詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

淵上熊太郎『清潔で、満腹で、悲しくて、』

2013-04-29 23:59:59 | 詩集
淵上熊太郎『清潔で、満腹で、悲しくて、』(花梨社、2013年03月27日発行)

 淵上熊太郎『清潔で、満腹で、悲しくて、』にはむずかしいことばはない。何が書いてあるかは読んですぐにわかる。たとえば、「窓」。

窓の奥に潜んで
枠のついた海を見る
晴れた日も雨の日も
思いがけず雪の日も

家の近所の百メートルは
いわゆる私のテリトリーで
気持ちさえあれば
海辺までも歩ける

ヨットが近くにいたら
石を投げることもできる
だからといって
気持ちが晴れることはない

 「窓の奥に潜んで」というのは部屋の中から、くらいのことだろう。「奥に潜んで」ということばに、少し鬱屈のようなものを感じる。「枠のついた」というのは「窓枠」のなかだけで海が見えるということ。
 このあたりのことばに、抒情が感じられる。
 重たい抒情ではなく、軽い抒情。
 ここから先へ感想を進めることはむずかしい。--なんというのだろう。オリジナリティーをどこに感じるべきか、がむずかしいのである。だれそれの詩に似ているというのではないけれど、なんとなく、こういう作品は多くの人が書いているかもしれないなあ、と思ってしまう。これは余分な感想なのだけれど、そういう余分を引き寄せるところが淵上のことばの動きにはある。
 特に「ヨット」の3連目。石を投げてしまえば違ってくるかもしれないけれど、投げない。考えてみるだけ。実行しないのは、石を投げてみたって「気持ちが晴れることはない」と知っているから。
 この、あらかじめ自分の気持ちがどうなるかを知っている、という感じの抒情が……うーん、私にはちょっと、イヤ。それが好きという抒情派詩人は多いと思うけれど。
 1連目の「枠」とも重なるのだけれど--自己限定。いいことばで言いなおせば「両親」の歯止めなんだろうけれど。そこには冒険の「わくわく」がない。自己拡張の「わがまま」がない。逸脱の「でたらめ」がない。奔放がない。自由がない。
 自由はこころのなかにだけある。こころの自由のために、何かが傷つく--そのときの抒情。敗北しながら守る精神の輝きという名の抒情……。
 かな。

 全部ひらがなで書かれた「さくら」は、詩集のなかではいちばん好きな作品だ。

さくらはなかなかなかない
さむくてもなかない
あたたかくてもなかない
きっとかなしくてもなかない
きせつはずれに
ゆきがふっても
なかないで
さくさく
さくら
なかなかなかない

 「なかなかなかない」という音が美しい。そして「なかなかなかない」ということは、結局は「なく」ということでもあるのだけれど、その「なく」はさくらのなかで起きることではなくて、詩人のなかで起きること、淵上のこころのなかで起きることだね。
 「きっとかなしくてもなかない」は、淵上は同じように「かなしくてもなかない」ということだろう。でも、それは表面的なこと。いわゆる「顔で笑って心で泣いて」ということ。で、人間は、その「顔で笑って心で泣いて」という矛盾した「肉体」のあり方に共鳴する。
 「なかなか」に共鳴する。

 「なかなか」はなかなかことばにするのはむずかしい。けれど、だいたい、わかるね。このだいたいが、きっと共鳴の「基本形」なんだろうなあ……。

 ということろで感想をやめてもいいのかもしれないけれど、もう少し書いてみる。「逃げ水」という作品。これはちょっと異色かもしれない。海とかヨットとかさくらといった「現実」とは違うものが登場する。

マサイ族の戦士が
首都高速道路羽田線を歩いてくる
春だというのに
視線の先には逃げ水が
午後の光を反射している
私は車を運転しながら
戦士を轢死させないように
細心の注意を払って
減速する
隣のシートに座っている
知人のアメリカ人には
そんな障害になる人物が
見えていないので
怪訝な顔で
私を見る
気温が摂氏二十度を超える頃になると
桜のカーテンの向こうに
いろいろなものを見てしまうのは
私だけだろうか

 「マサイ族の戦士」は現実には存在しない。幻。淵上はここでは「幻視」を見ていることになる。淵上はそれを「幻視」とはいわずに「いろいろなもの」と言っている。
 淵上の書いていることは、これだね。さくらの「なかなかなかない」もそこには存在しないあり方--それが見える。見えれば、それは幻手はなく現実になる。肉眼が見るのだから、見えた多ものも現実になる。
 で、その「見え方」にはひとつの特徴がある。淵上ならではの「こと」がある。

桜のカーテンの向こうに

 何かに目を向ける。そうすると、その対象だけではなく、その「向こうに」何かが見える。手前ではなく、「向こう」。手前には、ちゃんと(?)「桜のカーテン」という現実が見える。「桜のカーテン」は比喩を含んでいるから、現実ではない、という言い方もできるけれど、「マサイ族の戦士」よりは現実に近い、ふつうの視力で見えるものである。
 そうか、淵上はいつでも「向こう」が見えているのが。そして、その「向こう」というのは「理想」のように一つの焦点をもって何かを統合する力ではなく、「ひとつ」とは反対のものなのだ。「いろいろなもの」。複数。それはどれが正しいというわけではない。「いろいろ」なまま共存している。
 「いろいろなもの」を共存したまま見つめる、それを受け入れる。
 そこに淵上の「かなしさ」と「やさしさ」がある。「ひとつ」なら、きっと簡単に泣ける。でも「いろいろなもの」を見てしまうと、そしてそれをわかってしまうと「なかなか」ひとつにはなれない。ひとつにはしぼれない。ひとつなら、そのひとつに向けてこころを集中させて泣くこともできるかもしれない。でも「いろいろ」なので「なかなか」泣けない。だから、よけいに悲しくなる。




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