西脇の詩は長い作品が多い。長い作品の方が音楽が入り乱れて楽しいが、短い作品も軽快でいい。
「秋」の「Ⅱ」の部分。
タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行つて
あの黄色い外国製の鉛筆を買つた
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずつた木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ
田村隆一ではないが、思わず、黄色い鉛筆を買いに行きたくなる。黄色い鉛筆を買ってきて、削って、燃やしてみたくなる詩だ。
私は、その「意味」「内容」もおもしろいと感じるけれど、そんなふうに西脇の詩にそそのかされてしまうのは、「意味」「内容」よりも、この詩の音楽のためだと感じる。
「タイフーンの吹いている朝」。これが「台風が吹いている朝」では、たぶん、おもしろくない。重くなる。「タイフーン」という音がこの詩を書かせている。「タイフーン」のアクセント「フ」にある。だから「吹いている」と「ふ」が重なる。台風なのに、まるで、かろやかな風である。「朝」という明るい響きもとても美しい。「タイフーン」の「フーン」という音のなかに、現実とは違った軽い響きがある。その軽さが「あさ」の開放的な音を強調する。母音「あ」がのびやかに広がる。「秋」(あき)の「あ」だ。
次の行からは「秋」(あき)の「き」がはじまる。「近所」「黄色」「木」「木屑」の「き」。「扇」のなかにさえ「おうぎ」と濁音の「き」が隠れている。
その「き」の上には「あの」の「あ」が繰り返される。
この「あの」は意味上は無意味な「あの」である。「あの」と書いているのに、先行するどの行にも、その「あの」が指し示すものがない。「あ」と「き」を浮かび上がらせるための「あの」なのだ。
そして、私は最後の行で、ちょっとつまずく。引用してみてはじめて感じたのだが、「明朝はもう秋だ」の「明朝」はどう読むのだろう。私の記憶の中では、この行は「あすはもうあきだ」という音になっていた。
ところが「明朝」。
「あす」と読ませるなら、ルビが必要だろう。ところがルビがない。
「みょうちょう」なのか。
「みょうちょう」だと、その前の行の「門」、そしてさらにその前の「バラモン」の「モン」、さらに遡って「燃やすと」の「も」、つまりま行の音と響きあい、「もう」の「も」ともなじむのだけれど……。
「みょうちょう」という音は、私の感覚では「あき」という明るい音とは、しっくりこない。
私の「頭」は、いや、そんなことはない。「タイフーン」「みょーちょー」という音はなかなかおもしろい変化だと、しきりに言うのだけれど。
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