詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

丁海玉「行と行のあいだに」ほか

2013-04-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
丁海玉「行と行のあいだに」ほか(「space」109 、2013年04月20日発行)

 丁海玉は、これまで読んだ詩から推測すると、法廷で通訳(ボランティア)の仕事をしている。今回もそのことを題材にとりあげている。審理で読み上げる原稿が届いたが、行間が詰まっていて、あいだに翻訳のことばを書くスペースがない。レイアウトをかえてもらうが、それでも苦しい。

すんなり引き延ばされた白いあいだが
こちらをうかがう
こちらからもうかがう
やはり
どうしても足りない
2本の鉛筆の芯先を差し入れて
行と行を
上下にひっぱって広げてみた

そうしたら
ひし形に伸びて
ぱっくりひらいたところから
なにか滲み出るものがある
よくみると破れ目もあって
外へあふれ出てくるものは
止まるようすがない
あわてて薬箱にあった
ホルム散の粉をふりかけた

 滲み出てくるものとは何か。具体的には書かれていない。丁が翻訳(通訳)しなければならない「原稿」とはだれのものだろうか。検事側の起訴状だろうか。被告の答弁書だろうか。
 被告の答弁書だろうなあ。
 書かれたことばだけでは不十分であることが、丁にはわかる。ほかにいいたいこと、いわなければならないことがある。それが書かれていないけれど丁には聞こえてくる。あふれるように行間から次から次へと。
 具体的には書かれていないのだけれど、そんなことを感じさせられる。
 こういうことは法廷の「原稿」だけにはかぎらない。実際、この詩に感じているのは、まさにそういうことだ。書かれている文字はそれだけ。けれど、そのことばとことば、行間から書かれていなことばが声になって響いてくる。
 「ぱっくりひらいたところ」がとてもいい。
 丁は、「審理」とは別に、丁自身の「判断」が動くのを感じる。そこには丁だけがみつけた「真実」がある。その「真実」をしかし丁はいうわけにはいかない。丁の仕事は他人の語ることばをただ翻訳し、通訳することだけである。どれだけ行間が広くても、そしてそこにあふれてくることばが聞こえてきたとしても、そこに書いていないなら、それを翻訳することはできない。
 ジレンマがある。
 そのとき、「ぱっくりひらく」のは原稿の行間だけではない。丁のこころそのものがぱっくりひらいて、ことばがあふれだす。でも、それは言ってはいけない。
 もしかすると丁が聞いたのも、その「言ってはいけない」という被告の決意の中にあるものかもしれない。そうだったら、どうしよう。
 ことばがわかるゆえの苦悩。それが簡潔に、最小限のことばで書かれている。
 こういう苦悩は好きだなあ。いいなあ。



 書かれていなのに、そこに書かれていることを感じ取ってしまう。そういうことはしばしば起きるいその感じ取ったことは「間違い」かもしれない。でも、間違えながらも、その「声」を聞いた(聞こえると感じた)とき、そこには、詩、がある。
 松木俊治「平岡山」は、主人公が校庭の「登り棒」をよじのぼっている。

登りつめ荒い息を吐きながら
広がる田圃の向こうを見た
県立病院の白い建物
精神病棟だという噂だった

その日ぼくは母の帰りを待っていた
あれほど待っていたことはない気がする
しんとした部屋で
途方に暮れていた

 母はどこへ行ったのか。なぜ帰ってこなかったのか、書かれていない。ただ「待ったいた」ということだけが書かれる。そして「あれほど待っていたことはない」と補われる。その「声」が聞こえる。その「声」のなかに「真実」がある。「かなしみ」がある。それは、もしかすると松木の直面した「真実(かなしさ)」とは違うかもしれない。私の勘違いかもしれない。けれど、勘違いであってもいいのだ。私は、その「声」に共感している。私のものではない「途方の暮れ方(?)」なのに、その「途方に暮れる」を感じてしまう。
 「行間」(書かれていないことば)の「声」はとても強い。



 南原充士「古いビデオテープ」は、古いホームビデオテープをDVDに焼き付けて、それを見る、見たときのことを書いている。

今はない祖父母や
ずっと会っていない友人知人や
いまも一緒に暮らしている家族の
昔のようすが見えてきた
なんどもくりかえして再生しているうちに
なつかしいと感じた気持ちが
ふと淋しいへと変わり
さらに悲しいから空しいへ
そして感情が洪水のようにあふれて
自分のこころとからだが根こそぎ
流されてしまう恐怖にとらわれた

 「なつかしい」からの4行がとてもいい。そこには「行間」がない。びっしりくっついている。「なつかしい」「淋しい」「悲しい」「空しい」はことばそのものとして別個の存在なのに、「行間」がなくなり、「ひとつ」になってしまう。
 「行間」では、ことばは、純粋なまま、何にもまみれず、ただ「声」としてあふれる。「真実」としてあふれる。一方、「行間」のないことばのばあいは、ことばが融合して、もとのことば(純粋なことば?)ではなく、いままでそこに存在しなかった「声」になってしまう、ということかもしれない。
 ことばが行間で純粋になる、生まれる前の「声」になる。あるいは行間を埋めつくして新しい「声」を生み出す。どちらも、まだ「いま/ここ」には存在しないがゆえに、そして存在しないのに存在を感じることができるがゆえに、詩、なのだ。







こくごのきまり (エリア・ポエジア叢書)
丁 海玉
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