江夏名枝「菊の色こきはけふのみかは」ほか(「別冊詩の発見」12、2013年03月22日発行)
江夏名枝「菊の色こきはけふのみかは」はタイトルが上田秋成の「菊花の約束」からとったもの、と最後に書いてある。その作品とどれくらい関係があるのかは、私にはちょっとわからないのたが……。
あ、「文学」に対抗しようとして苦戦している。その苦戦のさまがおもしろい--というと江夏に申し訳ないが、そうか、「文学」を題材にするのはこういう問題かあるのか……と思いながら読んだ。
こういう問題、というのは、先行することばの世界に拮抗しようとすると、どうしてもことばが多くなるという問題である。
この一文、
で充分に通じる。視線を外したことがわかるのは、こちらを見ていたからである。こちらを見ていなければ視線を外しても、それを「外した」とは感じない。視線を外した、には男がこちらを見ていた、と同時に、「わたし」も男を見ていたことが「肉体」としてわかる。そして、それが「肉体」としてわかるのは、男が知り合いであるときもそうだけれど、「未知(知らない)」ときの方が、きっと「肉体」にささる。
言い換えると。
「未知の」男が「こちらを見て」視線を外す、という文章では「未知の」と「こちらを見て」が「肉体」にはうるさい。「頭」のなかをことばが動いている感じがして、直接的ではない。説明が多くて「肉体」が遠くなる。
そうか、ことばに対抗しようとすると、ことばはこんなふうに「頭」のなかで増殖していくのか……。
まあ、江夏のこの作品は、「厄介な役職をとかれたものの……」のように、男の「過去」へとことばが動いていく、そしてその「過去」は「私」が想像したもの(頭の中で動かしたもの)なのだから、これはこれできちんと「意味」のある「頭のことば」なのだけれど、やっぱりなんだかうるさい。わずらわしい。
そのために。
という魅力的なことばが沈んでしまう。ほかのことばにのみこまれてしまう。これは江夏にも自覚されているのかもしれない。だから、その沈んでいったことば、のみこまれたことばをなんとかもう一度浮かび上がらせよう、くっきりと存在させようとして、ことばをさらに押しつづけ、作品が長くなっている。
うーん、三分の一というと厳しいかなあ。ことばを、せめて半分に減らすと、もっと想像力に突き刺さってくることばになると思う。
*
阿部日奈子はやはり「文学」を題材にしてことばを生きるが、「頭」のことばの処理に手慣れている。「無告坂」は夫婦喧嘩(?)をして男に殴られ、前歯がかけた女を描いている。
複数の文学、複数の「ことばの肉体」に、生きている他人(母だけれど)の「なまのことば(なまの肉体)」をぶつけることで、ことばが「頭のなかのことば」の重力にひきずりこまれないようにしている。テーマの「文学のことば」を、「他人(他の肉体)」のことばで切断する。そうすると、ことばが「頭」から切り離されて自由になる。「頭」のことばなのに、「頭」から自由になって、飛んで行く。
二人の作品を読み比べながら、そうか、「文学」から出発するときは阿部のようにすればいいのか、と勉強させてもらった。今度真似してみよう。
*
山田兼士「岩山望景詩」は芭蕉の「折々に伊吹を見てや冬籠」という句もとに書かれたもの。もとにしているといっても、17行の詩の先頭を「お・り・お・り・に……」という具合にしているだけなのだが。(一行を25字にして、形を定型にしている。)
伊吹山のかわりにセザンヌのセントヴィクトワール山が出てくる1連目につづいて。
ときどき、行のわたりに「むり」がある。ほんらい前の行の最後にあるべき「音」(ことばのつづき)が、行の先頭に来る。「定型」を守ったために、芭蕉の句の音を先頭に持ってくるという「決まり」を自分でつくったために、ことばが「壊されている」。
でもね。
この「壊されたことば」(壊された決まり?)に出会った瞬間、「文学」から解放される。「頭」から自由になって、その乱れた(?)破れ目から「肉体」が飛び出してくるみたいでおもしろい。
そうか、山田は天然パーマだったのか、髪は右分けだったのか、伊吹山が見えるところに住んでいたのか、セザンヌが好きなのかな……。そういうことが、芭蕉を突き破って見えてくる。感じてしまう。
それって文学に関係ない? そうかなあ。「肉体」がそこに存在している、ことばが肉体になっていると感じられれば、それがどんなことであれ、それは文学だと私は思う。
行のわたり、不完全な一行、その処理を「へたくそ」と言えばへたくそになるのかもしれないけれど(言い換えると、江夏なら、そういう処理はしないだろうけれど)、そのへたくそなところに、ふいにあらわれる「肉体」のかたまりのようなものがあって、いいなあ、と思う。山田の「肉体」があって、それがいいなあ、と思う。
江夏名枝「菊の色こきはけふのみかは」はタイトルが上田秋成の「菊花の約束」からとったもの、と最後に書いてある。その作品とどれくらい関係があるのかは、私にはちょっとわからないのたが……。
未知の男がこちらを見て視線を外す、誰を探すふうでもなく視線をすべらせているだけであろう、厄介な役職をとかれたものの気を急いだ素振りは、また来るべき過日を案じてのことか、それでも面目は保たれたと身の丈にあった小心翼翼、次の賭けが動いている。
宴のあとの封を切られた放心が散り散りに、私は頬骨から顎を片手でおさえて骨に浮く惨めさを覆ったつもりで、拠り所なく……私だけではないらしい、会釈をつらねる幾人かの背中は罌粟の実の溢れ出る静けさに、街路は遠く映え続いている。
あ、「文学」に対抗しようとして苦戦している。その苦戦のさまがおもしろい--というと江夏に申し訳ないが、そうか、「文学」を題材にするのはこういう問題かあるのか……と思いながら読んだ。
こういう問題、というのは、先行することばの世界に拮抗しようとすると、どうしてもことばが多くなるという問題である。
未知の男がこちらを見て視線を外す、
この一文、
男が視線を外す、
で充分に通じる。視線を外したことがわかるのは、こちらを見ていたからである。こちらを見ていなければ視線を外しても、それを「外した」とは感じない。視線を外した、には男がこちらを見ていた、と同時に、「わたし」も男を見ていたことが「肉体」としてわかる。そして、それが「肉体」としてわかるのは、男が知り合いであるときもそうだけれど、「未知(知らない)」ときの方が、きっと「肉体」にささる。
言い換えると。
「未知の」男が「こちらを見て」視線を外す、という文章では「未知の」と「こちらを見て」が「肉体」にはうるさい。「頭」のなかをことばが動いている感じがして、直接的ではない。説明が多くて「肉体」が遠くなる。
そうか、ことばに対抗しようとすると、ことばはこんなふうに「頭」のなかで増殖していくのか……。
まあ、江夏のこの作品は、「厄介な役職をとかれたものの……」のように、男の「過去」へとことばが動いていく、そしてその「過去」は「私」が想像したもの(頭の中で動かしたもの)なのだから、これはこれできちんと「意味」のある「頭のことば」なのだけれど、やっぱりなんだかうるさい。わずらわしい。
そのために。
私は頬骨から顎を片手でおさえて骨に浮く惨めさを覆ったつもり
という魅力的なことばが沈んでしまう。ほかのことばにのみこまれてしまう。これは江夏にも自覚されているのかもしれない。だから、その沈んでいったことば、のみこまれたことばをなんとかもう一度浮かび上がらせよう、くっきりと存在させようとして、ことばをさらに押しつづけ、作品が長くなっている。
うーん、三分の一というと厳しいかなあ。ことばを、せめて半分に減らすと、もっと想像力に突き刺さってくることばになると思う。
*
阿部日奈子はやはり「文学」を題材にしてことばを生きるが、「頭」のことばの処理に手慣れている。「無告坂」は夫婦喧嘩(?)をして男に殴られ、前歯がかけた女を描いている。
鏡をのぞくに洗面所へ行きたくても
男が倒した洗濯機が邪魔してたどり着けない
安普請のボロアパートだもの
物音は筒抜けのはずなのに誰も出てきてくれなかった
「あに仲裁を買って出て何ぞ楽しかるべけんや」って
みんな冷たいなぁ冷たすぎて寒すぎて五月なのに凍死しそう
「あたし、賢そうな女が愚かな選択をして苦しむ小説が好きなの」
瞳をきらきらさせてそう言い放った母さん
エンマやイザベルの物語には舌なめずりしても
娘の不品行は願い下げなんでしょう
だいじょうぶ木の股からうまれてきたことにして
お目に触れぬよう生きていきます
複数の文学、複数の「ことばの肉体」に、生きている他人(母だけれど)の「なまのことば(なまの肉体)」をぶつけることで、ことばが「頭のなかのことば」の重力にひきずりこまれないようにしている。テーマの「文学のことば」を、「他人(他の肉体)」のことばで切断する。そうすると、ことばが「頭」から切り離されて自由になる。「頭」のことばなのに、「頭」から自由になって、飛んで行く。
二人の作品を読み比べながら、そうか、「文学」から出発するときは阿部のようにすればいいのか、と勉強させてもらった。今度真似してみよう。
*
山田兼士「岩山望景詩」は芭蕉の「折々に伊吹を見てや冬籠」という句もとに書かれたもの。もとにしているといっても、17行の詩の先頭を「お・り・お・り・に……」という具合にしているだけなのだが。(一行を25字にして、形を定型にしている。)
伊吹山のかわりにセザンヌのセントヴィクトワール山が出てくる1連目につづいて。
いぶきおろしにハンドルを取られながら自転車を必死に
ぶっとばしていた高校への道 一九六九年十二月十九日
きになるのは朝整えてきた天パの長髪 左前方からの風
をうけ髪はぐしゃぐしゃ 田圃の中の一本道をひた走る
みぎから分けたことを後悔しながら走るも突風に煽られ
て一旦停車 北西の方角に遠望したのは雪を頂いた岩山
やまとたけるをも打ち負かした神の山だ はるか遠方に
ふゆごもりでもしたいと願いながら岩山を遠望した一瞬
ゆったり風に吹かれながら遠く岩山を見ていた夏の一瞬
この二つの稜線が一つになるのにながい時間がかかった
もう見ることのないだろう異郷の山とこれからも折り折
り見るだろう故郷の山に見守られ僕は還暦にダイブする。
ときどき、行のわたりに「むり」がある。ほんらい前の行の最後にあるべき「音」(ことばのつづき)が、行の先頭に来る。「定型」を守ったために、芭蕉の句の音を先頭に持ってくるという「決まり」を自分でつくったために、ことばが「壊されている」。
でもね。
この「壊されたことば」(壊された決まり?)に出会った瞬間、「文学」から解放される。「頭」から自由になって、その乱れた(?)破れ目から「肉体」が飛び出してくるみたいでおもしろい。
そうか、山田は天然パーマだったのか、髪は右分けだったのか、伊吹山が見えるところに住んでいたのか、セザンヌが好きなのかな……。そういうことが、芭蕉を突き破って見えてくる。感じてしまう。
それって文学に関係ない? そうかなあ。「肉体」がそこに存在している、ことばが肉体になっていると感じられれば、それがどんなことであれ、それは文学だと私は思う。
行のわたり、不完全な一行、その処理を「へたくそ」と言えばへたくそになるのかもしれないけれど(言い換えると、江夏なら、そういう処理はしないだろうけれど)、そのへたくそなところに、ふいにあらわれる「肉体」のかたまりのようなものがあって、いいなあ、と思う。山田の「肉体」があって、それがいいなあ、と思う。
海は近い | |
江夏 名枝 | |
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微光と煙 | |
山田 兼士 | |
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