和田まさ子「冷蔵庫で」(「地上十センチ」3、2013年04月15日発行)
和田まさ子は「現実」との距離の取り方が安定している。つまり、文体ができあがっている。和田まさ子は壺になったり金魚になったりミズスマシになったりするが、「冷蔵庫」では……。
単なる「サバの味噌煮」ではなく、冷凍されたサバの味噌煮、レトルト食品である。冷蔵庫で解凍され、サバの味噌煮になるのである。冷凍食品は、一度料理されて、それから冷凍されるのであるから、それを解凍するということは、冷凍前の「できたて」の料理にもどること、「時間を逆走する」ことであり、「再生」することである。
なるほどね。
ここには「論理の肉体」が動いている。秋亜綺羅もこういう感じの「論理の肉体」を動かすことがある--と根拠もなしに、私はテキトウに書いてしまうのだが。
私がおもしろいと感じるのは(あ、和田まさ子だなあと感じるのは)、その「論理の肉体」よりも。
この2行の、妙に不気味(?)な「現実感」である。「サバは好きでもない」というのは個人の好みであり、それは、もうどうすることもできない。好きでもない人間に好きになれといってもしようがない。そういうことは誰にでもある。「ことばの論理(肉体)」ではなく、ここには「肉体の論理(感覚?)」が動いている。生きている。
で、それを引き受けて、
えっ、「サバの味噌煮」が「仕事」?
何か違うんだけれど、「与えられた仕事はしなければならない」という「ことばの論理(論理の肉体)」はしきりに耳にするので、それに押し切られてしまう。生きるためには与えられた仕事をしないといけない。仕事を好き嫌いで選んでいては金を稼げない。
妙な、切断と接続がある。
好きでもない仕事をしなければならない--と和田は書いているわけではないが、「論理の肉体」はねじれるようにして、そんなふうに接続してしまう。そこへ「サバ」が「好きでもない」という個人的な感覚のままくっついている。
そうか。
人間というのは、個人的な感覚(本能?)をぶらさげたまま、個人的ではないこと(たとえば仕事)を「しなければならない」ことがある。「生きるために」ね。それが「サバの味噌煮」であること、という不可解な仕事であろうと。(「サバの味噌煮」は何かの暗喩かもしれないが、説明されない。)
ふつうは(ずぼらな私は、と言い換えるべきか)、そういうときには、個人的な感覚をぶらさげたまま動くのは面倒くさい(動きにくい)ので、個人的な本能をすてて(あきられめ、ふりきって、あるいはそういうふりをして、つまり自分に言い聞かせて)公的な「仕事」をする。
けれど和田はそういうずぼらはしないで、個人的な本能(感覚)が切断と接続によってどんな具合に変化するかを丁寧にことばにする。この「丁寧さ」のなかに和田の正直があり、それが「正直」だからこそ、ことばの運動(文体)がしっかりと安定しているのだ。
言いなおすと--あるいは、少し前にもどると--、「サバの味噌煮」が何の暗喩か説明されないのだけれど、そのかわりに(?)和田は、その暗喩のなかへ直接入っていく。それを「肉体」にしてしまう。暗喩を「肉体」の領域にこだわって語る。「肉体」につかみとれることだけで語る。「肉体」で「サバの味噌煮」を分有する。
自分以外のものを自分の「肉体」で分有する--というのは、いつもの例を繰り返すと、道にだれかが倒れている。呻いている。それをみると、あ、このひとは腹が痛いのだと思う。自分の肉体ではないのだけれど、その姿勢、呻きのなかに自分の「肉体」が入っていき、自分の「肉体」の痛みを思い出し、このひとは腹が痛いのだと思うときの、「肉体」の感覚である。
こういうことは人間の「肉体」に対してなら、私たちはたぶん日常的におこなっている。そしてそれが日常的だからこそ、見落としている。その見落としている日常的な「肉体」の運動を、日常ではありえない「サバの味噌煮」にまで押し広げて(?)、動かす。その力業のなかに、丁寧と正直がある。こんなことは正直でないとできない。
で、この個人的な本能(感覚/肉体)の変化、「肉体」による対象の直接的分有をことばにすることを、和田は「考える」ということばであらわしている。
この「考える」に、私はちょっと驚いた。はっとした。あ、そうか、和田は「思った(感じた)」ことを書いていたのではなく「考え(たこと)」を書いていたのか。本能(感覚)を生な形でそのまま表出するのではなく、いったん考え、つまり、ことばとして整えてから、その運動を表出していたのか……。だから、ことばが安定しているのか。「現実との一定の距離感」は「考え」によるものだったのか。
というのは--まあ、私の感想の「脱線」なのだけれど。
「考え」をくぐりぬけ、本能(感覚)へことばがもう一度もどっていくところが、とてもいいねえ。ことばの整え方がとてもいいねえ。ことばをあくまで「肉体」の領域、暮らしの領域、日常の領域にひきもどすところがいいねえ。
背中の皮から融けて、それに味噌の塩分がふれてひりひり。けれど水そのものではなく塩をふくんでいるので「ねっとり」。
いいなあ、これ。ほかに、ことばはありえない。「肉体」が反応してしまう。「ねっとり」の「意味」を言いなおすことはできない。「肉体」が直接、納得してしまう。
私は和田のことばは「現実との距離感が安定している」と書いたが、その「距離感」を別の表現で言えば「ねっとり」になるのだ。「ねっとり」したものにふれると、なんだか「肉体」も「ねっとり」にそまる。混じりあう。
「ねっとり」には、あいまいな接続と切断があり、その感触は「ねっとり」したものにふれているものにしかわからない。
「考える」で始まり、「感じる」へと動いていく。知性で始まり、本能へと帰っていく。その往復。
和田の詩には女性特有の感覚(本能)の強さがあり、それを「考え(頭)」で鍛えなおし、もう一度、本能の形にして表出するという「手順」を貫くことで、ことばが「肉体」そのもののように手触りのある「固体(個体/個性)」として存在し、その存在の確かさを「安定」と感じるのかもしれない。
和田まさ子は「現実」との距離の取り方が安定している。つまり、文体ができあがっている。和田まさ子は壺になったり金魚になったりミズスマシになったりするが、「冷蔵庫」では……。
わたしはいまサバの味噌煮になっている
サバは好きでもないが
与えられた仕事はしなければならないだろう
わたしは生きるために冷蔵庫に入るしかなく
カチカチのものが
徐々にできたてのものになっていくために時間を逆走する
それは再生の試み
単なる「サバの味噌煮」ではなく、冷凍されたサバの味噌煮、レトルト食品である。冷蔵庫で解凍され、サバの味噌煮になるのである。冷凍食品は、一度料理されて、それから冷凍されるのであるから、それを解凍するということは、冷凍前の「できたて」の料理にもどること、「時間を逆走する」ことであり、「再生」することである。
なるほどね。
ここには「論理の肉体」が動いている。秋亜綺羅もこういう感じの「論理の肉体」を動かすことがある--と根拠もなしに、私はテキトウに書いてしまうのだが。
私がおもしろいと感じるのは(あ、和田まさ子だなあと感じるのは)、その「論理の肉体」よりも。
サバは好きでもないが
与えられた仕事はしなければならないだろう
この2行の、妙に不気味(?)な「現実感」である。「サバは好きでもない」というのは個人の好みであり、それは、もうどうすることもできない。好きでもない人間に好きになれといってもしようがない。そういうことは誰にでもある。「ことばの論理(肉体)」ではなく、ここには「肉体の論理(感覚?)」が動いている。生きている。
で、それを引き受けて、
与えられた仕事はしなければならないだろう
えっ、「サバの味噌煮」が「仕事」?
何か違うんだけれど、「与えられた仕事はしなければならない」という「ことばの論理(論理の肉体)」はしきりに耳にするので、それに押し切られてしまう。生きるためには与えられた仕事をしないといけない。仕事を好き嫌いで選んでいては金を稼げない。
妙な、切断と接続がある。
好きでもない仕事をしなければならない--と和田は書いているわけではないが、「論理の肉体」はねじれるようにして、そんなふうに接続してしまう。そこへ「サバ」が「好きでもない」という個人的な感覚のままくっついている。
そうか。
人間というのは、個人的な感覚(本能?)をぶらさげたまま、個人的ではないこと(たとえば仕事)を「しなければならない」ことがある。「生きるために」ね。それが「サバの味噌煮」であること、という不可解な仕事であろうと。(「サバの味噌煮」は何かの暗喩かもしれないが、説明されない。)
ふつうは(ずぼらな私は、と言い換えるべきか)、そういうときには、個人的な感覚をぶらさげたまま動くのは面倒くさい(動きにくい)ので、個人的な本能をすてて(あきられめ、ふりきって、あるいはそういうふりをして、つまり自分に言い聞かせて)公的な「仕事」をする。
けれど和田はそういうずぼらはしないで、個人的な本能(感覚)が切断と接続によってどんな具合に変化するかを丁寧にことばにする。この「丁寧さ」のなかに和田の正直があり、それが「正直」だからこそ、ことばの運動(文体)がしっかりと安定しているのだ。
言いなおすと--あるいは、少し前にもどると--、「サバの味噌煮」が何の暗喩か説明されないのだけれど、そのかわりに(?)和田は、その暗喩のなかへ直接入っていく。それを「肉体」にしてしまう。暗喩を「肉体」の領域にこだわって語る。「肉体」につかみとれることだけで語る。「肉体」で「サバの味噌煮」を分有する。
自分以外のものを自分の「肉体」で分有する--というのは、いつもの例を繰り返すと、道にだれかが倒れている。呻いている。それをみると、あ、このひとは腹が痛いのだと思う。自分の肉体ではないのだけれど、その姿勢、呻きのなかに自分の「肉体」が入っていき、自分の「肉体」の痛みを思い出し、このひとは腹が痛いのだと思うときの、「肉体」の感覚である。
こういうことは人間の「肉体」に対してなら、私たちはたぶん日常的におこなっている。そしてそれが日常的だからこそ、見落としている。その見落としている日常的な「肉体」の運動を、日常ではありえない「サバの味噌煮」にまで押し広げて(?)、動かす。その力業のなかに、丁寧と正直がある。こんなことは正直でないとできない。
どこから解凍されるのかを考える
わたしは味噌汁の汁に浸かって
ビニール袋に個苞されている
はじめに味噌の汁が融けてくるのか
あるいはわたしの背の皮から少しずつ融けるのだろうか
味噌のなかは塩辛くてひりひりするのか
ねっとりした感覚は心地よいのか
で、この個人的な本能(感覚/肉体)の変化、「肉体」による対象の直接的分有をことばにすることを、和田は「考える」ということばであらわしている。
この「考える」に、私はちょっと驚いた。はっとした。あ、そうか、和田は「思った(感じた)」ことを書いていたのではなく「考え(たこと)」を書いていたのか。本能(感覚)を生な形でそのまま表出するのではなく、いったん考え、つまり、ことばとして整えてから、その運動を表出していたのか……。だから、ことばが安定しているのか。「現実との一定の距離感」は「考え」によるものだったのか。
というのは--まあ、私の感想の「脱線」なのだけれど。
「考え」をくぐりぬけ、本能(感覚)へことばがもう一度もどっていくところが、とてもいいねえ。ことばの整え方がとてもいいねえ。ことばをあくまで「肉体」の領域、暮らしの領域、日常の領域にひきもどすところがいいねえ。
背中の皮から融けて、それに味噌の塩分がふれてひりひり。けれど水そのものではなく塩をふくんでいるので「ねっとり」。
ねっとり
いいなあ、これ。ほかに、ことばはありえない。「肉体」が反応してしまう。「ねっとり」の「意味」を言いなおすことはできない。「肉体」が直接、納得してしまう。
私は和田のことばは「現実との距離感が安定している」と書いたが、その「距離感」を別の表現で言えば「ねっとり」になるのだ。「ねっとり」したものにふれると、なんだか「肉体」も「ねっとり」にそまる。混じりあう。
「ねっとり」には、あいまいな接続と切断があり、その感触は「ねっとり」したものにふれているものにしかわからない。
わたしがここにいるとはだれも知らないのだが
もうそれはどうでもいいことで
さあこれから
解凍されるのを感じていくのだ
「考える」で始まり、「感じる」へと動いていく。知性で始まり、本能へと帰っていく。その往復。
和田の詩には女性特有の感覚(本能)の強さがあり、それを「考え(頭)」で鍛えなおし、もう一度、本能の形にして表出するという「手順」を貫くことで、ことばが「肉体」そのもののように手触りのある「固体(個体/個性)」として存在し、その存在の確かさを「安定」と感じるのかもしれない。
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