詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(78)

2009-09-06 06:59:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 西脇の詩は長い作品が多い。長い作品の方が音楽が入り乱れて楽しいが、短い作品も軽快でいい。
 「秋」の「Ⅱ」の部分。

タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行つて
あの黄色い外国製の鉛筆を買つた
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずつた木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ

 田村隆一ではないが、思わず、黄色い鉛筆を買いに行きたくなる。黄色い鉛筆を買ってきて、削って、燃やしてみたくなる詩だ。
 私は、その「意味」「内容」もおもしろいと感じるけれど、そんなふうに西脇の詩にそそのかされてしまうのは、「意味」「内容」よりも、この詩の音楽のためだと感じる。

 「タイフーンの吹いている朝」。これが「台風が吹いている朝」では、たぶん、おもしろくない。重くなる。「タイフーン」という音がこの詩を書かせている。「タイフーン」のアクセント「フ」にある。だから「吹いている」と「ふ」が重なる。台風なのに、まるで、かろやかな風である。「朝」という明るい響きもとても美しい。「タイフーン」の「フーン」という音のなかに、現実とは違った軽い響きがある。その軽さが「あさ」の開放的な音を強調する。母音「あ」がのびやかに広がる。「秋」(あき)の「あ」だ。
 次の行からは「秋」(あき)の「き」がはじまる。「近所」「黄色」「木」「木屑」の「き」。「扇」のなかにさえ「おうぎ」と濁音の「き」が隠れている。
 その「き」の上には「あの」の「あ」が繰り返される。
 この「あの」は意味上は無意味な「あの」である。「あの」と書いているのに、先行するどの行にも、その「あの」が指し示すものがない。「あ」と「き」を浮かび上がらせるための「あの」なのだ。
 
 そして、私は最後の行で、ちょっとつまずく。引用してみてはじめて感じたのだが、「明朝はもう秋だ」の「明朝」はどう読むのだろう。私の記憶の中では、この行は「あすはもうあきだ」という音になっていた。
 ところが「明朝」。
 「あす」と読ませるなら、ルビが必要だろう。ところがルビがない。
 「みょうちょう」なのか。
 「みょうちょう」だと、その前の行の「門」、そしてさらにその前の「バラモン」の「モン」、さらに遡って「燃やすと」の「も」、つまりま行の音と響きあい、「もう」の「も」ともなじむのだけれど……。

 「みょうちょう」という音は、私の感覚では「あき」という明るい音とは、しっくりこない。
 私の「頭」は、いや、そんなことはない。「タイフーン」「みょーちょー」という音はなかなかおもしろい変化だと、しきりに言うのだけれど。



西脇順三郎の世界 (1980年)
池谷 敏忠
松柏社

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境節『十三さいの夏』

2009-09-06 01:01:29 | 詩集
境節『十三さいの夏』(思潮社、2009年07月31日発行)

 冒頭の「呼びかけられて」は不思議な詩である。「いま」「ここ」にいて、人生を振り返っている。

こわれそうで
こわれなかったものを かかえて
今朝(けさ) 立っている
小さな 生物(いきもの)の気持ちで
量(はか)りきれなかった日々
生きるのが こわかった
ここまで おいで
ここまで おいで
試(ため)されたくは なかったのだろうか
呼びかけられても
足がすくんで行けないまま
すでに年月(としつき)はすぎて
それでも ひそかなおもいは
河床の水のように
流れ続ける

 何かに誘われたような気持ちになる。「ここまで おいで」と呼びかけられたような感じ。好奇心。それにしたがって生きる生き方があるが、境はそういう生き方をしなかった、と書いている。そういう生き方をしなかったけれど、そういう呼びかけは聞こえていた。そして、その呼びかけにしたがうかわりに、自分の中の「そこへ行ってはいけない」という声に身をまかせたのだ。「そこへ行ってはいけない」という声は、「いま」も聞こえている。そして、その声が聞こえるということは、「いま」も「ここまで おいで」という声が聞こえるということでもある。
 呼びかける声、ここには明確な形では書かれていないが、それにしたがうことを押しとどめる声。そのふたつの間で境は生きている。

 いつも、何かの間にいるだ。何かの「真ん中」にいるのだ。けれど、それは「中心」という意味ではない。「そこまで」という作品には、「宇宙の真(ま)ん中(なか)に存在している」という行が出てくるが、「中心」という意味ではない。

手と目のよろこびにみちて
この地に立つ
宇宙の真ん中に存在している
気に満(み)ちて
そこまで到達せよ
そそのかされているのだろうか
死んだ友が
はるかなところから呼んでいる

 「真ん中」は「中心」ではなく、「つなぐ」ということ、「仲立ち」ということなのだ。「仲立ち」は、また、両方からの誘いが出会う場でもある。何かをつなぎながら、境は、その両方から誘いを受け、その両方をじっとみつめる。「いま」「ここ」を離れない。離れないまま、「真ん中」から両側へ境自身を広げていくような感じだ。
 自分の幅を広げる。人間の幅を広げる。--そういうことばを、ふと、感じる詩である。境の書いていることばには、境が広げてきた「人間の幅」がある。
 「ここまで おいで」という呼びかけを聞きながら、じっとこらえている。じっとこらえながら、「ここまで おいで」とは反対側へも自分を広げ、その逆方向に広げた幅によって、なんといえばいいのだろう、その誘いの側まで到達するような感じだ。「ここまで おいで」という呼びかけにしたがって、そこへは行かない。行かないことが、そこまで行くことなのだ。--矛盾しているが、そういうことだ。行かないことが、そこへ行くということのすべてを境の「肉体」のなかに蓄えられるのである。
 そして、その蓄えられたものが、どんどん増えて、ついにあふれだす瞬間というものもある。
 「もう一度」という作品。

遠い日々を通って
わたしたちは
出会った
ふるえをおさえて
そのひとを見る
かべの中に住んでいたような
気持ちが急にほころんで
ことばは
ふかいおもいを飛びこえていく
考えていなかった
リズムがわいてくる
おさえきれない音が
にわかに立ちあがって
意味はすでに消え去るのか
せんさいなソロディが まわりを包んで
やさしさを どうしよう
もう一度 会えますか

 「ここまで おいで」という呼びかけに応じなかったものが互いに出会う。呼びかけに応じずに、静かに自己を守り通してきたものどうしが互いに出会う。
 そのとき「真ん中」と「真ん中」が重なりあう。
 何かと何かの間--としての「真ん中」は、突然、「広がり」ではなく(ひろがり、ということばを境はつかっていないのだけれど……)、「ふかさ」を発見する。「ふかいおもい」を発見する。そして、それは重なり合って、重なり合うことで、深さが高みにかわり、あふれだすのだ。「広がり」のなかへ。つまり、「真ん中」の「まわり」に。(「まわり」というのは「広がり」のことである、と私は思う。)
 美しく重なりながら、「もう一度 会えますか」と問う。
 この「もう一度 会えますか」と問いかけている相手を、恋人ととらえることもできるけれど、私は、詩だと信じている。何かに出会い、ことばが動く。詩になる。その、境が書いた詩--あるいは、書かされた詩(詩の神様によって書かされた詩)に対して、「もう一度 会えますか」と呼びかける。それは、「もう一度 詩が書けますか」というのに似ている。

 詩を書ける。ことばを書ける--そのことに対する感謝のこころが静かに響いてくる詩集だ。




十三さいの夏
境 節
思潮社

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