詩人アリス「夜の国のアリス」(「ココア共和国」12、2013年04月01日発行)
詩人アリス「夜の国のアリス」を読みながら、あ、詩人アリスは秋亜綺羅と一卵性双生児かも、と思った。いまの秋亜綺羅ではなく、私が若かったころ、つまり秋亜綺羅と同じような年齢だったころの秋亜綺羅を思い出した。
--という文章は、ちょっと変かな? 論理的じゃないかな?
秋亜綺羅と同じ年齢だったころ、というのなら、いまでも同じような年齢であるはずだから。
うーん。でも、違うんだなあ……。
人間は歳を重ねると、どんどん年齢の差が開いていく。同じ年、同じ月、同じ日に生まれても(一卵性双生児であったとしても)、歳を重ねると年の差ができる。そして違った年齢の人間と近づいていく。
言い換えると、若いときは年齢が共通項になって類似性を引き起こすけれど、歳を重ねると年齢ではなく個性が共通項になるのである。
で、詩人アリスが何歳かは知らないけれど、いまの秋亜綺羅をとおって、昔の秋亜綺羅に重なって見える--というのが私の印象である。
ことばが「無重力」である。「意味」の重力にしばられていない。いちばんわかりやすい例が3行目の「光の闇」という表現である。光と闇は「流通言語=学校教科書の意味」では正反対のものであり、「光の闇」というのは常識的にはありえない。簡単に言うと「でたらめ」である。
でも、ことばはどんな「でたらめ」を書いても、書いた瞬間に「論理」になる。「意味」になる。まぶしくて目が開けられない「闇」ではなく、目を開くことができるけれど、そこには光しかないという「闇」。そういうものが、ことばが動いた瞬間に、ことばといっしょに「そこ」に生まれる。「そこ」ではなく、「ここ」かもしれないが。あるいは「あこ」かもしれないが。
で。
というか、いつでもことばは「論理=意味」になるのだけれど、その「論理=意味」の飛躍(?)が、秋亜綺羅の場合も詩人アリスの場合も、ほんとうにでたらめかというとそうではなくて、どこかに「論理の肉体」を持っていて、そこに「論理の肉体」があるがゆえに、読者を安心させながら(?)、同時に読者を裏切る。そして、読者を裏切ることで、逆に安心させる。--つまり、納得させる。この場合の納得は、「意味」ではなく、そこに「論理」がある、ということなのだけれど。
あ、これでは、きっと何のことかわからないね。
まあ、私にもよくわからないのだから、私の文章を読んでいる人にはさらにわかりにくいだろうなあ。私の文章を読んだために、いっそうわからなくなるだろうなあ。
でも、もう少し、わからないまま、読んでください。
私もわからないまま、もう少し考えるので。
「意味」はない。けれど「論理」はある--というのは、「わたしは廃墟からうまれた」ならば「比喩」ということになるかもしれない。そのとき比喩は「廃墟」なのか、「うまれた」なのか、よくわからない。というより、区別がつかない。「廃墟からうまれる」ということば自体が「比喩」なのだ。それは「美人」を「花」にたとえるような「比喩」、つまり名詞の置き換えによる固定化(?)ではない。
「うまれる」という「動詞」をともなった運動である。
そして、そこに動詞が存在することによって、そこに必然的に「論理」が生まれる。「論理の肉体」が動く。「論理」というのは、運動なのだ。「論理」というのは、何かを動かすものなのだ。
何が動く? 何を動かす?
答えは簡単である。ひとの「考え」を動かすのである。ひとの「考え」に「それでいいのか」と疑問を投げかける。その疑問にふれることが、詩、なのである。
そのとき。
とてもおもしろいのは、秋亜綺羅の場合も、詩人アリスの場合も、人間の「肉体」そのものを利用して「考え」にふれるのではなく、あくまで「論理の肉体」を利用することである。
「それでも」「だから」。このことばのなかには「論理」がある。そのことばにつづくことばに「論理」があるというよりも、「それでも」「だから」が「論理」を呼び込んでしまう。「それでも」「だから」こそが「論理」なのである。
「それでも」「だから」をつかえば、それにつづくことばは「論理」になってしまう。で、最初の「光の闇」にもどって、「それでも」と「だから」を当てはめてながら、詩人アリスを真似てみると……。
という具合になるかれしれない。
で、そのとき。突然、当然の顔をしてあらわれることばがある。
「……ことにした」
これが、きっと、たぶん、間違いなく、若いときの秋亜綺羅と詩人アリスに共通するキーワードである。
あらゆる「でたらめ(?)」は「……ことにした」ということばを隠しながら、「論理」になる。「……ことにした」という自己決定。
そしてそのとき「ことにした」を動かすエネルギーは何か。「ことば」である。書くこと、語ることによって、つまり「ことばによって」。
「ことばによって」何かを「……ことにした」。そのとき「ことばによって」「論理」が生まれる。そしてその「論理」は「意味」ではなく。いままで流通していた「意味」ではないものが、「論理」をもって動く--というところに、詩が生まれる。それが見なれない「論理」であるために、私たちは、(少なくとも私は)、「考え(いままで無意識に考えていたこと、思い込んでいたこと)」を揺さぶられたように感じる。
その刺戟。
それが、詩。
「人殺し」は「くしゃみと同じ気軽さ」でできることではない。けれど、「ことばによって」そうできる「ことにした」のだ。できないことも「ことばによって」「できることになる」。
それはほんとうの人間の肉体がすることではなく、「ことばの肉体」がすること。
「ので」という強引な「論理」を通りぬけて、ことばはさらに、
「さめたスープを猫とすする」ではなく「さめた猫とスープをすする」ことにする。(ことにした、のである。)
「ことばの肉体(論理の肉体)」は、なんでもできる。
そうであるなら。
いま現在、「流通言語」を支配している「ことばの肉体(論理の肉体)」も、もしかしたら、だれかが「ことばによって」……「ことにした」という構造で動いていないか。
そう考えるところから、秋亜綺羅の「現実批判(社会批評)」は始まっている。
いつでも秋亜綺羅のことばは「流通言語」を支配している「論理の肉体(ことばの肉体)」を批判している。--あ、これでは秋亜綺羅の詩に対する感想になってしまうけれど、きっと詩人アリスにも、同じことが言える。「一卵性双生児」。同じDNAを生きている。詩人アリスが何歳かしらないけれど、そしてそのDNAは若いときの秋亜綺羅のDNAの状態にそっくりに私には感じられる。
自在に、思いつくままに書いているようであっても、いつもそこには「批評」が存在している。「流通言語」への批判はもちろん、「ことば」そのものへの批判も含んでいる。だから、その批評が、詩、となる。
ことばによって……することにした、というのは、かなり危ない。とても危険である。多くのひとは、そのことに気づいていない。秋亜綺羅と詩人アリスは、そのことに気づいている。つまり、そのことばの運動には「自己批判」がある。
「自己批判」というのは古くさい「流通言語」で、秋亜綺羅や詩人アリスの詩の感想を書くのにはふさわしいことばではないのだけれど。
どんなふうにしても、ここあるあるのは「ことば」なのだという自覚が、秋亜綺羅と詩人アリスには共通する。ここにあるのは(世界にあるのは)ことばだからこそ、ことばの肉体にこそ刺戟が伝わるようにして、ことばを動かす。
「意味」ではなく、刺戟がうまれれば、それでいい。
だから、その詩はどこで終わってもいい。どこで終わらなくてもいい。
「夜の国のアリス」はどれだけの長さをもっているのか知らないが、(次号へつづく)という形でとじられている。その(つづく)さえ、もしかしたら「論理の肉体」そのものであるかもしれない。
詩人アリス「夜の国のアリス」を読みながら、あ、詩人アリスは秋亜綺羅と一卵性双生児かも、と思った。いまの秋亜綺羅ではなく、私が若かったころ、つまり秋亜綺羅と同じような年齢だったころの秋亜綺羅を思い出した。
--という文章は、ちょっと変かな? 論理的じゃないかな?
秋亜綺羅と同じ年齢だったころ、というのなら、いまでも同じような年齢であるはずだから。
うーん。でも、違うんだなあ……。
人間は歳を重ねると、どんどん年齢の差が開いていく。同じ年、同じ月、同じ日に生まれても(一卵性双生児であったとしても)、歳を重ねると年の差ができる。そして違った年齢の人間と近づいていく。
言い換えると、若いときは年齢が共通項になって類似性を引き起こすけれど、歳を重ねると年齢ではなく個性が共通項になるのである。
で、詩人アリスが何歳かは知らないけれど、いまの秋亜綺羅をとおって、昔の秋亜綺羅に重なって見える--というのが私の印象である。
わたしは廃墟からうまれた
西暦2012年
世界はつめたい光の闇に満たされていた
うまれたときにわたしはおもった
ここはわたしの場所じゃない
それでもひとびとはわたしを選んだ
だからわたしは廃墟をいきることにした
ことばが「無重力」である。「意味」の重力にしばられていない。いちばんわかりやすい例が3行目の「光の闇」という表現である。光と闇は「流通言語=学校教科書の意味」では正反対のものであり、「光の闇」というのは常識的にはありえない。簡単に言うと「でたらめ」である。
でも、ことばはどんな「でたらめ」を書いても、書いた瞬間に「論理」になる。「意味」になる。まぶしくて目が開けられない「闇」ではなく、目を開くことができるけれど、そこには光しかないという「闇」。そういうものが、ことばが動いた瞬間に、ことばといっしょに「そこ」に生まれる。「そこ」ではなく、「ここ」かもしれないが。あるいは「あこ」かもしれないが。
で。
というか、いつでもことばは「論理=意味」になるのだけれど、その「論理=意味」の飛躍(?)が、秋亜綺羅の場合も詩人アリスの場合も、ほんとうにでたらめかというとそうではなくて、どこかに「論理の肉体」を持っていて、そこに「論理の肉体」があるがゆえに、読者を安心させながら(?)、同時に読者を裏切る。そして、読者を裏切ることで、逆に安心させる。--つまり、納得させる。この場合の納得は、「意味」ではなく、そこに「論理」がある、ということなのだけれど。
あ、これでは、きっと何のことかわからないね。
まあ、私にもよくわからないのだから、私の文章を読んでいる人にはさらにわかりにくいだろうなあ。私の文章を読んだために、いっそうわからなくなるだろうなあ。
でも、もう少し、わからないまま、読んでください。
私もわからないまま、もう少し考えるので。
「意味」はない。けれど「論理」はある--というのは、「わたしは廃墟からうまれた」ならば「比喩」ということになるかもしれない。そのとき比喩は「廃墟」なのか、「うまれた」なのか、よくわからない。というより、区別がつかない。「廃墟からうまれる」ということば自体が「比喩」なのだ。それは「美人」を「花」にたとえるような「比喩」、つまり名詞の置き換えによる固定化(?)ではない。
「うまれる」という「動詞」をともなった運動である。
そして、そこに動詞が存在することによって、そこに必然的に「論理」が生まれる。「論理の肉体」が動く。「論理」というのは、運動なのだ。「論理」というのは、何かを動かすものなのだ。
何が動く? 何を動かす?
答えは簡単である。ひとの「考え」を動かすのである。ひとの「考え」に「それでいいのか」と疑問を投げかける。その疑問にふれることが、詩、なのである。
そのとき。
とてもおもしろいのは、秋亜綺羅の場合も、詩人アリスの場合も、人間の「肉体」そのものを利用して「考え」にふれるのではなく、あくまで「論理の肉体」を利用することである。
ここはわたしの場所じゃない
それでもひとびとはわたしを選んだ
だからわたしは廃墟をいきることにした
「それでも」「だから」。このことばのなかには「論理」がある。そのことばにつづくことばに「論理」があるというよりも、「それでも」「だから」が「論理」を呼び込んでしまう。「それでも」「だから」こそが「論理」なのである。
「それでも」「だから」をつかえば、それにつづくことばは「論理」になってしまう。で、最初の「光の闇」にもどって、「それでも」と「だから」を当てはめてながら、詩人アリスを真似てみると……。
世界はつめたい光に満たされていた(つまり光しか存在しない)/それでも世界は存在する/だから世界は闇に満たされていたということにした
という具合になるかれしれない。
で、そのとき。突然、当然の顔をしてあらわれることばがある。
「……ことにした」
これが、きっと、たぶん、間違いなく、若いときの秋亜綺羅と詩人アリスに共通するキーワードである。
あらゆる「でたらめ(?)」は「……ことにした」ということばを隠しながら、「論理」になる。「……ことにした」という自己決定。
わたしは廃墟からうまれた(ことにした)
西暦2012年
世界はつめたい光の闇に満たされていた(ことにした)
そしてそのとき「ことにした」を動かすエネルギーは何か。「ことば」である。書くこと、語ることによって、つまり「ことばによって」。
(ことばによって)わたしは廃墟からうまれた(ことにした)
西暦2012年
(ことばによって)世界はつめたい光の闇に満たされていた(ことにした)
「ことばによって」何かを「……ことにした」。そのとき「ことばによって」「論理」が生まれる。そしてその「論理」は「意味」ではなく。いままで流通していた「意味」ではないものが、「論理」をもって動く--というところに、詩が生まれる。それが見なれない「論理」であるために、私たちは、(少なくとも私は)、「考え(いままで無意識に考えていたこと、思い込んでいたこと)」を揺さぶられたように感じる。
その刺戟。
それが、詩。
くしゃみと同じ気軽さで人殺しができるように
脳天の鎖はジャリジャリと鳴り響く
のでわたしは眠れない朝をさめた猫とスープをすする
「人殺し」は「くしゃみと同じ気軽さ」でできることではない。けれど、「ことばによって」そうできる「ことにした」のだ。できないことも「ことばによって」「できることになる」。
それはほんとうの人間の肉体がすることではなく、「ことばの肉体」がすること。
「ので」という強引な「論理」を通りぬけて、ことばはさらに、
「さめたスープを猫とすする」ではなく「さめた猫とスープをすする」ことにする。(ことにした、のである。)
「ことばの肉体(論理の肉体)」は、なんでもできる。
そうであるなら。
いま現在、「流通言語」を支配している「ことばの肉体(論理の肉体)」も、もしかしたら、だれかが「ことばによって」……「ことにした」という構造で動いていないか。
そう考えるところから、秋亜綺羅の「現実批判(社会批評)」は始まっている。
いつでも秋亜綺羅のことばは「流通言語」を支配している「論理の肉体(ことばの肉体)」を批判している。--あ、これでは秋亜綺羅の詩に対する感想になってしまうけれど、きっと詩人アリスにも、同じことが言える。「一卵性双生児」。同じDNAを生きている。詩人アリスが何歳かしらないけれど、そしてそのDNAは若いときの秋亜綺羅のDNAの状態にそっくりに私には感じられる。
自在に、思いつくままに書いているようであっても、いつもそこには「批評」が存在している。「流通言語」への批判はもちろん、「ことば」そのものへの批判も含んでいる。だから、その批評が、詩、となる。
ことばによって……することにした、というのは、かなり危ない。とても危険である。多くのひとは、そのことに気づいていない。秋亜綺羅と詩人アリスは、そのことに気づいている。つまり、そのことばの運動には「自己批判」がある。
「自己批判」というのは古くさい「流通言語」で、秋亜綺羅や詩人アリスの詩の感想を書くのにはふさわしいことばではないのだけれど。
どんなふうにしても、ここあるあるのは「ことば」なのだという自覚が、秋亜綺羅と詩人アリスには共通する。ここにあるのは(世界にあるのは)ことばだからこそ、ことばの肉体にこそ刺戟が伝わるようにして、ことばを動かす。
「意味」ではなく、刺戟がうまれれば、それでいい。
だから、その詩はどこで終わってもいい。どこで終わらなくてもいい。
「夜の国のアリス」はどれだけの長さをもっているのか知らないが、(次号へつづく)という形でとじられている。その(つづく)さえ、もしかしたら「論理の肉体」そのものであるかもしれない。
![]() | 季刊 ココア共和国vol.12 |
秋 亜綺羅,ブリングル,坂多 瑩子,北条 裕子,詩人アリス | |
あきは書館 |