詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(91)

2009-09-19 07:25:56 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「山の酒」。誰の詩だったか思い出せないのだが、唐詩に、友が尋ねてきて一緒に酒を飲み、音楽を楽しむ。やがて、主人が「俺は酔ったから、寝る、きみは帰れ。あした、また、その気があるならやってくるがいい」というようなことをいう。その詩に雰囲気が似ている。
 そのなかほど。次の部分が好きだ。

つかれた友人はみな眼をとじて
葉巻をのみながらねむつていた
認識論の哲学者は
その土人女の説によると
映画女優のなんとかという女に
よく似ているというので
礼拝してほろよいかげんに
石をつたつてかあちやんのところへ
帰つたのであつた

 ふいに登場する「かあちやん」ということばと「認識論の哲学者」の取り合わせがおもしろい。「俗」が「認識論の哲学者」を脱臼させる。そのあいだに入ってくる「映画女優」というのも「俗」で、とてもいい。「聖」といっていいのかどうかわからないところもあるのだけれど、「哲学者」という硬い感じのことばと、その対極にある「映画女優」「かあちやん」の取り合わせによって、世界をつなぎとめている何かが一瞬解き放される。そして、すべての存在が、それぞれ、世界そのものとは無関係に、一個一個の存在として輝き始める。
 この詩は、次のようにつづいていく。

ゴーラの夜もあけた
縁先の古木には
鳥も花も去つていた
アセビの花

岩の下に貝のような山すみれ
が咲いていたが
だれも気がつかなかつた
山の政治と椎茸の話ばかりだ
ツルゲニェフの古本と
まんじゆうを買つて
また別の山へもどつたのだ
あすはまた青いマントルを買いに
ボロニヤへ行くんだ。

 世界は解体し、そこに自然が自然のまま取り残される。その孤立した自然としての、たとえば「山すみれ」。それと向き合い、新たに世界全体を構築しなおす。そのとき、世界は、やはり「俗」を含みながら展開される。
 ツルゲーネフとまんじゅう。ロシアと日本。その出会いは、意識をくすぐる。「異質」なのものが出会い、その出会いの場として「世界」というものがある--ということを感じさせてくれる。



西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社

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細田守監督「サマーウォーズ」(★★)

2009-09-19 02:47:22 | 映画

監督 細田守 声の出演 神木隆之介、桜庭ななみ、富司純子



 バーチャルシティというのか、仮想空間というのか知らないけれど、その暗号キーを解いてしまったために、バーチャルシティが混乱する。そして、そのバーチャルシティには警察や米軍まで参加していたため、バーチャルシティが現実にまで影響を及ぼしはじめる。(こういう紹介でいいのかな?)--というアニメ。
 現実にバーチャルシティのパスワードが盗まれ、悪用される、というニュースを読んだ記憶はあるが、私は、この手のネットの事情はまったくうとい。私は目の調子がよくないので、何やら細かいキャラクターが飛び交うバーチャルシティの映像は、見ていてちょっとつらい。
 そのうえ。
 肝心の対決のシーンに使われる「ゲーム」が「花札」というのが、なんともまあ、おもしろくない。誰もが知っている簡単なゲームで巨大コンピューターと戦う(コンピューターを混乱に陥れる)というのは、この手の映画の最初の作品「ウォーゲーム」のまねごとだねえ。コンピューターの反乱自体は「2001年宇宙の旅」から描かれているけれど。まあ、ストーリーはというか、「戦い方」は「ウォーゲーム」や「2001年宇宙の旅」とは違うのだけれど、その「違った」部分に、「人情」というか、人と人のつながりが出てくるのが、なんともいやらしい。
 この映画のとても重要なキャラクター、おばあちゃん(声・富司純子)の「哲学」が、ここに反映している。「重要なのは人と人とのつながり」という主張。
 それはそれでいいけれどさあ、なんか、ばかにしていない?
 そんなありふれた「哲学」を主張するために、バーチャルシティだの、アバター(だったっけ?)、パスワード窃盗だのを登場させ、あれこれやってみせるというのは。まるで、PTAの「説教映画」。
 「花札」で負けそうになった主人公側に、世界の人々が、「私のアバターをつかってください」と提供し、それによって最後の大逆転というのは、うさんくさいなあ。いやだなあ。
 ああ、「2001年」の「ハル」がメモリーを取り外される過程で、必死になって「デイジー……」と歌う、その音がだんだんくずれて低くなっていくシーンの悲しみ。(私が見たあらゆる映画のなかで3番目くらいに泣けるシーン。思い出すだけで、涙が出てしまう。)「ウォーゲーム」の「3マス五目並べ(?)」を必死になってやるコンピューターの突然の覚醒。そこには、なんといっても「機械」の正義のようなものがあった。機械から人間に対する信頼のようなものがあった。--これって、結局、人間の、機械に対する「信頼」の裏返しの表現だけれど。
 「サマーウォーズ」には、そういう機械の悲しみ、機械のいのちが描かれていない。人間の「わがまま」だけ。「わがまま」なのに、それを正当化する「説教」。いやだね。

 ストーリーは別にして、映像という点でも、バーチャルシティの色使いが、とても気持ちが悪い。色に深みがない。唯一おもしろいのは、富司純子おばあちゃんが、ダイヤル電話を使うところかな。うーん、まだ、つかっているんだ。嘘だとわかっていても、あの、じーこ、じーこ、じーこというリズムを再現したのは、この映画の手柄。そのリズムが映像全体を動かしてクライマックスにつながればいいんだけれど(そうすれば、傑作)、リズムは捨てて、「説教」だけ引き継いだのが、失敗。この監督は、映画を知らないね。




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斉藤倫『さよなら、柩』(2)

2009-09-19 00:15:25 | 詩集
斉藤倫『さよなら、柩』(2)(思潮社、2009年07月30日発行)

 斉藤倫はとても頭がいい。それも天性の頭のよさであって、一生懸命勉強して身につけたガチガチの論理ではなく、とてもしなやかな構造を感じさせる頭のよさである。
 「ルドルフ・ヘスの部屋」。書き出し。

ルドルフ・ヘスはぼんやりしている
部屋には日がさしている
じぶんのやったことと
じぶんのあいだに
落ちこんでいる
たくさんの殺した
ひとこのことを考えている

 ヒトラーの側近のひとり。その思いを一人称で語る。こんなむずかしい題材を、斉藤はやすやすと(と私には感じられる)書きすすめる。斉藤がヘスをみつめるように、ヘスがヘスをみつめる--しかも、ヘスがヘス自身をみつめるというより、4行目の「じぶんのあいだ」ということばが明らかにするように、「あいだ」をみつめることで。
 斉藤は「あいだ」を発見している。
 肩入れもしない。批判もしない。
 「じぶん」と「こと」があり、「じぶん」と「こと」をつないでいるのが「あいだ」である。
 「じぶん」と「こと」を繋いでいるのは「思い」というものだが、その「思い」を「あいだ」と定義しなおす。「あいだ」というものは、どんなものでも大きかったり、小さかったりする。そして、「あいだ」がそういうふうに拡大・縮小が自在であるとするなら、その「あいだ」という物差しは、対象(こと)を大きくも小さくもみせる。

じぶんのやったことは
巨きな妄想なのか
小さなディテールなのかを
考えている

 「考えている」。その「考え」のなかで、「こと」がかわってしまう。「事実」はひとつなのに、それを「じぶん」と結びつけ、「こと」ということばでとらえなおすと、それは大きくなったり、小さくなったりする。
 「事実」はかわならないけれど、「こと」はそうではない。「こと」は「じぶん」ときりはなした客観的なものではなく、あくまで「じぶん」とつながっている。そして、その「つながり」が「こと」なのだ。
 「わるいこと」といえば、「わるい・つながり」。そしてつながったことによって「じぶん」は「わるいもの」になる。「よいこと」といえば「よい・つながり」であり、「じぶん」は「よいもの」になる。「あいだ」は「つながり」であり、「あいだ」は「じぶん」と「こと」を同時に定義するものなのだ。

 斉藤は、ここではヘスを描くというより、「じぶん」「こと」「あいだ」の哲学をやっているのだ。ナチスの犯罪を簡単に悪と定義するのではなく、人間とこととの関係を哲学する素材としてつかっている。
 ナチスの犯罪については、もう結論が出ている。
 だから、犯罪を裁くのではなく、犯罪のなかにある「哲学」、人間が生きるときの「こと」と「じぶん」の「あいだ」の関係を「考えている」。
 ヘスを題材に選んだのは、ヘスについて書けば、犯罪そのものについて書く必要がないからかもしれない。
 斉藤はあくまで「あいだ」を哲学したいのだ。

ひどいことをした
悪いことをしたと思うのに
そのひどいこと
悪いことが
紙にかいた花みたいだ
魔がさしたというなら
いまのじぶんはまだ
魔がさしたままだろう

 「あいだ」は感じで書けば「間」。それは「ま」とも読む。そして「ま」は「魔」とも書くことができる。あるいは「真」とも書くことができる。
 「あいだ」のありかたしだいで、「魔」になる。それが「あいだ」の「真」の姿なのかもしれない。
 --ということを斉藤はくどくどと書いているわけではないのだが、私は、そんなふうに考えてしまった。
 斉藤の作品のなかにある「考えている」が「考え」を誘うのである。
 斉藤は、ヘスの「じぶん」と「こと」との「あいだ」について考えながら、斉藤とヘスのあいだに何かがあるとしたら、その「あいだ」はどんなものだろうかと考えている。ヘスのしたことは犯罪であると言ってしまえば簡単だが、そうはせずに、人間と人間の「あいだ」について考えている。人間と「こと」との関係を考えている。
 こんなふうに、ナチスの犯罪にしばられずに(?)、しなやかにことばを動かしていけるのが、斉藤の頭のよさなのだと思う。
 そして、そのことばの動かし方には、「あいだ」「間」「魔」「真」と、斉藤のことばを借りながら書いてみたのだが、何か、日本語そのものと向き合う姿勢がある。「魔がさした」という表現がヘスのことば(ドイツ語)であるのかどうか知らない。あったとして、どういうのか私は知らない。斉藤は、それを日本語、しかも、誰もが知っている「口語」を土台にしている。そこに、「口語」をきちんと生きている頭のよさ、しなやかさを私は感じる。




オルペウス オルペウス (新しい詩人)
斉藤 倫
思潮社

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