詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大西美千代「死んだも同然」ほか

2013-04-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
大西美千代「死んだも同然」ほか(「そして。それから」3、2013年03月発行)

 大西美千代「死んだも同然」の前半におもしろい部分があった。

騒々しい不在を抱えて
地下鉄に乗っている
見知らぬ人に囲まれている

五八歳の母に会いたくなって
地下鉄の窓に目をやる
八七歳の母はすこぶる元気で
今頃は花に水をやっているだろう

電車が止まる
たくさんの人が降りていく

 2連目「五八歳の母に会いたくなって/地下鉄の窓に目をやる」は、大西がいま五八歳で、そのときの母を思い出しているのだろう。顔が似ているのかもしれない。地下鉄の窓をのぞくと、そこに自分の顔ではなく、昔の母の顔、五八歳の母の顔が見えたということだろう。そして、母に会いたくなった。--詩は、母に会いたくなって窓に目をやると書いてあるから、ほんとうは、母のことをふと思いながら地下鉄の窓をのぞくと、そこには自分の顔ではなく五八歳の母の顔が映っていたということかもしれない。あるいは、地下鉄の窓をのぞけばそこに五八歳の母そっくりの自分の顔が映るとわかっていて、そうしたのかもしれない。どっちでもいいが(どっちでもいいということはないかもしれないが)、母と自分、その顔のつながりが緊密に結びついている。
 で、その緊密な感じがあるから「八七歳の母はすこぶる元気で/今頃は花に水をやっているだろう」が空想なのにありありと感じられる。
 ということの一方。
 五八歳の母は、どうだったのだろう。どんな顔をしていただろうか。いまの私の顔と同じだろうか。いま、母はすこぶる元気だが、五八歳のときはどうだったか、と「見えない母」を探しているようにも見える。なぜ、母はいま元気なのに、わざわざ五八歳の母を探すか、見えない母を探すかといえば、いまの大西には八七歳の母ほどの「元気」がないからだろう。どうすれば、いまの元気な母のようになれるのか、その手がかりを探しているのかもしれない。それが「五八歳の母に会いたくなって/地下鉄の窓に目をやる」気持ちなのだろう。
 八七歳の母はすこぶる元気なのに、私(大西)は「死んだも同然」のようにいまの自分を感じていて、それをなんとかしたいという思いがあるのかもしれない。
 説明すると、なんだかめんどうくさいことが4行のなかに、とても自然な形で生きている。それがおもしろかった。

 「ウサギ」という詩は、その母のことを思い、自分のいまを思うときの、一瞬のこころの交錯のようなものを別の形で書いている。ひとは一瞬何かを思う。そして、その思ったことをもう一度反芻しようとすると、それがうまくできない。ことばがつづかない。ことばは、ひとの思いよりもはやく動くいてしまう。どこかへ行ってしまう。
 で、「死んだも同然」は後半はことばに逃げられてしまって、理屈っぽいだけになっているのだが、(だから引用しなかったのだが)、「ウサギ」は最後までことばが追いついて行っている。

逃げ足の速いウサギのように
あと足をのばして
言葉が消えて行ってしまうのです

あら 何を考えていたのだったかしら
だいじなことだったかしら
素敵な言い回しだったような気もするけれど
水道の水が流れっぱなしだわ
ウサギって何のこと
あれはどこに片付けたのだったかしら

忘れてはいけないことは思っていたほど多くはなかった

逃げ足の速いウサギは
森の中であと足をなめている
耳は畳んで

 自然なことばのリズムがいいなあ、と思う。

 花の写真とことばを組み合わせたもののなか、

花という字は
死という字に似ている

 というのがあった。なるほど。




詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書)
大西 美千代
土曜美術社出版販売
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石井裕也監督「舟を編む」(★★★★★)

2013-04-18 10:39:46 | 映画
監督 石井裕也 出演 松田龍平、宮崎あおい、オダギリジョー

 辞書をつくる、というのはとても地味な仕事でたいへんな仕事だということがわかる。それだけでなはなく。
 あ、辞書づくりはおもしろい。してみたい。
 それが伝わってくる。真剣さに感染してしまう。まじめであることは、いつでも美しい。
 これは松田龍平の代表作になるだろうなあ。

 好きなシーンはいろいろあるが。いちばん好きなのは、松田龍平ではなく、どこかで見たことがある女優のシーン。どこかの部署から辞書づくりの部署に配転になってやってくる。「ビールはNG、日本酒はもっとだめ。飲むのはシャンパンだけ」と気取っている。辞書づくりの仕事なんかつまらない。辞書のファッション用語の古くさいのに「なにこれ」と思っている。こんな仕事大嫌い、と思っている。
 そこへオダギリジョーがやってきて、「ださい」の項目について話す。「これは自分が書いたんだ」。そして用例の「酔って、泣きながら愛を告白するのはださい」(だったかな?)は自分の体験なんだ、と言う。
 その瞬間に、この気取った女が豹変する。ことばって、おもしろい。ことばって現実なんだ。
 で、辞書づくりに真剣になるし、ビールも飲むようになる。
 つぎに好きなのが、辞書の紙を選ぶシーン。製紙会社の人が自慢の紙をもってくる。それに対して松田龍平が「ぬめり感」が足りないという。指に吸いついて、一枚一枚めくれる感じ。それを求めて、製紙会社の開発部のひとが、あさこれ検討するシーンがちらりと出てくるが、同時に、先に書いた辞書づくりなんてくだらないと思っていた女が、引き合いにだされた辞書をめくって、ページが指に吸いつく感じを確かめながら「ぬめり感……」とつぶやくシーン。(これは、オダギリジョーがやってくる直前のシーンなのだけれど。)ここでも、ことばは「現実」そのもの、自分の感じていることをつたえるためのものということを実感している。肉体で確かめている。
 どこにでも「ことば」はあり、そのことばは「生きている」。
 これは辞書づくりの監修をしている加藤剛(教授)が言うことでもあり、今回の辞書の方針は「生きていることば」を多く取り入れること、という方針として語られることでもある。さらには辞書が完成したあとも、すぐに改訂を目指して「用例採集」をしはじめる松田龍平や小林薫の姿勢でもつたえられるのだけれど、そういう「主役級」のひとのことば、態度ではなく、わきの途中から出てくる女優をとおして、「無言」のまま展開しているところがいいなあ。「ことばは生きている」が押し付けになっていない。「実感」として、そこにある。
 あ、松田龍平について書くのを忘れた。
 何をしていいかわからない、無能な営業マンが、自分の仕事をみつけ、のめりこんでいく。仕事を進めていくにしたがって、どうしようもない男が、ひとりの人間になっていく。この感じが実に自然。その自然のなかに、最初の「右の定義」(西を向いたとき、北に当たる方が右)を自分のなかから引き出してくる愚直さ、愚直な美しさがあって、それがとても魅力的である。見た瞬間に魅力的なのではなく、その人間が動くのを見ていると、だんだん魅力的になってくる--そういう魅力。これを「時間」をかけて浮かび上がらせる。
 登場する役者だけではなく、本だらけの古いアパートの感じ、辞書づくりの部署の感じ、古いワープロ(コンピューター)の感じ、私の苦手な猫の感じまで、とてもていねいにていねいに撮影されていて、文句のつけようがない。松田龍平が教授を見舞いに行った病院の廊下を走ると、すかさず看護婦が「走らないでください」と注意するという一瞬のシーンにも「気持ち(主人公)」と「現実(他者)」が出会い、そこに「ことば」があることがはっきり描かれている。

 原作はとても評判になったが、私は読んでいない。で、読みたい、と思った。映画を見て原作を読みたいと思う映画はめったにない。「読む」というのは「ことば」で確かめること。「ことば」をとおして体験をもう一度復習すること--もう一度あの感動をたしかめたい、そう思わせる映画はすごい。
                        (2013年04月16日、天神東宝5)





舟を編む
三浦 しをん
光文社
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