詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩人アリス「夜の国のアリス」(2)

2013-04-11 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
詩人アリス「夜の国のアリス」(2)(「ココア共和国」12、2013年04月01日発行)

 秋亜綺羅を経由して「論理の肉体」について書いたので、もう一回、詩人アリス「夜の国のアリス」にもどってみる。
 「論理の肉体」の「肉体」の部分に、私の場合、ちょっと変なものがまじりこむ。きのう「肉体」と動詞のことについて書いたけれど、動詞以外のものも「肉体」に分有/共有される。
 「音」である。ことばから「音」が聞こえると、私はことばを「わかる」と判断してしまうらしい(自分のことなのに「らしい」というのは変かもしれないが)。これは「外国語」を例にするとわかりやすいかもしれない。私は日本語しかしゃべれないが、ある種の外国語の場合、「音」が聞き取れるときは「意味」も聞き取れる。理解できる。それと似ているかもしれない。私の場合、ことばとは「音」なのだ。文字も、その文字から「音」が聞こえてこない限り、私は理解できない。アルファベットの文字は全部読めるが、それがつながっているときの「音」が聞こえないので、外国語(西欧語)で書かれた本を読んでも、それが何を書いてあるかさっぱりわからない。
 逆に「音」が聞こえると「意味」がわかると同時に、ときには「意味」を考えずに、聞こえてきた「音」を「正しいことば」として感じてしまう。「耳」が聞き取った「音」というよりも、「音」によって覚醒した「耳」が他の「肉体」を、「感覚(肉体)」が融合する「肉体の奥(本能?)」まで引き込んでしまうという感じ。「肉体」が、「音」のある「場」そのものを呼び寄せてしまう。逆に言うと「肉体」が「音」の「場」に存在してしまう。「場」がふくむ「こと」を「肉体」が体験してしまう。「音」が存在したとき、それが「声」として聞こえたときの状況が肉体のなかでよみがえり、それが繰り返されて「意味」になる。ほら、外国なんかで「声」が意味のわからないまま聞こえてきて、それが自分に向けられた「声」だとわかったとき、状況そのものの意味がわかる感じ。車が目の前をすりぬける。「アテンション!」体がぱっと退き、ほっと一息ついて、そうか「アテンション」とはこういうことか。こういうときにつかうのか。「危ない」という翻訳はそのときにいらなくなる。--この「翻訳不要」の「音」がそのまま肉体にはいってくる感じが「わかる」ということ。私の場合は。
 脱線したが、私は、「音」が聞こえないと肉体が反応しないし、肉体が反応しないと「意味」もわからないという人間であり、肉体が反応すると「翻訳不要」の感じで「意味」を納得する。詩というのは「翻訳不能」のものだが、肉体が反応するとその「翻訳不能」が「翻訳不要」にかわる。
 また脱線したか……。

拇指があまりにも言うことを通せん坊
だから今日のサンドイッチは帯状疱疹の煌き
服飾タッチパネルが臍ピアスを齧るので
痛い痛いというカンカン踊りの曖昧さ
誰もいない電極の記憶は塩化ナトリウム

 この5行のなかでは、「拇指があまりにも言うことを通せん坊」の「通せん坊」が「翻訳不能」であり「翻訳不要」。「音」としてとても美しい。うっとりしてしまう。
 「通せん坊」の前に「言うことを」ということばがあるから、1行の「意味」としては「親指が言うことをきかない(頭の指示通りには動かない)」くらいのことなのかもしれないけれど、「きかない」より「通せん坊」の方が「音」が美しく、その「音」は同時に「通せん坊」という遊び(?)というか、そのときの「肉体」の動きそのものをも引き込んでくる。「言うことをきかない」だと「神経(意識?)」の「こと」になってしまうけれど、「通せん坊」だとそれが「肉体」全体をつかった動きになる。親指だけの「こと」ではなく、何か「肉体」がぱーっとひろがって動く感じがする。「肉体」が「通せん坊」につつみこまれる感じがする。そういう感じの「起点(起爆剤)」が「通せん坊」という「音」なのだ。
 「通せん坊」には、まだ「意味」があったかもしれないが--「意味」がある方が私の感じていることを説明しやすいと思って、まず書いたのだが。
 次の「だから今日のサンドイッチは帯状疱疹の煌き」の「サンドイッチ」と「帯状疱疹」のなかに響きあう「音」、あるいは「服飾」と「タッチパネル」のつながり、「塩化ナトリウム」という「音」は、まあ、「音」としか言いようがない。そこに書かれている「音」が、思わず声に出したい(耳で聞きたい)という欲望(本能?)を刺戟する。「音」に刺戟される。私は詩を読むとき音読はしない。黙読しかしないが、書かれている文字を読みながら、無意識にのどが動く。耳が動く。(読んだ後、のどが非常に乾く。)で、その黙読のときの「耳」と「のど」のスムーズな連動を、私は「音」と感じていて、その「音」を受け入れるのは、「耳」だけではなく、「のど」もそうなのだ。だから、のどが乾くのだ。
 こんな「ごちゃごちゃ」を書いても、何のことかわからないかもしれない。私にもよくわからないのだが、まあ、そういうことが、私の「肉体」に起きる。「音」が「肉体」を勝手に支配して、「これはいい」「この詩はおもしろい」と判断する。で、私の「頭」は、その「肉体の独断」を、うーん、それはどうしてのだろう、と考えはじめる。そしてこどを動かしはじめるというのが、たぶん私の「感想(読書日記)」のスタートなのだ。

 詩にもどると……。
 詩人アリスのことば、その「音」は、私にはとてもよく聞こえる。

真夜中は体臭の猫
の町に実行された
忘れられない曲を探してさまよう

 軽くてすっきりしていて、スピードがある。この「音」が「論理の肉体」にはとてもあっていると思う。そして、その「音」は秋亜綺羅の透明さを超えて、もっと雑多で乱暴である。暴走する。つまり若さにあふれている。--ので、私は、詩人アリスを読みながら、「高3コース」時代の秋亜綺羅を思い出したりするのだと思う。

東京タワーは簡単に頻繁に材料を購入する
を食べるように
虚勢の女の子が兎口早稲桃尻開発をなかったとしても
私たちの放射線の量
で鼻の崩壊の思い出
は卵に出産を知らせます
の研究室なしに以上の脊椎カリエス
を夢見ていたバナナの一気飲みを奨励
するをもって脱糞する未練
は廃炉を響かす

 秋亜綺羅は「百行詩」を目指したが、詩人アリスは千行、一万行を書くだろう。そういうエネルギーがある。「意味」を蹴散らして、一瞬一瞬、ことばが「音」としてそこに存在する。「音」が何かが集まってくるのを待っている。待っていながら、やってこない何か(意味かもしれない)をさらにふりきってかけだしてゆく。このリズムはとても気持ちがいい。








季刊 ココア共和国vol.12
秋 亜綺羅,ブリングル,坂多 瑩子,北条 裕子,詩人アリス
あきは書館
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