詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山田由紀乃「そこ」、陶山エリ「声拾い」

2013-04-25 23:59:59 | 現代詩講座
山田由紀乃「そこ」、陶山エリ「声拾い」(「現代詩講座@リードカフェ」2013年04月24日)

 「現代詩講座@リードカフェ」はベインハルト・シュリンク『朗読者』を読んで、そこから吸収したものを詩にする--がテーマ。
 山田由紀乃「そこ」が相互評で高い評価を受けた。

高速が出来て何度も走った
はじめ気付かなかったが競輪場が見えた
あんなに狭かったのかと驚いた

ハンチングを被った父と競輪場にいる
見上げるような緑色の椅子
と思ったがそこは観覧席

よっ
父は顔馴染みの父によく似た人たちと挨拶した
通路は埃っぽく
白い紙切れが飛び散っていた

わたしは四歳くらいだ
映画館のトイレの前の水道場にいる
その頃映画館のトイレは外にあった
父がうずくまって吐瀉している
わたしは手を父の肩においている
「早く帰ろうよ」
見上げた父はすまんねといった

戦争が終わって五年も経っていない頃だ
年寄りに子どももいる大家族の
印のような小さな私を連れて
父は行きたかった
ここではないところへ

縁側の空に月の光がかかるころ
背中を向けて尺八を吹いた父
しずしずと静けさが満ちてきて
笛の音の中に父が入ると
そこはもうどこでもなかった

 戦争から帰った父。どこかに戦争の傷痕を抱えている。それに気付く幼い私と父の姿が簡潔に描かれている。受講生の第一印象は……。

<受講生1>小説を読んでいるよう。最後の連が好き。
      ことばもていねい。
<受講生2>「そこ」がわからない。4連目の「印」もわからない。
<受講生3>「大家族の印」なのではないか。
      それと「小さい」という意味もあるかも。
<受講生4>大好き。胸がきゅんとなる。情景がよくわかる。
      でも、ことばが「詩的」ではないかもしれない。
      達者な詩ではないかもしれないけれど。
<受講生2>私も、こういうことばでも詩なの、と思った。
<受講生3>散文と詩のあわいに、うまくはまっている。
      『朗読者』から情景の描き方を学んでいるのがわかる。

 最初に問題になったのは「詩的」とは何か、ということ。
 3連目の最後の2行、

「早く帰ろうよ」
見上げた父はすまんねといった

 この対話に全員が感動したが、そのことばは「詩的」な表現から遠い、という詩的。1連目も散文的だという詩的。確かに、その行だけをとりあげ、お、かっこいいことばだなあという印象をもつことはないけれど。
 しかし、そこに書かれていることばが紙にはりつくようにしっかりとそこにあるなら、それは詩ではないだろうか。父に呼びかける少女の姿、それにこたえる父の姿(姿勢)、声の調子まで感じられたら、それは詩ではないだろうか。
 私は詩と散文の違いをあまり考えない。強い感じで迫ってくるものは全部詩と思う。
 「詩的」ということでいえば、最終連の尺八を吹いている父の姿、「しずしずと静かさが満ちてきて」というような表現はなにか雰囲気があるような、詩的な感じがするかもしれないけれど、紙から浮いている。文字が紙に食い込んでいない。ふわふわして弱い。これは「詩」ではないと思う。
 「詩」とは言い換えのできないことば。3連目の2行は、ほかに言い換えがきかない。けれど5連目の「しずしずと……」はほかにも言い換えができそう。それだけ弱い。ことばの持っている内的な力が強ければ、それは詩だと思う。
 どんなことでも、正直で、そのままなら美しい。酔って吐く父に対して「早く帰ろう」と語る少女、それに対して「すまんね」とこたえる父の姿は「みかけ」は悪いかもしれないけれど、そこにほんとうのことが書かれている。少女と父親の、ことばをこえるものがでている。人間が「生きている」。だから、美しい。一方、最終連は「みかけ」の美しさの方がことばを上回っている--というといいすぎかもしれないけれど。きれいだけれど、美しいという感じとは違う。
 1連目は確かに散文的かもしれない。しかし、競輪場を見つけ出し、父に連れられていったことを思い出すのだが、そのとき「あんなに狭かったのか」と発見している。幼いときは大きく見えた競輪場がいまは小さく見える。その発見があるから散文であっても詩の中にしっかり組み込まれている。発見がないと、単なる描写だけれど、発見があるとそれがどんなに小さくてもしっかり全体に組み込まれる。
 「情景が見える」という感想があったけれど、しっかりと何かを見て、それがことばになっているなら、そこにことばをこえる「もの」が見える。それが「情景」。2連目の最後の「白い紙切れが飛び散っていた」も具体的なので、詩になる。

 「そこ」とはどこか。
<受講生4>ふたつある。父と少女がいる「そこ」と、最終連の父がいる「そこ」。
<受講生3>父がいる場所は「ここ」であって、父が行きたかったところが「そこ」。
 私も、父といっしょの部分は「ここ」だと思う。書かれていないところが「そこ」。
 「そこ」というのは、作者にとってはわかっているところ。でも、それはわかるといっても「競輪場」とか「映画館のトイレ」とか具体的には言えないところ。「競輪場」や「映画館」ではない、としか言えない、意識の場所。父にはそういう「意識の中にある場所、行きたいところ」がある。それを少女は直接的に感じて「そこ」と言っている。頭では整理できない、説明できないのだけれど、「肉体」でわかってしまう「場所」なのだと思う。

 この詩でいちばん難しいのは最終連。それがほんとうに必要なのかどうか。
山田 父はほんとうに月の光のなかで尺八を吹いていたんです。
<受講生4>最終連のお父さの姿を書かないと、落ち着かない。
      お父さんが競輪場へ通って映画館で吐いているだけになる。
 もちろん、そうなのだけれど。そして、そう書かずにはいられない愛情もよくわかるのだけれど、そのお父さんの理想の場所(そこ)が、こういう具合に美しい形で書かれてしまうと、

父は行きたかった
ここではないところへ

 が弱くなってしまう。「そこ」はどこなのか、読者は考えなくなってしまう。こたえが最終連にあるので、安心してしまう。安心することで、読後感は落ち着くのだけれど、「そこ」のなまなましい感じ、「そこ」としか言えないもどかしい感じが消えてしまって、その分だけ印象が弱くなる。
<受講生3>最終連の世界は最終連の世界だけで別の詩にすればいいのでは。
 そうだね。でも、そういう決断がなかなか書いている本人には難しい。



 陶山エリ「声拾い」はタイトルが非常に魅力的だった。(受講生からも、そういう指摘があった。)その2連目が私にはおもしろかった。

何を読み続けていたのか
手紙 日記 胃腸薬の注意書
風に開かれたままの長篇小説
時刻表 国語辞典 Wikipedia
洗顔フォームの配合成分
声に出してしまうと
案外、體に忍び込んではこないものだと
気づいていたから
声に出してしまうと霧のように流れていく
その薄い影に出会いたいのだけれど
唇は肉の内側への入り口だからといって
舌と粘膜に絡め捕られて
音階のひとつになりたい
そんなことも同じくらい願う

<受講生5>「胃腸薬の注意書」「戦果フォームの配合成分」に、体臭を感じる。
<受講生3>前半部分に若い人の感覚がでている。
      「音階とひとつになりたい」というのは私には書けないなあ。
<受講生5>声に出すと体に入って来ないというのは逆じゃないかな。
陶山    覚えるというよりも、声をだす快感の方が強くて……。
 (このあと、音読するか、黙読するか、という放しもでたのだが……。長くなるので省略して。)
 私は、前半部分、胃腸薬の文字を読むとか配合成分を読むというのは、現代詩では、そんなに独特のことがらには思えないけれど、後半の「唇は……」からの肉体をていねいに描いているところが独特でとてもいいと思う。その独特のことばの動きがあるから「音階とひとつになりたい」が、肉体の欲望としてつよく伝わってくる。これを深めていくととてもおもしろいと思う。



 次回5月29日(水曜日)16時―18時は「秋亜綺羅になって書く」がテーマ。申し込みは「書肆侃侃房」を検索し、田島さんに申し込んでください。










詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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サーシャ・ガバシ監督「ヒッチコック」(★★)

2013-04-25 10:58:58 | 映画
監督 サーシャ・ガバシ 出演 アンソニー・ホプキンス、ヘレン・ミレン、スカーレット・ヨハンソン

 この映画の失敗は、アンソニー・ホプキンスがヒッチコックの体型をコピーしたことである。だれもがこれは「映画」と知っている。そして、それを見にくる映画ファンはたいていヒッチコックの体型を知っている。でも、映画を見にくるのはヒッチコックの体型を見にくるわけではない。「あ、ヒッチコックに似てる」と思うために見にくるのではない。もし「そっくりさん」を見たいなら、世界にはもっとヒッチコックに似た人間はいるだろう。だいたいメーキャップと衣装で「そっくりさん」に仕立てても、それで似たことになるのか。ならないのでは? そして、それは「演技」でもなんでもないのでは?
 で、この「そっくりさん」体型が、ヒッチコックを隠してしまう。精神を。感情を。つまり本質を見えなくしてしまう。
 映画で私がいちばんおもしろいと感じたのは、「サイコ」のハイライト、シャワーを浴びる女をナイフで殺すシーン。監督は観客の反応が気が気でたまらない。劇場の外で、今か今かと待っている。金属音のような効果音が響く。そして、ナイフが振り下ろされるたびに観客の悲鳴が響く。それをまるでオーケストラを指揮するように、手をぶんぶん振り回して、その悲鳴に酔う。「そこだ、もう一度、やったぞ」という感じで、体中から喜びがあふれてくる。あ、このシーン、真似してみたい、と思わず思う。
 そのとき。
 私は「そっくりさん」の体型を見ていない。太っていることを忘れている。ただ監督の「動き」を見ている。太っているために動きが鈍いとか、動きが醜いとかということはない。興奮している感じ、酔っている感じ、その喜びに、ただ感染する。
 これが映画。私が見たいのは、「肉体」の形ではなく、その「肉体」を動かしている感情。感情が肉体を突き破ってあらわれる瞬間の輝き。
 ヒッチコックの体型を描くのではなく、ただ純粋に精神を描くことに集中すれば、この映画はもっとおもしろくなる。脚本はとってもおもしろいのに、アンソニー・ホプキンスの「そっくりさん」の体型がおもしろさを半分以下にしている。
 映画づくりの秘密、という点でも、この作品はおもしろいところを描いている。スカーレット・ヨハンソンが「サイコ」の殺される女になって車を運転していくシーン。スタジオ(セット)で撮影しているのだが、ヒッチコックはカメラをのぞくのではなく、スカーレット・ヨハンソンのわきに立って、そのとき女が思っているであろうこころのつぶやきを口にしている。その声を聞きながらスカーレット・ヨハンソンの顔の表情が変わる。「迫真」のものになる。あ、これが、芝居と映画の違い。舞台では、こういうことは絶対にできない。舞台の上には役者がいるだけ。でも映画は違う。そばで何が起きていようが関係がない。スクリーンにはカメラが映している部分しか存在しない。
 だから、なのである。
 編集によって、映画はどうとでもなる。シャワーを浴びながら、ナイフでめった突きにして女が殺される。そのとき、女を殺すのは殺人者でなくてもいい。ヒッチコックがナイフを振りかざしてもいい。恐怖におびえる女の顔がアップでとれればいいだけなのである。女の顔の中に恐怖があらわれれば、殺人者役がだれであろうと関係がない。
 で、最後に、失敗作だった「サイコ」を編集でよみがえらせるというオチまでこの映画は描いている。その編集に、ヒッチコックではなく、妻の方が能力を発揮する。これが、なかなか、おもしろい。この瞬間から、この映画はヒッチコックの映画ではなく、ヒッチコックの妻の映画になる。ヒッチコックの映画の成功の影には妻がいる。妻が大きな影響力を発揮して、映画を輝かせていた。
 で、最初にもどるのだけれど。
 この妻の働き、いきいきとした動きが観客に伝わってくるのは、ヘレン・ミレンが妻の「そっくりさん」ではないから。いや、そっくりさんなのかもしれないけれど、私はヒッチコックの妻の体型など知らない、顔も知らないからそっくりさんかどうか判断しようがないのだが--だからこそ、純粋に妻の「本質」だけを見ることになる。そして、その本質に触れて、感心することになる。
 観客はスターの「容姿」にひかれて映画を見はじめるけれど、映画を見ているときは、その容姿を忘れて、そこに動いている「感情」を見る。容姿ではなく、感情が見えたとき、ほんとうに感動する。「サイコ」のクライマックスに廊下で両手をぶんぶん振り回し、踊るようなヒッチコックがかっこいいのは、そこに感情の噴出があるからだ。
                        (2013年04月24日、天神東宝2)


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