詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(83)

2009-09-11 07:25:03 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 

 センチメンタルにつながることば、抒情にまみれたことば--というものが、私はどうも好きになれないが、西脇がつかうと、とても清潔に、宝石のように輝いてみえる。たとえば「涙」ということばさえも。
 「冬の日」の最後の行に出てくる。

或る荒れはてた季節
果てしない心の地平を
さまよあ歩いて
さんざしの生垣をめぐらす村へ
迷い込んだ
乞食が犬を煮る焚火から
紫の雲がたなびいている
夏の終りに薔薇の歌を歌つた
男が心の破滅を嘆いている
実をとるひよどりは語らない
この村でラムプをつけて勉強するのだ。
「ミルトンのように勉強するんだ」と
大学総長らしい天使がささやく。
だが梨のような花が藪に咲く頃まで
猟人や釣人と将棋をさしてしまつた。
すべてを失つた今宵こそ
ささげたい
生垣をめぐり蝶と戯れる人のため
迷つて来る魚狗(かわせみ)と人間のために
はてしない女のため
この冬の日のために
高楼のような柄の長いコップに
さんざしの実と涙を入れて。

 なぜ、西脇の「涙」が清潔なのか。
 「涙」が登場するまでに、さまざまな「脱臼」があるからだ。
 「乞食が犬を煮る焚火」には、はげしい野蛮のいのちが輝いている。それは、ふつういう「涙」の対極にある。涙は、野蛮ないのちではなく、繊細なこころである。
 しかし、繊細なこころというのは、単純ではない。
 「犬を煮る焚火」の煙を「紫の雲」というとき、「紫」を感じるこころは繊細であると同時に冷徹である。さらに、その比喩としての「雲」を「たなびいている」というとき、そのこころは、もしかすると「犬を煮る」こころよりも野蛮かもしれない。乞食が犬を煮るのは「いのち」のためである。そこから生じる煙を「紫の雲がたなびいている」と言ってしまうのは、「いのち」とは無関係である。人間の感性は、野蛮である。感性の美しさは「繊細」であるだけではなく、「野蛮」でもある。「野蛮」であるから、暴力を含んでいるから、つまり何もかを壊しながら輝くから「美」なのである。
 野蛮とは、非情ということでもあるかもしれない。 

 冬の村の、非情。厳しい自然。人間の事情など配慮しない風景。その風景から、さらに「人間の同情」を奪いさっていく感性。そのなかで理性は「ミルトンのように勉強するんだ」と主張する。それは、感性以上に野蛮であり、感性の野蛮をさらに徹底するから、美しい。
 異質な世界が、それぞれ野蛮を、つまり「本能」を本能のまま剥き出しにして、互いに配慮することなく、ぶつかる。その瞬間の「脱臼」。
 そこでは何かがかみ合って、「美」を構成するというよりも、それぞれが互いを破壊することで、叩き壊す力としての「美」を発散するのだ。
 その瞬間にも、自然は「梨のような花が藪に咲く」という具合に勤勉である。季節がくれば、本能のままに勤勉に花を咲かせる。一方、人間は怠惰である。「ミルトンのように勉強する」どころか、「猟人や釣人と将棋をさしてしまつた」。
 異質なものが出会い、衝突し、そのとき世界が「脱臼」しながら、拡大する。
 その「脱臼」「拡大した裂け目」--それは、一種の「無重力」である。
 文体の重力から解放されている。「常識」という日常の重力からも解放されている。
 その重力から解放されたところに、ふと「涙」がまぎれこむとき、その「涙」はやはり「無重力」状態にある。どんな文体(過去の歴史)も背負っていない。
 だから、清潔で、軽い。そして、まるで宝石のように輝く。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
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水野るり子「なぜ」

2009-09-11 00:18:14 | 詩(雑誌・同人誌)
水野るり子「なぜ」(「ひょうたん」38、2009年06月05日発行)

 水野るり子「なぜ」に、こころをひかれる行があった。

ちいさな言葉のきれはしが
どこかに
こぼれ落ちているが
その場所が見あたらない
夜明けの暗さのなか
出来事だけが
ゆめのなかでのように
通り過ぎる

 「言葉」と「出来事」の関係に、はっとさせられた。
 私たちは、何事でも(出来事でも)、「ことば」にして確かめる。詩人であってもなくても、同じだろう。ところが、そのことばが、ことばにならないことがある。「頭」のなかにははっきりといいたいことがあるのに、それが「声」にならない。
 夢のなかで、何かを叫ぼうとする。そのとき、叫びたいことはわかっている。口も、その形に開く。けれど「声」にならない。「声」が出てこない。「声」が出ないまま、そこで「出来事」が起きる。
 悪夢。
 この瞬間を、水野は「肉体」の問題ではなく、彼女をとりまく「場」の問題にしている。そこが、おもしろいと思った。

ちいさな言葉のきれはしが
どこかに
こぼれ落ちているが
その場所が見あたらない

 それは、彼女の「肉体」のどこかではなく、彼女のいる「場所」のどこかである。「肉体」のどこかである場合は、「肉体」は、その「どこか」を中心にして固まってしまう。いわゆる、金縛り、のように。
 水野の場合は、そんな具合にはならない。
 水野は「どこか」を探して動き回っている。
 そして、その水野のまわりでは、また別のものが動いている。

 …さっき傘をさして
 黄色い花の森をさまよっていた
 あのうしろすがたはだれ…
読み残したものがたりが
どこかでまだ続いているらしい
枕もとで
羊歯色の表紙が
夜ごとめくられていくのも
そのためだ

 この、ことばの動きは不思議だ。
 固まらない。硬直しない。金縛りにはならない。
 夢のなかで「声」がでないとき、自分が動けないだけではなく、またほかのものも動いていない。自分に危害を加えようと迫ってくるときでさえ、何も動いていない。「声」が出ないために、何かが自由に動き回っているように感じられるけれど、その何かも、ほんとうは動かない。いつまでたっても、危害は危害にならない。たとえば、強敵に、私が殺される--という瞬間は、永遠に、「瞬間」のままとまっている。殺されてしまえば、簡単。声が出ないまま死んでいくのだが、殺されないために、永遠に、「声」がでないということに苦しむ。
 ところが、水野の世界では、「言葉のきれはし」が見つからないのに、正確にいえば言葉のきれはしが落ちている場所がわからないままなのに、そのことば以外は、何事も起きていないかのように動いていくのだ。
 水野を置き去りに(?)して、探していることば以外のことばは動いている。

 「ものがたり」ということばがあるが、「ものがたり」とはそういう世界かもしれない。自分の「声」が出せずに苦しんでいるときでも、別の「声」が動いて、世界を描写してしまう。自分の「声」とは違った別種の「声」を発見することが、「ものがたり」を生きるということなのかもしれない。
 「自分がたり」はできない。けれど「ものがたり」は動いていく。「他者」は動いていく。

 水野は、どこかで、そんな「風景」を見ているのかもしれない。そういう「風景」にあこがれているのかもしれない。

遠ざかるプラットホームで
くろい犬が鼻をあげ
どこまでも…わたしの顔を
追ってくる日々。
 
 「くろい犬が鼻をあげ」の「鼻をあげ」が、すごい。
 これは確かに「ものがかり」のことばだ。「くろい犬」が「わたし」の思いとは無関係に、犬自身の「時間」を生きている。つまり、犬自身が「過去」を持っていて、いま、犬独自の判断で鼻をあげている。「わたし」とは無関係に。
 その「のもがたり」と、いまの「わたし」をつなぐことば--そのきれはしが、どこかにこぼれ落ちてしまった。その「場所」がわからないので、「わたし」は犬の無関係な「時間」をただ受け入れるしかない。「出来事」として。

 だが、ことばのこぼれ落ちた場所がわからないなら、なぜ、それでも、ここにこうして、詩が成立する? 矛盾しない? 矛盾するかもしれない。だが、矛盾するから、そこに詩がある。「なぜ」という疑問のなかに矛盾を投げ込みながら、「ものがたり」は動くのだ。
 その、まだ正確には書かれていない「ものがたり」があるから、水野は生きていける。「ものがたり」への夢と、左折に似た(?)何かのあいだに、必死になってことばを探している水野がここにいる。



ラプンツェルの馬
水野 るり子
思潮社

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