詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長嶋南子「猫又」

2013-04-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「猫又」(「きょうは詩人」2013年04月24日発行)

 長嶋南子「猫又」を読みながら、「わかる」とはどういうことだろうか、と考えた。

猫缶におかかをふりかけて食べている
台所でぴちゃぴちゃ食べている息子は猫です
きょうはバイクに乗って織さがし
手が丸まっているのでハンドル操作が苦手
事故を起こす パトカーが飛んでくる

猫の飼い主は誰かと
おまわりさんは近所の聞き込み
責任を取らされるのはまっぴらごめん
家で飼っているのは犬ですと大声で言う
うそだ 猫の親子のくせになにをいう
と隣の高橋さんがいいつのる

わたしも猫だなんて知らず
何十年も過ごしてしまった
食べたいものは猫缶ばかり
マグロ味かつお味ササミ風味野菜入りはおいしくない
ことばが出てこない変な鳴き声をしている
猫で生きていくしかない
息子は野良猫になってあちこちうろついている

 全部をきちんと理解(?)しようとするとややこしいのだけれど。
 あ、長嶋には息子がいるんだな。職がないんだ。ずぼらなんだ。バイクで事故をおこしたんだ。それで何か警察に質問されたんだな。いやだなあ。めんどうくさいなあ。「あれは息子ではありません」と言い切ってしまいたい。「もう息子は成人なので私の責任ではありません」そう言いたいのかもしれない。まあ、どっちでもいい。私のことではないのだから。(笑い)
 笑ってはいけないのかもしれないけれど、人間の「理解」なんて、そういうものだろう。
 で、息子が職をもたないということも、事故をおこしたということも近所に知られてしまう。知られたってどうということはないのだけれど、それは長嶋の言い分であって、近所は違う。野次馬だからね。「やっぱりね。母親だって詩人とかなんとか、へんなことをしている」とかなんとかかんとか。
 まあ、そんなことは書いてないのだけれど。
 書いてあるのは、息子が猫(野良猫)なら、私(長嶋)も「猫で生きていく」。
 あれ?
 邪険に(?)息子を扱いながら、やっぱり息子(猫)を気にしている。長嶋も「猫」になって生きてやると思っている。ここに、奇妙な繋がりがあるね。密着。粘着力があるね。

 まあ、私の書いていることは「誤読」かもしれない。「猫」は「比喩」であって、ほんとうの猫ではない。
 でも、それが「誤読」だとしても、そんなには間違っていないだろう思う。
 「世の中」の「わかる」というのは、だいたい、こんなものだろう。人は、「できごと」のすべてを把握して「わかる」わけではない。わからないところだけをテキトウに拾い集めて「わかった」と思うのである。
 それで問題はないのか。
 問題はない。

屋根の上でねそべって下界を見下ろす
事故の責任も取らされず
息子がいたことも忘れて居眠りしている
子どもがいなければ発情する?
いえ もう化けるだけです
犬に化けてベランダで遠吠えしています
「うるさい」隣の高橋さんが叫んでいる

 猫が「化けて」化け猫にならず、犬になるなんて、けっさくだなあ。
 妙なところで長嶋は読者を裏切るね。その裏切りのなかに、さわやかな何かが通り抜ける。
 化け猫になって恨まれたらイヤだし、化け猫なんて気持ち悪い。でも、猫から犬への変化なら、その気持ち悪さがない。
 でも、それって、ほんとうに「化ける」?
 何かが違う。
 そこに、不思議な何かがある。これをつきつめるのは「むずかしい」。言い換えると、ほんとうに長嶋が感じていることを自分の肉体のなかに取り込むのはむずかしい。ぜったいにわかるはずがない。

 ひととひととは、ぜったいにわかりあえない。

 もしかすると、長嶋はそういうことを「わかる」のかもしれない。「わかりあえない」なら、それを前提にして「わかる」をつみあげればいいだけである。そういう達観したところがどこかにあって、それがことばを自由にしている。
 どうせテキトウなんだから。
 でも、これをあんまりおおっぴらに言ってしまうと、隣の高橋さんに「うるさい」とまた言われてしまうだろう。いや、そういうのは長嶋かな? 知らないうちに隣の高橋さんに「化けて」しまっている。

 「無職」も、変な味がある。めんどうくさい「共感」がある。

失業した
石になって
家のなかをゴロンとしている

本は明日読めばいい
そうじも明日
長話の電話も明日
布団干しも買い物も公共料金の支払いも

きょうは石だからなにもしない

明日になれば
明日はきょうになる
やっぱりきょうも石だから
なにもしない
いつもきょうなので
明日はずっとこない

 「明日になれば/明日はきょうになる」。いいなあ。この開き直り(?)。ここに不思議な、あたたかい「真実」があるね。自分自身に対する真実。他人の論理なんか、どうでもいい。自分の「正直な真実」があれば、それでいい。
 長嶋のことばの中心には、「正直な真実」がある。それは「正直」だから、他人にはつうようしない。つうようしないのだけれど、「正直」なので、そこに一緒にいることはできる。これが「嘘つきの真実(実は、こういうもののあるのです)」だと、そういうひとは徐々に……は、書かずに置いておこう。








猫笑う
長嶋 南子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケン・ローチ監督「天使の分け前」(★★★★)

2013-04-30 11:43:04 | 映画
ケン・ローチ監督「天使の分け前」(★★★★)

監督 ケン・ローチ 出演 ポール・ブラニガン、ジョン・ヘンショウ、ゲイリー・メイトランド、ウィリアム・ルアン、ジャスミン・リギンズ

 映画には感想の書きやすいものと書きにくいものがある。ケン・ローチ監督「天使の分け前」はとても書きにくい。何が書きにくいかというと……。
 ケン・ローチという監督は、他人に対する「親和力」がとても強い監督である、と書いたらあとは書くことがないからである。「親和力が強い」というのは、私の勝手なことばなので、ほんとうはもっと別な言い方があるかもしれないが。
 違った言い方をすると。
 ケン・ローチは、映画に出てくる人を嫌いにならない。そのまま、全部を受け入れる。生きているまま、動かしてしまう。ルノワールやタビアーニ兄弟にも同じ力を感じるけれど。
 そして、ケン・ローチは生きている人間をそのまま応援するけれど、かといって応援しすぎて人生をねじまげるというようなこともしない。「そのまま」そこに存在させる。そしてそうやって生きていることが輝くのを待っている。そんな感じ。

 映画に則して言いなおすと。
 登場するのは、いわゆる「不良」である。すぐ暴力を振るってしまう主人公。盗み癖がとまらない女。無知な酔っ払い。でも、そういう彼らが社会でちゃんと働いていけるよう応援する人もいる。
 主人公には人とは違った能力がある。嗅覚が強い。ウィスキーのテイスティングで香り、味の違いを指摘できる。--こういう人間を主人公にしてしまうと、その能力を生かして、主人公の出世物語をつくりあげてしまいそうである。主人公には恋人がいて、赤ん坊もうまれる。テイスティング能力をかわれて、主人公の成功物語が始まり、それに家族がむすびつく……いわゆるハッピーエンディング。
 でも、ケン・ローチはそういうことをしない。主人公にできることは、そういう「成功」ではない。彼のまわりにいるのは、そういう「成功」をささえる人ばかりではない。もっとだらしない(?)。でも、生きている。そういう仲間と一緒になって、そういう「成功物語」もあるかもしれないけれど、それじゃあ、嘘になってしまう。
 嘘にならない前に、現実に戻り、そこで生きる。
 不良仲間なので、まず、盗みをする。すばらしいウィスキーがみつかった。オークションがある。その会場に潜り込んで、樽ではなく、樽からビンにちょっと盗み出す。そしてそれをほしがっている人間に売りさばく。--これって、まあ、犯罪なのだけれど、もともとウィスキーには蒸発分が見込まれている。蒸発しながら味がよくなる。これが「天使の分け前」と呼ばれるもの。その「天使の分け前」を増やすだけ。自分たちのものにするだけ。
 これを否定してしまったら、人間は生きるのがむずかしい。積極的に「やれ」というのではないけれど、そうしたからといってそれをとがめない。そういうことは「個人」の問題なのだ。自分で切り開いた道なのだから、それをやればいい。そういう「天使の分け前」の領域というのは社会がもっていないといけないのである。あいまいな、どこかへ消えてしまう何か。けれども、そのあいまいなものによって「味」がよくなる。そういうもの。そういうあり方に、ケン・ローチは寄り添っている。この寄り添い方が、人間を嫌いにならない、人間を好きになるということ。受け入れるということ。
 で、最後の方。
 盗み出した一本を主人公は、自分を受け入れてくれたウィスキー好きのおじさんにささげる。このおじさん、それが盗み出されたものであることをすぐにわかる。わかって、そのことに対して怒るのではなく、「あいつめ」と受け入れる。ここにケン・ローチがそのまま出で来る。いいなあ。




ケン・ローチ 傑作選 DVD‐BOX
クリエーター情報なし
ジェネオン エンタテインメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする