詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高木浩平「食堂」

2013-04-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高木浩平「食堂」(「椿の果汁」2013年03月30日発行)

 若い。ことばが若い。若い美しさに満ちている。ことばをつくりだしていくんだ。だれも書かなかったことを書いていくんだ、という意識が輝いている。体験ではなく(肉体ではなく)、意識がことばを、その中心から動かす。というより、意識がことばのなかから噴出してくる感じ。それも形の定まった意識ではなく、形を持たない意識が、ことばを突き破りながら動いてくる。その意識は形を持たないからこそ、ときに形を頼って(利用して?)しまうけれど、そのときの形は「便宜」にすぎない。形を利用しながら、形を壊していく。若さとは、なによりも破壊なのだ。ひさびさに楽しい詩を読んだ。
 「食堂」の全行。

俺は感情の味が知りたい。

「メニューを見してください。」
「かしこまりました。」
悲哀の味とは。それは、
小雨のごま和え。
自意識の卵とじ。
体育会系の重ね蒸し。
コミュニケーションの寄せ鍋。
困惑の味とは。それは、
影絵のあんかけ。
文化のいけす。
奇人南蛮。
恥の味とは。それは、
新生児のひね漬け。
ミニスカートのお浸し。
憂鬱の姿焼き。
茹で過去(ゆでがこ)。
喜びの味とは。それは、
輪廻転生の輪切り。
紙ヒコーきの丸解き。
産声の散らし盛り。
魑魅魍魎キッズプレート・・・・

いただきますというや否や、困惑を箸でついばみ、喜びをかっ込む。
悲哀をスプーンひたひたにすくい、恥を手づかみで口に運ぶ。
俺はこの異常に肥大した舌で味の出どころを探るんだ。
遠い昔のぎゅるるという腹痛。

俺は本能的に便所に駆け込む。

 「感情」と「味」ということばの組み合わせを思いついて、一気に書いたのだと思う。いわゆるインスピレーションというやつである。それに出会ったら、躊躇していてはいけない。思いつくまま、一気に。どこまでゆけるかわからないけれど、まず駆けだす。(書きはじめる。)そのスピードがいい。若さにあふれている。
 この「感情」と「味」という組み合わせは、「味」を利用するという意味では形の利用である。(型の利用である)。しかし、これまで感情は「色(絵画)」や「音(音楽)」とともに語られてきたから、「味」を利用することは、感情は絵画や音楽であらわすものという「定型」を破壊することでもある。「破壊」は、新しい何かが生まれてくるときの必然である。
 この新しいことばの喜び、何か新しいものを書くという震えるような輝き。百メートル競走のピストルが鳴るまでのどきどき、鳴ってからの無意識の全力疾走--そういうものが、高木のこの詩にはあふれている。
 それが美しい。

 こういう美しさに対しては、余分なことは書かない方がいいのだけれど。私は書いてしまう。
 高木の若いことば、青春のときにしか書けないことば--ことばがことばをひっぱっていき、新しい肉体を生み出すときの運動の奥にあるものを、ちょっと書いてみたい。高木のことばに出会うことで思い出したことを書いてみたい。
 そのあとで、高木の新しさというものについて再び書いてみたい。
 
俺は感情の味が知りたい。

 この書き出しは、感情の色、感情の音(音楽)に対向する形(反発する形)で瞬間的にひらめいたものかもしれない。感情を色や音楽以外のものであらわしてみたい。そういうだれにもなかった欲望が高木を襲ったということだろう。こういう新しい欲望の発見が、まず若さなのだが、そのあと。

「メニューを見してください。」
「かしこまりました。」

 この2行が、ちょっと不思議。
 自分の感情の味なら、メニューを見る必要がない。なぜ、メニューなのかな?
 たぶん、ここに、ことばの秘密がある。詩の秘密がある。どんなに新しいことばも、実は個人でつくりだしたものではない。個人に先行して存在している。
 新しい何かをつくりだしていくにも、すでにあることばを利用するしかない。新しい精神(新しい意識/新しい感情)をつくりだしていくにも、古いことばが必要だ。古いことばを叩き壊しながら、ことばの組み合わせをかえていくしかない。
 すべては「ことば」から始まる。
 これは逆に言えば、ことばの組み合わせをかえれば、そこに新しい精神(意識/感情)が生まれてくるということである。ほんとうはそんなに簡単に言いきることはできないかもしれないけれど、まあ、そう思い込めるのが若さの美しいところである。
 で、そのメニュー。「見してください」という形を借りながら、高木は自分でメニューをつくっている。新しいことばの組み合わせをつくるために「メニュー」という「型」を方便としてつかっている。
 よく見ると、「定型」はほかにもある。

悲哀の味とは。それは、

困惑の味とは。それは、

恥の味とは。それは、

喜びの味とは。それは、

 このくりかえし。さらには、

小雨のごま和え。
自意識の卵とじ。
体育会系の重ね蒸し。
コミュニケーションの寄せ鍋。

 これは行の終わりがすべて既存の料理。つまり「材料」がかわっているだけ。どんなに新しいことばでも、それが新しくあるためには、新しさがわかるように古い何かが同居しないといけない。
 古い組み合わせ、その「接続」を断ち切り、つまり「切断」し、新たに何かを「接続」しなおす。出会うはずのなかったものを出会わせる。それが出会ったとき(接続したとき)、そこに詩が生まれる。
 うーん。新しいものは、意外と古いのである。
 だからこそ、高木はたたみかける。一回だけの「切断/接続」では不十分である。どこまで「切断/接続」を暴走させることができるか。

 そういうことをしたあと、高木は、ことばの運動を「メニュー」という「ことばの組み合わせ」だけで終わらせず、それを食べるところまで、さらには排便するところまで書いている。
 これがいいね。
 「メニュー」で終わっていたら、気取った思いつき詩に終わってしまう。しゃれたライトポエムに終わってしまう。
 それを本能的に高木は気づいているのだろう。
 そしてさらに、「メニュー」、その定型の破壊と再生には「出どころ」があると気が付いている。それが「遠い昔」(過去)のものであることを自覚している。
 だから、「食あたり」(ぎゅるるという腹痛)に出会っても、その食あたり(下痢)に対して「受動的」に便所に駆け込むのではなく、「能動的」に駆け込む。
 高木は、食い合わせが悪くて食あたりにあってしまったのではなく、自分で引き起こしたのだ。わざと食あたりを起こすようなメニューにしたのである。
 「悲哀」「困惑」「恥」「喜び」--どれもありふれた感情。「悲哀」「困惑」なんてセンチメンタルすぎる。そんなものは、食あたりのふりをして排便してしまわなければならない。肉体から排出してしまわないといけない。--とまでは高木は書いてはいないのだが、最後の「能動的」ということばを読んだとき、それまでの「古くさい感じ」(定型のなかでことばの組み合わせを替えてみせただけという感じ)は消えて、あ、いいなあ、下痢(腹痛をともなう排便)を積極的に受け入れるこの肉体の力はいいなあ、と感動してしまうのだ。
 高木のことばには、単なることばの新しい組み合わせを超える力がある。ことばの若さの奥に、肉体の若さと力がある。それが「ことばの肉体」になっている。なろうとしている。その動きが見える。

 「それいけ、天才少年こうへい君」という詩もいい。小学校の入学式(6歳だと思うけれど、高木は7歳という設定で書いている)のこと、7歳の自分(こうへい、だから、そう思っておく)を書いている。7歳なので、もう人生に退屈しているのだが、

そんな春の中
ゆりちゃんだけがかわいい
出会ってから春が3回過ぎたが
ずっと好きだ うーん
頭に浮かぶのは彼女の笑顔、乳歯

おや、さんすうセットに興味津々だ
どれどれ
ゆりゆりゆりゆりゆり
ったく、おはじき全部に名前シールなんか貼るからだろー はは

けっこんしようって約束してくれたし
ふうふごっこもしてるし
あとは10年待つだけだなこりゃ
時間よ早く経てってことで
このさんすうセットの時計くるくる回して

 あのね、天才こうへい君、時計の針を早く回しても時間は早く経たないんだよ。
 何言ってるんだ、ばかやろう。時計の針のまわる速度で肉体を成長させていくことが天才にはできるんだ。ついてこれないならそこで指をくわえて涎垂らしていろ。
 あ、そうだね、ごめん。気がつかなかった。
 いやあ、ひさびさの天才出現だ。



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谷内 修三
思潮社
コメント (1)
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