「☆(マチスのデッサンに)」。ことばが、とても軽い。軽く動いていく。なぜだろう。
ボア街の上にバルコニー
をもつ昔の貴族の家で
ひるめしをたべながら
ジャン・コクトオの友人の
ゴアオン夫人と話をした。
ことばの「水準」が「脱臼」するからである。
「ボア街の上にバルコニー/をもつ昔の貴族の家で」の「を」が学校教科書の文法を「脱臼」させたものだとすると、「昔の貴族の家で/ひるめしをたべながら」の「貴族」と「ひるめし」はことばの「水準」の「脱臼」である。私は貴族ではないし、フランス人でもないから「貴族」と「ひるめし」が同じ「水準」のことば(表現)であるかどうかは知らないが、私の日本語の感覚(私の日常会話の感覚)では、「貴族」と「ひるめし」は結びつかない。かろうじて結びついても「昼ご飯」である。「ひるめし」には、非常に俗っぽい響きがある。「貴族」が「聖」なら、「ひるめし」は「俗」。「ひるめし」は「貴族」が食べるものではなく、庶民が食べるものである。主語、目的語(補語)、動詞には、それが自然に結びついている「水準」がある。日常的な感覚がある。これを、西脇は「脱臼」させる。
「貴族」と「ひるめし」。その組み合わせが、その世界を、軽くする。笑いを含んだものにする。
フランスの野原には麦や
虞美人草が沢山ある。
ロスィニョールが鳴く。
この3行にも「貴族」と「ひるめし」のような「脱臼」がある。「フランス」と「虞美人草」。もちろんフランスに「虞美人草」があってもいいのだが、その「虞美人草」と「ロスィニョール」がいっしょに並ぶとき、あれっ、と思う。何?と思う。「ロスィニョール」というのは鳥なのか、虫なのかもフランス語を知らない私にはわからないのだが(あるいはラテン語? もっとほかのことば?)、日本語ではないことは確かである。
ここでは日本語の音と外国語の音が並んでいる。ことばの「水準」(どこの国のことばか、という基準)が「脱臼」させられ、統一させられていない。そこに、不思議な軽さがある。
ローン河のほとりの葡萄園
百姓はゴッホのような帽子
をかぶってしやべつていた。
また野ばらのとげ先で
女のあごやへそのくぼみを
かく老いた男のために
杏子の実を一籠送る
ことを忘れてはならない。
「貴族」と「日めし」に比べると、「百姓」と「しやべつている」には、違和感というか、「水準」のずれ--「脱臼」はない。「ゴアオン夫人と話をした」と比較すると、西脇は、主語が「聖」であるとき、補語や動詞に「俗」をぶつけて、「聖」の文体を「脱臼」させることがわかる。主語の「俗」に、「聖」の補語や動詞をぶつけて「脱臼」させることはない。
「脱臼」とは「聖」か「俗」になる瞬間に起きる。
「俗」を主語にしたとき、西脇は「脱臼」のかわりに「昇華」をぶつける。「俗」を洗い清める。「俗」のなかにある「美」を引き出す。
「百姓」の、そのあとに出てくる絵。そして、その「絵」の内容。「女のあごやへそのくぼみ」。それは卑近なものであるけれど、「絵」になることで「美」になる。そして、その「美」は「百姓」そのものとつながっている。卑近な健康(いのち)という部分でつながっている。
「聖」は「脱臼」させ、笑いを呼び、「俗」はその奥の「いのち」にふれることで「美」に昇華する。そのふたつの運動が、西脇のことばのなかにある。そのことが、西脇のことばの運動を軽くする。
「野ばらのとげ先で」絵を描く--そういう不思議な美しさ、意外さのおもしろさも、ことばを軽くしている。「野ばらのとげ先」ではなく、たとえば「くじゃくの羽ペン」で描くとすると、それは、とてもつまらなくなる。
「芸術」(絵)には、素朴を、自然をぶつける。そこにも「脱臼」がある。
「脱臼」が西脇のことばを軽くする。
田園に異神あり―西脇順三郎の詩 (1979年)飯島 耕一集英社このアイテムの詳細を見る |