詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八柳李花『明るい遺書』

2013-04-13 23:59:59 | 詩集
八柳李花『明るい遺書』(七月堂、2013年03月01日発行)

 和田まさ子を読んだ後、八柳李花『明るい遺書』を読むと、「論理」というものはいいかげんなものであると思う。これは、和田の論理がいいかげんとか、八柳の論理がいいかげんという意味ではなく、私の論理がいいかげんという意味でもない。論理の肉体はどんなものでも論理にしてしまうということである。
 八柳の詩を読みながら、さらに言いなおしてみる。

深夜二時に君は君の失踪を告げられ口角の端から零れ落ちる話された言葉の
うちから分岐をはじめるパロールからラングへの連なりを延々と不連続性の
うちに病み行間から深淵を覗く度に君は孤独な飛躍をつづけるそのただ独り
の存在の重みに耐えかねて口移すノエシスからノエマに至る不断の連続性に
安らぐことなくよみちがえる精神の過剰な存立をゆらがせる線影に何重にも
描き加えられる輪郭の線的な接触においてのみ君は君自身を支え続けて徐々
にひろやかになる

 これは15ページの書き出しなのだが、これからあと数行後に、突然句点「。」が登場する。つまり、文の前半にすぎないのだが--
 えっ、そうなの?
 私は、「君は孤独な飛躍をつづける」でいったん文章が終わったと思って読んでいた。「ただ独り」からの2-3行「ノエシス/ノエマ」というカタカナをふくむ部分は何のことか私にはわからないのだが、「何重にも」から「ひろやかになる」という部分はわかったような気持ちになるし、そこでも文章はいったん終わっているように思える。
 でも、違うのだ。
 私は目が悪いので、これ以上引用するのは困難なのだが、

       無理数の不連続直線を近似した夜明けに青白いゲマトリア
が遺伝子の外傷を笑いながら僕たちの系譜に連なってゆく。

 までつづいて「一つの文章」になっている。
 そうなのだ。八柳の書いていることばのなかで論理は勝手に次々と姿をかえて、生まれ変わっている。いや、八柳にそういう「意図」はないかもしれないかもしれないけれど、私にはそう感じられる。八柳のことばを読んだ私のなかで、論理が次々に姿をかえる。そういうことができるのが「論理」というものなのだ。
 「論理」のことばというのは、どこで切断されようと、平気で新しい接続を呼び込み、接続された瞬間から平気で姿をかえる。別なものに接続しようとして、不都合なものを平気で切り捨てもする。そうして新しい「論理(文章)」になってしまう。
 何だって書いてしまえば、そこに「論理」らしいものが見えてくる。そのとき、私がさっき書いたような「ノエシス/ノエマ」なんてわからない、わからないから読みとばしておけというようなことも起きる。

 こんな読み方は「正確」ではない--と言われれば、それはそうなのだが、詩なのだから、それでいいのだと思う。裁判の判決文のように、事実関係をしっかりおさえないとだれかの不利になる(有利になる)というようなことではないのだから、わかろうがわかるまいが、好き勝手、で充分なのだ。
 それでは、いったい、詩の評価はどうなるか?
 そうですねえ。
 私自身のなかで起きていることを振り返ってみる。そうすると「論理」とは関係ない部分に私は反応していることに気づく。(だから、こんな感想になるのかもしれない。)
 たとえば「不連続性のうちに病み」「安らぐことなくよみちがえる」「何重にも描き加えられる輪郭の線的な接触」「ひろやかになる」というようなことばが好きだなあ。どこかでまねしてつかってみたいなあ、と思いながら読んでいることに気づく。「論理」を無視して、そのことばだけを「独立した存在」(ことばの屹立)と感じ、あ、それが詩と思っていることに気づく。
 詩、というのは「論理」からの「独立(自立)」なのだ。「論理」を拒絶して、独立宣言をしたことばの暴走なのだ。
 で、八柳は、この詩集では、うねうねとうねる「論理」を仮装しながら、その「論理」から独立し、燃焼する言語の輝きを追求している--という具合に断定して、それを私の感想とするのだ。「論理」に意味はなく(存在価値はなく)、そこから独立し燃焼し、消尽していくことばの輝きこそが詩である--という具合に定義する。そうすると、ね、かっこいいでしょ?
 八柳が「論理」から解放し、燃焼させ、消尽してしまいたかったことばは、私がまねしたいという表現でくくったことばではなく、「精神の過剰な存立」や「無理数の不連続直線」「遺伝子の外傷」というような類のことばだったかもしれない。まあ、それはそれ。作者の意図。詩は書かれてしまった瞬間から、作者とは関係なく読者のもの。読者がどのことばを信じるかは読者の自由だからね。
 --ということは別にして、どう読んでみても、八柳が書こうとしているのは、私には「論理」ではなく、「論理」を拒絶するように輝く無数のことば、その存在にしか思えない。
 で、そういうことを言うために、私は「論理とはいいかげんである」という断言をつけくわえるのだ。

 私のこの感想は、八柳の意図から遠く離れてしまったのか、あるいはその核心へ近づいたのか、まあ、どっちでもかまわない。論理とはいいかげんなものなのだから。
 最後に(まだつづけてもいいのだけれど、私は目が悪いのでこれ以上パソコンに向かっているとつらくなるので、いつものように40分で終わりにするのだが)、とても気に入った部分を引用しておく。19ページ。

                 僕がプテラノド
ンだったとき君はトリケラトプスだった、僕がハイエ
ナだったとき君は一匹の犀だった、僕は君の肉をたべ
君の名前の響きを発音できない未分化な舌で吠えたけ
れどもあるとき僕が人間であるとき君も人間だった、

 「君の名前の響きを発音できない未分化な舌で吠えた」が美しい。「未分化」というのは日常的にはつかわないことばだけれど、その前後にそういうことばがひしめき合っていないので、それが結晶のように輝く。ほかの部分では哲学用語(?)がひしめき合って、あまりにも「論理」を仮装しすぎているように私には感じられる。





サンクチュアリ
八柳 李花
思潮社
コメント
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