大西美千代「死んだも同然」ほか(「そして。それから」3、2013年03月発行)
大西美千代「死んだも同然」の前半におもしろい部分があった。
2連目「五八歳の母に会いたくなって/地下鉄の窓に目をやる」は、大西がいま五八歳で、そのときの母を思い出しているのだろう。顔が似ているのかもしれない。地下鉄の窓をのぞくと、そこに自分の顔ではなく、昔の母の顔、五八歳の母の顔が見えたということだろう。そして、母に会いたくなった。--詩は、母に会いたくなって窓に目をやると書いてあるから、ほんとうは、母のことをふと思いながら地下鉄の窓をのぞくと、そこには自分の顔ではなく五八歳の母の顔が映っていたということかもしれない。あるいは、地下鉄の窓をのぞけばそこに五八歳の母そっくりの自分の顔が映るとわかっていて、そうしたのかもしれない。どっちでもいいが(どっちでもいいということはないかもしれないが)、母と自分、その顔のつながりが緊密に結びついている。
で、その緊密な感じがあるから「八七歳の母はすこぶる元気で/今頃は花に水をやっているだろう」が空想なのにありありと感じられる。
ということの一方。
五八歳の母は、どうだったのだろう。どんな顔をしていただろうか。いまの私の顔と同じだろうか。いま、母はすこぶる元気だが、五八歳のときはどうだったか、と「見えない母」を探しているようにも見える。なぜ、母はいま元気なのに、わざわざ五八歳の母を探すか、見えない母を探すかといえば、いまの大西には八七歳の母ほどの「元気」がないからだろう。どうすれば、いまの元気な母のようになれるのか、その手がかりを探しているのかもしれない。それが「五八歳の母に会いたくなって/地下鉄の窓に目をやる」気持ちなのだろう。
八七歳の母はすこぶる元気なのに、私(大西)は「死んだも同然」のようにいまの自分を感じていて、それをなんとかしたいという思いがあるのかもしれない。
説明すると、なんだかめんどうくさいことが4行のなかに、とても自然な形で生きている。それがおもしろかった。
「ウサギ」という詩は、その母のことを思い、自分のいまを思うときの、一瞬のこころの交錯のようなものを別の形で書いている。ひとは一瞬何かを思う。そして、その思ったことをもう一度反芻しようとすると、それがうまくできない。ことばがつづかない。ことばは、ひとの思いよりもはやく動くいてしまう。どこかへ行ってしまう。
で、「死んだも同然」は後半はことばに逃げられてしまって、理屈っぽいだけになっているのだが、(だから引用しなかったのだが)、「ウサギ」は最後までことばが追いついて行っている。
自然なことばのリズムがいいなあ、と思う。
花の写真とことばを組み合わせたもののなか、
というのがあった。なるほど。
大西美千代「死んだも同然」の前半におもしろい部分があった。
騒々しい不在を抱えて
地下鉄に乗っている
見知らぬ人に囲まれている
五八歳の母に会いたくなって
地下鉄の窓に目をやる
八七歳の母はすこぶる元気で
今頃は花に水をやっているだろう
電車が止まる
たくさんの人が降りていく
2連目「五八歳の母に会いたくなって/地下鉄の窓に目をやる」は、大西がいま五八歳で、そのときの母を思い出しているのだろう。顔が似ているのかもしれない。地下鉄の窓をのぞくと、そこに自分の顔ではなく、昔の母の顔、五八歳の母の顔が見えたということだろう。そして、母に会いたくなった。--詩は、母に会いたくなって窓に目をやると書いてあるから、ほんとうは、母のことをふと思いながら地下鉄の窓をのぞくと、そこには自分の顔ではなく五八歳の母の顔が映っていたということかもしれない。あるいは、地下鉄の窓をのぞけばそこに五八歳の母そっくりの自分の顔が映るとわかっていて、そうしたのかもしれない。どっちでもいいが(どっちでもいいということはないかもしれないが)、母と自分、その顔のつながりが緊密に結びついている。
で、その緊密な感じがあるから「八七歳の母はすこぶる元気で/今頃は花に水をやっているだろう」が空想なのにありありと感じられる。
ということの一方。
五八歳の母は、どうだったのだろう。どんな顔をしていただろうか。いまの私の顔と同じだろうか。いま、母はすこぶる元気だが、五八歳のときはどうだったか、と「見えない母」を探しているようにも見える。なぜ、母はいま元気なのに、わざわざ五八歳の母を探すか、見えない母を探すかといえば、いまの大西には八七歳の母ほどの「元気」がないからだろう。どうすれば、いまの元気な母のようになれるのか、その手がかりを探しているのかもしれない。それが「五八歳の母に会いたくなって/地下鉄の窓に目をやる」気持ちなのだろう。
八七歳の母はすこぶる元気なのに、私(大西)は「死んだも同然」のようにいまの自分を感じていて、それをなんとかしたいという思いがあるのかもしれない。
説明すると、なんだかめんどうくさいことが4行のなかに、とても自然な形で生きている。それがおもしろかった。
「ウサギ」という詩は、その母のことを思い、自分のいまを思うときの、一瞬のこころの交錯のようなものを別の形で書いている。ひとは一瞬何かを思う。そして、その思ったことをもう一度反芻しようとすると、それがうまくできない。ことばがつづかない。ことばは、ひとの思いよりもはやく動くいてしまう。どこかへ行ってしまう。
で、「死んだも同然」は後半はことばに逃げられてしまって、理屈っぽいだけになっているのだが、(だから引用しなかったのだが)、「ウサギ」は最後までことばが追いついて行っている。
逃げ足の速いウサギのように
あと足をのばして
言葉が消えて行ってしまうのです
あら 何を考えていたのだったかしら
だいじなことだったかしら
素敵な言い回しだったような気もするけれど
水道の水が流れっぱなしだわ
ウサギって何のこと
あれはどこに片付けたのだったかしら
忘れてはいけないことは思っていたほど多くはなかった
逃げ足の速いウサギは
森の中であと足をなめている
耳は畳んで
自然なことばのリズムがいいなあ、と思う。
花の写真とことばを組み合わせたもののなか、
花という字は
死という字に似ている
というのがあった。なるほど。
詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書) | |
大西 美千代 | |
土曜美術社出版販売 |