詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

服部史佳「骨」ほか

2013-04-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
服部史佳「骨」ほか(「椿の果汁」2013年03月30日)

 服部史佳「骨」はことばを限定した場のなかで動かし、ことばを濃密にさせる。濃密さのなかに--つまり、いつもとは違う濃度のなかに詩がある。いつもと違う濃度が詩なのである。

胸に不安が巣食うというので、背中を開いて背骨を掴む。
ずるりと引きずり出した骨組みは手に応える重さをしている。
数珠に連なった脊椎から伸びた肋骨が、卵を抱えるようにゆるやかな空間を抱いている。けれどそこにびっしりと詰まっているのは、灰色の塵を絡めた蜘蛛の巣だ。

 書き出しの「胸に不安が巣食う」は一種の「流通言語」である。それを調べるために「背中を開いて背骨を掴む。」--これがおもしろい。胸を開いて調べるまでは誰かが書いているかもしれない。でも、そういうとき、たいてい前から開くのでは? 背中から、というのが意表をつく。さらに「骨を掴む」というのに驚かされる。
 詩は、いったんことばの運動の方向性を決めたら、それを突っ走ることが肝腎。きのう読んだ高木浩平の詩では「感情」を「味」でとらえるから始まり、「メニュー」へと突っ走った。そのときことばの「歩幅」に乱れはなかった。リズムが変わらなかった。それが快感。
 クラシックとポップスの違いは、クラシックは旋律を変えないがテンポは変える。一方、ポップスはリズムは変えないが旋律は自由。その「例」を当てはめるなら、現代詩をはじめ、あらゆる文学はポップスに近い。ことばのリズムを変えずに、メロディーは自在に。リズムが一定なら、旋律の変化についていける。
 その「リズム」が服部の場合「骨」なのだ。「肉体」なのだ。「手」でさわって、「骨」の確かさ、固さ、骨組みの強さを知る。「骨」と「手」のあいだで「不安(胸)」を動かしつづける。

肋骨の一本一本に手を滑らせれば、あれほど詰まっていたものが黒ずんだ塊に縮まった。冴えた輪郭と空虚を取り戻したそれは、暗がりに白く静まり返っている。
体へ戻す。
背中をうなじまでぴたりと締める。
なめらかに閉じた背中へ耳を押し当てて、吸い込まれるような静けさの中に、
音がしないだろうかと耳を澄ませている。
脊椎と脊椎との間で息をひそめる小さな蜘蛛の、細い足が骨をひっかくかすかな音、あるいは、
あらたな糸を吐き出す音。
しかし彼らは注意深く隠れているのか、底無しの無音があるばかりだった。

 「骨」を追いかけるだけ追いかけて、最後は「音(無音)」になってしまうのだが、これは変化(失墜)というよりも昇華だろう。脊椎をひっかく音のなかに骨がしっかり残っている。
 服部のことばには、何か若い男がたどりつけない深さがある。自分の肉体を内部から掴んでいる確かさのようなものがある。それが、ことばの肉体に静かに反映しいるのを感じる。--こういうことは「感覚の意見」なので、これ以上は説明できないのだが。
 「瓦礫の海」の、

あなたがこちらを向いていないのは初めてだからわたしは戸惑う

 この1行にも、理由もなく、「肉体」を感じる。ことばが「肉体」のなかからでてきているのを感じる。「戸惑う」が「肉体」として感じられる。
 「声」をもっているのだ。
 「声」のなかには、いつも「肉体」がある。
 「声」がことばを一定に整えている、という印象がする。「耳」がとてもいい詩人なのかもしれない。

 大橋英永「三時四十二分七秒五六」もおもしろかった。

むせながら吐き出した言葉は、
胃液が絡んで不気味に光を放っていた。

おびただしい数の一秒が群れて形を作る、
馴れ合いの未来。
そこから、
記憶をたどって、言葉を発掘する。
胃液は、土壌に馴染み、広がり、
いとも簡単に源となった。

皮膚にしがみつき、毛穴に入り込む湿り気。
図々しい。

 ことばに「肉体」を絡めていこうとする強い意識を感じる。ことばを暴走させるだけではなく、ことばにあわせて「肉体」そのものを暴走させようとしている。ことばが生まれ変わるのではなく、肉体そのものを生まれ変わらせるのである。





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谷内 修三
思潮社
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