詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

後藤ユニ「かなしみのパン」、依田冬派「コップいっぱいの水をどうぞ」

2013-04-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
後藤ユニ「かなしみのパン」、依田冬派「コップいっぱいの水をどうぞ」(「現代詩手帖」2013年04月号)

 「現代詩手帖」2013年04月号には若い詩人の作品が何編か発表されている。後藤ユニ「かなしみのパン」がいちばんおもしろかった。最初から何かがわかっているのではなく、書くことで少しずつわかっていく。自分の中に何かを見つけ出す。それがことばの運動そのものとして、そこにある。

 それは夢のように白くはちきれそうな丸みを帯びている。それは死んだようにずっ
しりと重たい。それはわたしの胸をどうしようもなくざわつかせる。それは熱くも冷
たくもない。さっきから遠くで子供の泣く声が聞こえている。鼻血が出ているかもし
れない。鼻の奥が妙に冷たく喉にいやな感触がある。舌をめいっぱい鼻へのばしてみ
ても血の味はしなかった。誰も知らないということがあるだろうか。誰も知らない。
誰も知りたいとは思っていない。誰も自分が知らないことすら知らない。それはかな
しみと言うことでようやくわたしの内部から剥がれ鈍い反射をする。わたしはひとつ
のかなしみだった。それ以外のことはあまりにも移り変わりすぎてもう確認できなか
った。

 「それ」が何かわからない。突然、「それ」といわれても読者(私、谷内)にはわからない。けれど後藤は「それ」を知っている。知ってるから「それ」という。けれど、「それ」はうまくことばにならない。ただ「それ」とわかっているだけである。
 だから手探りでことばを動かす。「比喩」をつかって。
 「夢のように」「死んだように」。「比喩」をつかうと、ことばが動く。「いま/ここ」にないものが「それ」を動かす。「それ」と「夢」はいっしょではないがいっしょのものを含んでいる。「丸みを帯びている」「ずっしりと重い」。その同じと違うがつくりだす切断と接続がことばを少しずつ動かしていく。ことばを動かしていく--は、ことばが自分の力で動けるように目覚めていくということかもしれない。
 知っている、わかっている--けれど、ことばにならないものを、どうやって知っている、わかっているそのものに変えるか。
 「鼻血が出ているかもしれない。鼻の奥が妙に冷たく喉にいやな感触がある。舌をめいっぱい鼻へのばしてみても血の味はしなかった。」
 ここが好きだなあ。
 口のなかで舌を鼻の方へのばして、血の味を確かめたことがあるのだ。後藤には鼻血を流した体験があり、同時に口の内側で鼻血をなめて確かめた体験がある。肉体が覚えていることがある。後藤は「肉体」を探しているのである。「それ」を「肉体」だと感じているのである。
 でも「それ」は「鼻血」ではなかった。
 そのあとで、それは「知っている」ものではないと知る。知っているつもりだったが、「それ」は知っているには似ていても「知っている」「わかっている」ものではなかった。では何なのか。

それはかなしみと言うことでようやくわたしの内部から剥がれ鈍い反射をする。

 「悲しみ」を知らないという人間がいるだろうか。「悲しくて」泣いたことがないという人間がいるだろうか。そんなふうには思えない。だから、

かなしみ

 とりあえず「かなしみ」がいちばん近いだろう--と後藤は思っているのかもしれない。「悲しみ」でも「哀しみ」でも「愛しみ」でもない。まだ、「流通言語」になっていない、何か。それが「自分の内側」にあって、それが「剥がれ」て、ようやく「ことば」になろうとしている。
 まだ、ことばにはなっていない。
 ことばの「かたち」をしているが、そして、こうやって書かれているが、まだ「ことば」にはなっていない。未生のことば。未分化(未分節)のことば……。
 その「手触り(?)」しかないことばを、手触りをたよりに、しっかりしっかりしっかり、ていねいに押して行く。そうすると、少しだけことばが動く。そして紙にはりつく。そういう感じでことばが生まれてくる。
 いいなあ、これは。

 あなぐまのようなあなたのことを考える。夜、あなたの中へ入りたいと思って、お
臍めがけてどんどん進んでいくことがある。あなたは押され押し出されあふれ伸ばさ
れ回り込み、丁寧にわたしを包んでいく。あなたのなかへはいりたい。そうでなくて
は、わたしはだんだん腐っていく。あなたがわたしの皮だったら、あなたがわたしの
血肉だったらよかったのに。これではわたしが嘘みたいだ。つらい。はやくほんとう
になりたい。どうしたらほんとうになれるのか分からない。知りたくない。

 「あなた」と「わたし」が内部と外側に入れ替わる。そのときの「お臍をめがけて」からの描写がとてもリアルでていねいでおもしろい。
 「これではわたしが嘘みたい。」からが、さらにすばらしい。
 ことばを動かす、ことばが動く。それはことばが「肉体」を獲得し、ことばそのものになるということだけれど、そうなってしまうと「わたしが嘘みたい。」
 ことばにたよって、ことばのちからで、ことばになるのに、ことばになると、それは違ってしまう。ことばが誕生した瞬間に(詩が生まれた瞬間に)、新たな「未生のことば」が生まれる。--これは、とんでもない矛盾というか、堂々巡りだけれど、そういうものにぶつかったあと、

どうしたらほんとうになれるのか分からない。知りたくない。

 この「分からない」がいい。ほんとうは「分かっている」。だから「知りたくない」。ここにも矛盾があるのだけれど、矛盾の形でしかいいあらわすことができなもの、矛盾の形を通してしか存在しえないもの、それが詩なのだ。
 


 依田冬派「コップいっぱいの水をどうぞ」はずいぶん手慣れている。後藤が「矛盾」のかたちでやっとつかみ取ったものを、依田は「逆説」という形式(既製の文体/レトリック)を活用して簡明に描き出す。

空へと落下してぬくおもいでの数々を
ささえようと翔びたつ鳥
その名でうめつくされた頁をひらき
端から端へと
役に立たぬ罫線をつぶす

そこをひとつの路だと仮定しても
ぬのぎれふるものはなし
それでも全身がこたえようとするとき
雲よおちばのようにふりつもれ
このまま逆さまがただしい街になればいい

 「仮定しても」。
 後藤が手探りで--いや、舌さぐりで、と言いなおそうか。そうすれば後藤と依田の違いがより鮮明になるだろう。後藤は自分の舌で、自分の口の中、鼻の付け根をさぐって、そこに血が流れているかどうか、味で確かめようとした。「肉体」をつかった。ことばは「肉体」のなかを動き、「肉体」を分有することで「ことばの肉体」を獲得し、自立して動く。ことばの自律。これに対して、依田は「仮定」で処理する。「仮定」は「頭」で想定するものである。そのあと「存在(もの/肉体)」で実証するものである。もちろん、後藤の「鼻血が出ているかもしれない。」も「仮定」ととらえることができるが、その「仮定の現場」が自分の肉体である。依田は自分の肉体を仮定の現場とはしていない。だから、その現場を動くのは「肉体」ではありえず、「それでも全身でこたえようとするとき」と「全身」ということばを持ち出してきても「肉体」は関与できず、「雲よおちばのようにふりつもれ」と、抒情的にことばが動くしかない。
 そして依田は、その抒情を、音楽の力で押して行く。これは私の「感覚の意見」だけれど、依田のことば、「音」としての強みを持っている。鍛えられた「音」の正確さを持っている。

あけはなつひとがお早う
といって花ビンをなげわれるさまを

 ひとつのことばからべつのことばへ動くとき、その切断と接続が、「音」ゆえになめらかに動く。具体的な動きが、「音」のなかに吸収されるというか、「音」のなめらかさが私の「肉体」を押し流す。思わずもう一度読み返したくなる。もう一度「音」の流れにのって、その流れを滑りたくなる。
 後藤が「散文派」だとしたら、後藤は生まれついての「韻文派」なのかもしれない。




 



現代詩手帖 2013年 04月号 [雑誌]
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