるのだ。
 新しいものに興奮して、ありふれたことばでいえば、それを征服する。自分のからだの支配下におく。海を例にとれば、海をなじませる。自分の思うようにする。「泳ぐ」とはからだ「が」海に(水に)なじむことではなく、からだ「に」水をなじませる、からだのいう通りに水を動かすことなのだ。水の中を進むのではなく、水を自分の方に引き寄せるのが泳ぐということなのだ。
 海を自分のつこゔにあわせて動かす--もちろん、そんなことはできないのだが、自分の思うようにできると錯覚する。それがたぶん「少年」の感覚である。たとえば、島へむかって泳ぐというのは、自分が島へ向かうというよりも、海に浮かんでいる島を自分の方へ引き寄せる。綱を引っぱるように、ぐいぐいと、水そのものを引っぱるという感じなのだ。水まるごと、島を引っぱる。それが「少年」の感覚だ。あるいは、私の、というべきなのかもしれないけれど、私はそう感じる。

 ことろが、山口はそんなふうには感じていない。海を征服するのではなく、いっしょになってしまう。その親和力が「少女」なのだ。

おそるおそる顔を海水につけてみる
すこしからだを沈めてみる
沈めたまま腕をまえにだし
泳ぎの真似事をしてみる

魚になれるかもしれない

 腕を前にだすことは、「少女」山口にとっては、魚になることなのだ。水になること、魚になること--その区別がない。「なじむ」というのは、そういうことなのだ。






詩集 海市
山口 賀代子
砂子屋書房

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする