北川朱実「きょう、日付変更線を」ほか(「別冊詩の発見」12、2013年03月22日発行)
時間はどこにあるのだろうか--と、北川朱実「きょう、日付変更線を」を読みながら思った。
時間は
ほんとうに規則正しく進むのか
夜明けに
きのうの夕焼けが混じることはないのか
日付変更線を引き直して
二十九日の翌日が三十一日になった
南太平洋の国の
消えた一日について
テレビが伝えている
「日付変更線」は人間が考え出した便宜上のものである。その便宜上のものによって、便宜上「一日」が消える。けれど、それはほんとうは存在する。あるいは、そうやって「消えた」という印象を残すことで、逆に強く浮かび上がってくる。「いま/ここ」ではなく「消えた」もののなかにこそ、ほんとうがある。
で、北川にとって「ほんとう」とは何か。
県道沿いに
父が開店した大きな古本屋
中は
椰子の木ばかりが繁る一枚の原っぱで
赤茶けた本が
あちこちの根元から生えている
と思ったら
鉄兜の欠片だった
レイテ島カンギポット
北川は、北川の父の「ほんとう」が「レイテ島」にある、あの日にある、と感じている。それを確かめにレイテ島に来たのかもしれない。「消えた一日」は「日付変更線」によってのみつくられるのではない。
では、何によってつくられるか。どんな「便宜」がその一日を消してしまうのか。
これを考えはじめると、ちょっとめんどうになる。
北川は、その「便宜」をここではことばにしない。そうするよりも、その「消えた一日」を「消えない」形でつかみとろうとする。「消えない一日」として出現させることで、その一日を消してしまう力(便宜)に対して抗議をする。
目はあまりよく見えないほうがいいよ
道に迷えるから
笑いながらページをめくるたびに
村は 赤い花になってこぼれ落ち
花酒うまかったなぁ
あの花の名前、何というのだっけ
聞いても仕方のないことを何度も聞いて
父は 突然スコールになる
その「消えた一日」、父は花酒の花の名前を聞く。北川はその花酒の花の名前を知りたいと思う父を覚えている。それは消えない。
そういう「一日」を大切だと思うこと--それはその一日を消してしまった力から言わせれば「迷いごと」である。けれど、その「迷いごと」が、私たちの暮らしである。生きるということである。「便宜」によって整えられないものの中に、私たちは生きている。
そういう「一日」は、「あまりよく見えない/目」には不思議な形で見えるものである。花酒の花の名前を聞いた父は、「きょう」スコールというものになって北川の前にあらわれる。スコールに降られて、北川は、あ、父もこのスコールにぬれたに違いないと思う。そのとき、北川の「肉眼」は父を見ている。スコールなのに、父。スコールなのに、「花酒うまかったなぁ/あの花の名前、何というのだっけ」などと言っている。言わなければならないことは、ほかにもたくさんあるはずなのに、それを知ることがいちばん大切だとでも言うように。
なぜ、それが大切?
父は言うだろう。(北川は言うだろう。)それは「消えた一日」だからである。書くことで、北川は父になり、「消えた一日」になる。
*
大西隆志「本の彼方へ……故坂東芳郎さんへ」は古書好きの故人にささげた詩である。そのなかほどにとても魅力的な一行がある。
一度だけでも目を通された活字はゆっくりとことばの通路を開いている
これは北川の「消えた一日」に匹敵する。「消えたことば(消えた一行)」である。それは消えながら、その消えたものへと私たちを誘う。誘い込んで離さない。まるで、本の全部が消えたとしても、その「消えた一行」だけは永遠に残るかのように。
このとき、その「消えた一行」が坂東芳郎になる。北川の書いている「消えた一日」が父になるのと同じように。そして、それは、生きて、動く。
本の森のなかを歩きまわりながら、あちらとこちらの時間に
挨拶していく、こんにちは、こんにちは、お元気ですか
本にもいろいろな匂いがあります
かつては匂っていたインクだけではありません
頬を近づけてみれば、日だまりのなかで家族が笑っていたり
すべてを失って大声で泣くこともかなわない幼子の記憶
それらは匂いとして、行間から立ち上ってくるのです
一度でも「ことば」が読まれたなら(聞かれたなら)、そのことばは「一日」を消しはない。ことばによって「一日」はかならずどこかへ繋がっていく。「便宜」をくぐりぬけて、かならずよみがえる。よみがえろうとしている「ことば(一日)」があちらこちらに生きている。だから「挨拶していく、こんにちは、こんにちは、お元気ですか」。私は坂東芳郎という人を知らないけれど(大西も知らないのだけれど)、きっと、本を開きながら「消えた一日」にしっかりと向き合って、その一日を励ましていた人なのだろう。
時間はどこにあるのだろうか--と、北川朱実「きょう、日付変更線を」を読みながら思った。
時間は
ほんとうに規則正しく進むのか
夜明けに
きのうの夕焼けが混じることはないのか
日付変更線を引き直して
二十九日の翌日が三十一日になった
南太平洋の国の
消えた一日について
テレビが伝えている
「日付変更線」は人間が考え出した便宜上のものである。その便宜上のものによって、便宜上「一日」が消える。けれど、それはほんとうは存在する。あるいは、そうやって「消えた」という印象を残すことで、逆に強く浮かび上がってくる。「いま/ここ」ではなく「消えた」もののなかにこそ、ほんとうがある。
で、北川にとって「ほんとう」とは何か。
県道沿いに
父が開店した大きな古本屋
中は
椰子の木ばかりが繁る一枚の原っぱで
赤茶けた本が
あちこちの根元から生えている
と思ったら
鉄兜の欠片だった
レイテ島カンギポット
北川は、北川の父の「ほんとう」が「レイテ島」にある、あの日にある、と感じている。それを確かめにレイテ島に来たのかもしれない。「消えた一日」は「日付変更線」によってのみつくられるのではない。
では、何によってつくられるか。どんな「便宜」がその一日を消してしまうのか。
これを考えはじめると、ちょっとめんどうになる。
北川は、その「便宜」をここではことばにしない。そうするよりも、その「消えた一日」を「消えない」形でつかみとろうとする。「消えない一日」として出現させることで、その一日を消してしまう力(便宜)に対して抗議をする。
目はあまりよく見えないほうがいいよ
道に迷えるから
笑いながらページをめくるたびに
村は 赤い花になってこぼれ落ち
花酒うまかったなぁ
あの花の名前、何というのだっけ
聞いても仕方のないことを何度も聞いて
父は 突然スコールになる
その「消えた一日」、父は花酒の花の名前を聞く。北川はその花酒の花の名前を知りたいと思う父を覚えている。それは消えない。
そういう「一日」を大切だと思うこと--それはその一日を消してしまった力から言わせれば「迷いごと」である。けれど、その「迷いごと」が、私たちの暮らしである。生きるということである。「便宜」によって整えられないものの中に、私たちは生きている。
そういう「一日」は、「あまりよく見えない/目」には不思議な形で見えるものである。花酒の花の名前を聞いた父は、「きょう」スコールというものになって北川の前にあらわれる。スコールに降られて、北川は、あ、父もこのスコールにぬれたに違いないと思う。そのとき、北川の「肉眼」は父を見ている。スコールなのに、父。スコールなのに、「花酒うまかったなぁ/あの花の名前、何というのだっけ」などと言っている。言わなければならないことは、ほかにもたくさんあるはずなのに、それを知ることがいちばん大切だとでも言うように。
なぜ、それが大切?
父は言うだろう。(北川は言うだろう。)それは「消えた一日」だからである。書くことで、北川は父になり、「消えた一日」になる。
*
大西隆志「本の彼方へ……故坂東芳郎さんへ」は古書好きの故人にささげた詩である。そのなかほどにとても魅力的な一行がある。
一度だけでも目を通された活字はゆっくりとことばの通路を開いている
これは北川の「消えた一日」に匹敵する。「消えたことば(消えた一行)」である。それは消えながら、その消えたものへと私たちを誘う。誘い込んで離さない。まるで、本の全部が消えたとしても、その「消えた一行」だけは永遠に残るかのように。
このとき、その「消えた一行」が坂東芳郎になる。北川の書いている「消えた一日」が父になるのと同じように。そして、それは、生きて、動く。
本の森のなかを歩きまわりながら、あちらとこちらの時間に
挨拶していく、こんにちは、こんにちは、お元気ですか
本にもいろいろな匂いがあります
かつては匂っていたインクだけではありません
頬を近づけてみれば、日だまりのなかで家族が笑っていたり
すべてを失って大声で泣くこともかなわない幼子の記憶
それらは匂いとして、行間から立ち上ってくるのです
一度でも「ことば」が読まれたなら(聞かれたなら)、そのことばは「一日」を消しはない。ことばによって「一日」はかならずどこかへ繋がっていく。「便宜」をくぐりぬけて、かならずよみがえる。よみがえろうとしている「ことば(一日)」があちらこちらに生きている。だから「挨拶していく、こんにちは、こんにちは、お元気ですか」。私は坂東芳郎という人を知らないけれど(大西も知らないのだけれど)、きっと、本を開きながら「消えた一日」にしっかりと向き合って、その一日を励ましていた人なのだろう。
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