詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「坂道とは人生です」

2013-04-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「坂道とは人生です」(「ココア共和国」12、2013年04月01日発行)

 きのうにつづいて、詩人アリス「夜の国のアリス」について書くつもりだったのだけれど、「つづく」はやめて、秋亜綺羅「坂道とは人生です」について。
 でも、感想の対象が違っても、私の感想は「つづく」かもしれない。

 秋亜綺羅「坂道とは人生です」は「流通言語」に見られる「人生は坂道」という「比喩」批判のスタイルをとっている。

ひとりの若い男が老女を背負い坂道を登っていく
登りきるとそこには澄んだ青空があった

坂道とはなんですか?
はい! 人生です

青空ってなんですか?
はい! 希望だと思います

 人生は坂道。それを登りきったら希望が輝いている(希望が実現している?)。だからつかくても坂道を登ろう。--まあ、ねえ。
 でも、これって結局、人に苦労させるための「方便」かもしれない。「つらいからいやだよ」「でも、つらいからこそ、そのあとに楽しいことがある。頑張ろう」という具合。その「説得」のなかに、やっぱり「ことばの肉体」がある。そこに「肉体」があるからそ、ちょっと、抵抗する(批判する)のがむずかしい。言い換えると、確かに苦労した後に何かを達成するというようなことを人間は体験してきているからね。それが「嘘」だとは言い切れない。言い切ってしまうと、うーん、自分のした苦労はただの自己満足なのかなあ、という疑問がでてきたりするからね。自己批判(反省?)って、いやだよね。
 
 「論理の肉体(ことばの肉体)」を、では、どうやって「解体」すればいいのかな? (ちょっと古いけれど、「流通言語」にまでなってしまったことばをつかってみた。)

大きいつづらと、小さいつづらと、玉手箱では
どちらを選びますか?

大きいつづらを開けると
小さいつづらが入っていた

そんなことまでして
小さいつづらを選ばせたいんかい

 笑ってしまうね。「小さいつづら」は比喩としては「坂道」に通じるね。まあ、そんなふうな「論理の肉体」が「流通言語」にはあると秋亜綺羅は言うのだ。
 で、これだけでは「論理の肉体」の「肉体」の部分が、ちょっとわかりにくいかな?
 で、次の行。

小さいつづらを開けると
大きいつづらが入っていた

大きいつづらを開けると
もっと大きいつづらが入っていた

もっと大きいつづらを開けると
もっともっと大きいつづらが入っていた

もっともっと大きいつづらを開けると
もっともっともっと大きいつづらが入っていた

もっともっともっと大きいつづらを開けると
もっともっともっともっと大きいつづらが入っていた

 「小さい」もののなかに「大きい」ものは入らない。これは「算数(物理)」の論理だけれど。でも、仕掛けがあれば「小さい」のなかに「大きい」が入ることは可能。「大きい」を圧縮した形で「小さい」のなかに入れておけばいい。「小さい」をあけた瞬間に圧縮がとけて「大きい」にかわる。こういうことは、ほら、自動車のエアバッグとかいろいろあるね。非論理的に見えても「仕掛け」次第でそれが可能。--で、そこには「仕掛け」という「論理の肉体」が隠れているのだけれど。それは、また別の問題で--というか、私の関心とは少し違うので、私が関心をもっていることにしぼって書くと。
 「開ける」と「入っていた」という動詞。ここに「肉体」が直接関係してくる。道具をつかって「開ける」ということはあるけれど、「開ける」の基本的な作業としてはたいてい「手」をつかう。自分の手をつかう。そしてそこに何かが「入っている」ということも「目」という肉体をつかって確認する。そのとき「肉体」が「ことば」のなかに入り込んでくる。
 (この「肉体」は「論理の肉体」「ことばの肉体」と区別して、「肉体の肉体」と呼んだ方がいいのかもしれない。私は以前「肉眼」だけではなく「肉耳」ということばで松岡政則の詩の感想を書いたことがあるけれど……。)
 「肉体」が入り込んでくると、それがどんなに「架空」というか「ことば」だけで書かれたものであるにしても、そこに書かれていることを「肉体」で了解してしまう。「頭」だけではなく「肉体」が反応してしまう。「ことばの論理」にすぎないものを「肉体」で了解し、「わかってしまう」。どんなことであれ、「わかる」とき、そこに「肉体」が関係してくる。「肉体」の関与が強ければ強いほど、「わかる」は「わからない部分」を平気で乗り越えてしまう。
 で、「肉体」はそのとき「論理の肉体」と奇妙な形で交錯しながら「論理」を納得する。「わかる」。
 詩人アリスの詩のなかに

わたしは眠れない朝をさめた猫とスープをすする

 ということばがあったが、そこにも「すする」という動詞、「眠る」「さめる」という動詞があって(「さめた」は「さめる」という動詞が連体形に活用した修飾語だけれど)、この動詞が、読者の「肉体」に働きかけてくる。この行の場合、特に「すする」が「肉体」を「口」や「舌」や「スプーンをもつ手」にまで微分した形で働きかけてくる。「すする」ということばを読むとき「口/舌/手」が無意識に動く。
 で、スープをすするように、私は猫まですすってしまう。さめた「猫とスープ」をすする。「さめたスープと猫」をすする。
 詩人アリスの書いているのは、感情がさめた猫といっしょに、熱いスープをすするという「意味」かもしれないけれど、そして詩人アリスは猫をすするとは書いていないのだけれど、「すする」ということばが、猫さえも「すすれる」ものに替えてしまう。
 「肉体」は、そこまで錯覚しやすいものなのである。
 だから、注意が必要。
 「流通言語」のなかには「坂道を登りきると青空があった」の「登る」のような動詞(肉体に働きかけてくることば)もあって、そういうことばには、人間はのみこまれやすい。だまされやすい。「肉体」が「分有」されるので、その「分有された肉体」を起点にして、「論理の肉体」にすぎないものが、「肉体の論理」として動くようになるのだ。

 で、ここからかなり飛躍して、違うことを少し書いておくと(メモしておくと)。
 たとえば絵を見ていて音楽が聞こえるとか、音楽を聞いていてある情景が見えるとか、そういう経験をすることがある。視覚/聴覚が「肉体」の内部で融合して、なぜだか入れ替わるということがある。これは、もともと視覚/聴覚といいながら、それは目、耳というものが「独立」していないことと関係する。「肉体」から「目」「耳」を分離してしまうと、それは「目」「耳」ではなくなる。「肉体」としてつながっているからこそ「目」「耳」なのである。
 感覚は「肉体」の内部で融合し、入れ替わる。
 これと同じことが「論理の肉体」でも起きる。これを悪用して(?)、政治家は国民を都合のいいように動かす、動かすための「流通言語」を利用する。「坂道を登りきると青空がある」という具合に。
 こういう「流通言語」を、すこし離れたところから、秋亜綺羅は揺さぶっている。直接揺さぶらなくても、「ことばの肉体」はこんなふうに動くこともできるということを実証することで、流通している「論理の肉体」を見極めようと「注意を促す」ということをしている。--こんなふうに書くと、ちょっと、政治的でいやらしくなるけれど。
 詩的に(文学的に)言いなおせば。
 新しい「論理の肉体」を実現することで、「ことばの肉体」に敏感になる。その「敏感」のなかに詩がある、ということになるかもしれない。

 きのう、きょうとつづけて書いたことは、ほんとうは書く必要がないことだったかもしれない。この詩のここがおもしろいよ、このことばの動かし方が刺戟的だよ、と言えばよかったのかもしれないけれど、詩人アリスと秋亜綺羅をいっしょに読んだら、その共通点を書いてみたくなったのでこうなってしまった。
 詩人アリスには、ちょっと申し訳ない書き方になってしまった。




透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
コメント
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