詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

2013-04-17 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋、2013年04月15日発行)

 私は村上春樹の熱心な読者ではない。群像新人賞をとったときの作品と、『1Q・・(タイトルは忘れた)』と今回の作品と3作品しか読んでいない。『1Q・・』は2まで読んで、3は買ったが、読まないままどこかに紛れてしまった。
 文章があまりにわかりやすすぎて、小説を読んでいる感じがしない。私は目が悪くて読むのに非常に時間がかかるはずなのに、あっという間に読めてしまう。それが、読んでいて、とてもいやな感じなのである。
 で、今回の作品。

つくるの意識の中で、父子の姿かたちは自然に重なり合った。二つの異なった時間性がひとつに混じり合うような、不思議な感覚があった。あるいはその出来事を実際に体験したのは父親ではなく、ここにいる息子自身なのかもしれない。      (79ページ)

 沙羅がテーブル越しに身を乗り出し、彼の手に手をそっと重ねた。(略)それは、遠い場所でたまたま同時的に起こっている、まったく別の系統の出来事のようにも感じられた。                               (147 ページ)

 ここにテーマが要約されている。(他にも随所にテーマは要約されているが)。
 違ったもの(二つのもの)が時間と場所を超えて重なり合う。あるいは違ったもの(二つのもの)が時間と場所を同時にしながら離れる。人間の関係(社会構造)は、そんな具合にできている。
 この単純化は『1Q・・』にも通じる。『1Q・・』のQは9と重なりながら離れてもいる。世界の構造(人間関係)があまりにも単純化されているので、とてもわかりやすい。初めて読む本なのに何度もくりかえし読んだ本のように即座に要約でき、キーセンテンスが読む前から傍線つきで見えてしまう。
 これは、たぶん、世の中はそんなふうに単純化してはいけない、ということなのだと思う。確かにどんなことでも、出会いの瞬間、それは別次元を引き寄せるか、あるいは別次元への乖離(分裂)かという運動を引き起こすけれど--そんな「要約」を小説のなかに持ち込んでは、「小説」が「世界構造の解説書」になってしまう。それも学校の先生がつかう「アンチョコ」のような解説書になってしまう。オリジナリティーがまったくない、「流通解説書」になってしまう。村上春樹に「小説の読み方」を教えられながら読んでいる、授業を受けているような、しかも教科書のアンチョコをそのまま読みあげている先生の授業を受けているような、つまらない気持ちになる。いやあな感じになる。そのアンチョコ解説書にしたがえばテストで 100点をとれるかもしれないけれど、それで何かを学んだことになる?  100点の取り方を学んだだけじゃない?

 小説って違うんじゃない? そこに登場する人物がたとえ人殺しであっても、あ、この人殺しになってみたいと思わせるのが小説じゃない? 主人公がどんなに不幸になろうが、その不幸に泣きながら、その主人公になってみたいと思うのが小説じゃない? そのとき、世界がどんな構造になっているかなんか忘れて、ひとりの人間になってしまうのが小説じゃない? あるいは、こんなことを書くなんてこの作家変じゃない? 異常じゃない? でも、なんだかおもしろい。できれば真似してみたい、と思うのが小説じゃない? (あるいは魅力的な先生じゃない?)
 私は、私の読んだ限りの小説で言えば、村上春樹の書いている小説の主人公になってみたいと思わない。そこに登場する悪役になってみたいとは思わない。また解説つきの作品は小説とは思わない。

 ちょっと脱線したかな?
 村上春樹は、小説の「要約」をところどころにはさみながら、読者を誘導し、ストーリーを展開する。だから、とても読みやすい。わかりやすい、読みやすいという点では村上春樹は日本でいちばんわかりやすく、読みやすい作家だろう。けっして読み間違えることはない。テーマを読み落とすことはない。だれでも同じ「結論(?)」に間違いなくたどりつける。
 という具合に小説をつくっているのだが。
 307 ページ。この小説のハイライトの部分で、私は、びっくり仰天してしまった。何だ、これは。こんなむちゃくちゃなことばの運動があっていいのか。これが小説と言えるのかと本を投げつけたくなった。(会社で、こっそり仕事中に読んでいたので、それはできなかったが……。)

彼は息を止め、目を堅く閉じてじっと痛みに耐えた。アルフレート・ブンデルは端正な演奏を続けていた。曲集は「第一年・スイス」から「第二年・イタリア」へと移った。
 そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷とによって深く結びついているのだ。痛みと痛みにって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

 「人の心と人の心は……」以下は、最初に引用した「二つの世界」の出会い方と分離のしたか(重なり方、調和の仕方、離れ方)を言いなおしたものである。どんな出会いでも、それが「調和」するときは「傷み」よって「重なり合う」、「傷み」を共有することによって「一つ」になる。
 それはその通り。阪神大震災、オウムのサリン事件、東日本大震災をとおして、いまの日本は「痛み」を「共有」することで、なんとか調和している。そういう「現実」とも重なり合っているし、この「結論(?)」に私が文句を言いたいわけではない。
 またそれが最初に書いたことがらの言い直しであることに対して文句が言いたいわけでもない。ひとは大事なことは(ほんとうに言いたいと思っていることは)、ことばをくりかえしながら何度でも言うものである。
 私が怒りたいのは、

そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。

 この「そのとき」である。「そのとき」って、何? いや、わかるさ。だれが読んだって、「そのとき」は「曲集は「第一年・スイス」から「第二年・イタリア」へと移った」ときである。
 でも村上春樹は、「第一年・スイス」と「第二年・イタリア」がどんなふうに違うのか、読んでわかるように書いていない。主人公がその違いをどんなふうに感じているのか、それをことばにしていない。
 こんなばかげた文章があっていいのか。
 「第一年」の痛みがどのようなものであり、「第二年」の痛みがどのようなものであるか。それを主人公がどう感じたのか書かずに、「第一年」の痛みと「第二年」の痛みが重なるように(結びつくように)、主人公多崎つくるの痛みと彼の友人たちの痛みが結びついていると言われても、それは「解説」として書かれている「図式」にすぎない。
 しかも「気取った解説」である。「巡礼の年」という曲を聴いた人なら「違い」を解説しなくてもわかるでしょ?という暗黙の(?)プレッシャーをかけ、反論を許さないというずるい解説である。
 私はもちろんその曲を聴いたことがない。私はばかだから、そしてそれを聴いたことがないということを恥ずかしいとは思わない。初版本を買った50万人のうちの何人がそのメロディーを口ずさむことができ、またそのうちの何人が誰それと誰それの演奏の違いを自分のことばで言えるか知らないが、まあ、読者をばかにしているなあとムカムカしてしまう。
 だいたいねえ。
 「傷」と「傷」、「痛み」と「痛み」をつなぐ、それによって「調和」するなんてねえ、そんな簡単に言ってしまっていいことなのか。
 他人の痛みなんて、わからない。わからないからこそ、その痛みを具体的に知りたい。わからないけれど、聞きたい。
 先の引用の前に、

 過ぎ去った時間が鋭く尖った長い串となって、彼の心臓を刺し貫いた。無音の銀色の痛みがやってきて、背骨を凍てついた氷の柱に変えた。        (307 ページ)

 と書かれているけれど、こんな痛み、わかる? 「くだらない現代詩の比喩」にしか見えない。「心臓」「背骨」は出てくるが、それは単なる肉体の部位の名称であって、肉体そのものではない。肉体が動いていない。そんなことろに、共有できる「痛み」なんかない。
 道端に腹を抱えてうずくまる人間がいれば、あ、腹が痛いのだと、他人の痛みのなのに痛みとして感じることができるが、それは私たちが腹を抱えて「痛い、痛い」とうめいた体験があるからだ。私は心臓を串で刺し貫かれた体験はないし(しかも、その貫く串が過去というわけのわからなもの)、背骨が氷の柱になったこともない。
 こんな「でたらめ」の「痛み」(空想)はとても「痛み」として共有できない。
 「共有不能な痛み」(気取った教養)を振りかざした「社会の構図(図式)」「人間関係の構図(図式)」を教えてもらいたくて私たちは小説を読むわけではない。(少なくとも、私は、そんなふうには読まない。)そういう「気取った精神」を「わかりたくて」読むわけではない。
 世界の図式なんか、わからなくてもいい。むしろ、図式がわからなくなったほうがいい。いま、自分が直面している思い通りにならない図式(社会/現実)がそこにあるだけで、けっこう。そんな「図式」はわかったって、いまを突き動かしてはくれない。わかりたいのは(感じたいのは)、いま自分が直面している人間であり、いま、ここにある「関係(図式)」を突き破って動いていく人間(個人)の可能性、力である。どんなふうにすれば、自分が自分でなくなれるのか。それが殺人者だろうが、殺される人間だろうが、その人間になってみたいという思いである。自分ではない人間になってどきどきしたい。そのどきどきのなかにだけ「わかる」がある。そのどきどきした「わかる」があれば、人間は生きていける。

 別なことばで言いなおすと、村上春樹の小説には、主人公の「逸脱」がない。登場人物の「逸脱」がない。登場人物は、村上春樹の「世界観」をなぞらされている。そして、その「正確なトレース」のために、ほんとうに書かなければならない部分が省略されている。
 これは小説と呼ぶには、あまりにもひどい作品である。ひどい作品とわかっていたからこそ、巧妙な宣伝で50万部を売ってしまうことにしたのだろうか。
 






色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上 春樹
文藝春秋
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする