詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

夏目典子「枝先の、その先に」

2009-09-21 00:33:23 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目典子「枝先の、その先に」(「六分儀」35、2009年07月08日発行)

 夏目典子「枝先の、その先に」は春先の自然との呼応がていねいに語られている。

呼ばれているような気がして、広場で立ち止まる。
立ち並ぶ大きなプラタナスの一本の木を仰ぐと
人差し指を立てているように天を指し示す黒い枝々の先々
長い冬の時間は去ったと教えるのか
他の木々も枝先を見て欲しいと私を促す。

 3行目は「空」ではなく、「天」でなければならないのだろう。「空」では、見えるものを見ているにすぎない。その見えるものを超えて、その向こうにあるもの--見えないものを木々は指しているのだ。いま、ここにはまだそんざいしないもの。未生のものを。もちろん、それは「未生のもの」、存在しないものだから、「呼ばれているような気がして」の「気」としか呼応しない。
 存在しないものは、目ではなく、耳ではなく、「気」に直接働きかけてくる。いや、「未生」ゆえに、「肉体」よりも、もっと不定形な「気」に直接触れるのかもしれない。形があるものは形があるものに触れ、形がないものは形のないものに触れる。
 そして、「気」のなかでだけ見えるものもある。「気」の視力が見てしまうものがある。

一本一本の枝先を追うと指さす彼方
空のさらなる蒼の中に弾かれて散っていくものが見える。
それが光に解けて溢れ、降り注がれる。
木々の上に私の上にまでも・・・
それぞれの木々、樹液がいつにもまして勢いよく音を立てて流れ始め
私の鼓動がその響きに応えている。
『呼ばれていますか』
『はい、呼ばれています』
『はるかな遠い声が聞こえますか』
『はい、聞こえます』

 「天」を指す力が、「天」のなかではじける。枝から飛び出して、「天」の「気」に触れ、そして散ってくる。降り注いでくる。光となって。
 「木々の上に私の上にまでも」と夏目は「木々」と「私」を区別して書いているが、ほんとうは区別がない。「木々」と「私」は一体である。だからこそ、樹液の流れる音が、そのまま「私の鼓動」になる。「一体感」のなかでの、呼応--それは、常に「肯定」である。「はい」である。「いのち」は否定のことばを媒介に弁証法的に進むのではなく、どこまでも「肯定」をつづけながら加速する。

 感想を書くのが遅くなって、季節的にずれてしまったが、春に読むと、この詩はもっと輝くだろう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする