詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

蟹沢奈穂『明るい青色の石』

2013-04-22 23:59:59 | 詩集
蟹沢奈穂『明るい青色の石』(書肆山田、2013年03月05日発行)

 蟹沢奈穂『明るい青色の石』の詩篇はたいていが短い。短いけれど、何かたくさんのことを言おうとしている。それが私には少しうるさく感じられた。
 「私ではない」という作品。

ベッドでまるくなって
眠ろうとしているのは わたしではない
この眠りは わたしのものではない
夕飯の仕度をしているのは
わたしではない
この味覚は わたしのものではない

これは だれ
靴を履いて
あなたに
会いに行こうとしているのは

お願いです と
言おうとしているのは

 1連目は「わたしではない」という行が必要なので書かれているのだと思うが、少し長い。「この味覚は わたしのものではない」というのは「肉体」を感じさせてくれるので好きな行だが、「夕飯」からの3行はない方が「こころ」と向き合っている感じがしていいのでは、と思った。
 3連目はとてもすばらしい。この2行だけで「わたしではない」というタイトルでもよかったのではないだろうか。
 この詩は実はこのあと2連9行あるのだが、ここで終わった方がことばが拡散せずにすむと思う。ことばが凝縮すると思う。

 「秋の階段」はむだのない美しい作品だと思う。

言っておくけど
秋の階段なんかには
気をつけたほうがいい
くれぐれも
筋肉痛の朝みたいにゆっくりと
慎重におりるようにね
何しろ そんなところには
まるで 素敵な詩 みたいなものが
潜んでいるからね
木枯らしに舞い散る枯葉越しに
すれ違った人と目が合って
何かが
始まってしまったりするかも
知れないから

 秋の階段を「ゆっくり/慎重に」降りてみたくなる。「枯葉越しに/すれ違った人と目が合って」みたい。そういう気持ちになる。そういうことをしてはいけないとこの詩は言うのだけれど、してはいけないと言われたらしたくなるね。
 そういう矛盾が、詩。
 で、この詩には「素敵な詩」という、まあ、現代詩には書いてはいけないようなことばがそのまま書かれているのだけれど。
 それも許せる。
 蟹沢の作品の特徴は、たぶん、ごつごつした具体的なものにはならない部分にある。その人でしかありえない「肉体」ではなく、「透明な抽象」というか、うーん、いわゆる「こころ」というやつかなあ、それをすばやく掴んで体温に汚れないうちにことばにするところに輝きがある。
 「肉体」を書くにしろ、「体温」で輪郭がなくなる前にぱっと放した方がいい。
 言い換えると、それが「わたしのもの」になる前に手放すと、蟹沢の詩は動くように見える。

白い 静かな朝
なのに心が騒いでいる
私のものではない夢が
この部屋まで侵入してくるような
不安
                                (「白い朝」)

 「私のもの」になってしまうと、「体温」にそまってしまうと、「心」が本来私のものではないものにまで侵入して行って(逸脱して行って/はみだして行って)、ちょっとめんどうになる。
 そうならないうちに手放すと「心」は蟹沢の内部でだけ動く。抒情になる。抒情は他人への押し付けにならない限りは美しいものだと思う。

風の音が
彼のを吹きわたり
暖かなねむりの中にもぐりこもうとするわたしを
呼びさます声のように響く夜ふけに
そっと
窓をひらく

招き入れたそのつめたい指さきを 握りしめて
あげるから
                                (「呼び声」)

 「体温」をうつすにしろ、それは風の「指先」という比喩にとどまる限りは大丈夫だ。







明るい青色の石
蟹澤 奈穂
書肆山田
コメント
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