詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島きみ子「どの水音を遡ってここまで来たか」

2013-04-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
小島きみ子「どの水音を遡ってここまで来たか」(「エウメニデスⅢ」44、2013年04月10日発行)

 小島きみ子の詩の感想は、私のような思いついた先から順番にことばにしてしまう人間にはなかなかむずかしい。小島は思いついた順に、書けるところまで書いていく、ことばが動いていくところまで動いていくというタイプではないからだ。小島は全体をしっかりとフレームのなかに入れてしまう。そこには「構造」(構図)のようなものがあって、その構造と、そこからはみだそうとする瞬間的な「存在」の対立(?)が小島の詩だからである。
 直感で書くのだが、小島は、ドイツ語のような「枠構造」をもった言語をどこかで学んだことがあるのかもしれない。そして、そういう「構造」を「肉体」として採用しているのかもしれない。
 というような抽象的なことは、書いてもしようがないので。
 「どの水音を遡ってここまで来たか」を引用してみる。それについて具体的に、私の考えたことを、思いついた順に書いていく。(思いついた順に書いていくので、先に書いたことと矛盾したことを書くかもしれない。でも、私は書き直しはしない。どうしても書き直したいときは、さっき書いたのは間違いだと気づいた、という具合にことばをつないでゆく。)

「トリスタンとイゾルデ」を聴いている。
まだ咲かない櫻の木の下で別れた人たちのことを思いだす。
窓辺のゼラニュームが散っていく。
疲れた人が瞼を閉じるように。

どの水音を遡ってここまで来たか。
新しい物語を創らないと、
流されて行った人々の追憶のなかへ入ってゆけません。
愚かなあまりに愚かな人間は、
何度でも何度でも死んで赦しを請わなければ、
あなたがたの犠牲の意味を知ることなどできはしないのです。

ピーチピンクって言えばいいのか!
チェリーピンクって言えばいいのか!
灰色の大地で果敢に咲いていた桃の花桃の花。
昼間の明るすぎる陽ざしを突然に襲った。
チュルチュル、チュルチュルという水の音。

病室のカーテンの裾から細い足が出ている。
ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』の表紙カヴァーは、
池田満寿夫たったね、と、唐突に叔父が暗唱する。
「虚空のなかを綱渡りする夢遊病者、
すなわち、夢遊病者のように生と死のあいだを往き来する詩人である。」

燃せの花にメジロが来ていたね。
チュルチュル、チュルチュルって。
あなたは鳥の真似をして口笛を吹きながら、
七階心臓外科病棟の廊下を歩いて行ったきりまだ帰って来ない。

 1連目の「別れた人たち」を私は最初、古い友人かなにかのように読んだ。「疲れた人が瞼を閉じるように」もほんとうに疲れた人のことだと思った。ところが、それはどうやら「比喩」らしい。最後まで読むと、「あなた(叔父かもしれない)」は心臓病を患っていたが、入院先の病院で亡くなったらしいことがわかる。で、「別れた人」とは亡くなった人であり、「疲れた人が瞼を閉じるように」とは死ぬことであると想像できる。小島は死別した人の思い出を書いていることになる。
 死んだ人の思い出、死んだ人を思い出すためには(死んだ人の追憶のなかに入っていくには)、「新しい物語」を創らないといけない。自分自身の「思い出」をことばにしないと、そのひととほんとうに会ったことにはならない。思い出したことにならない、というような意味だろう。
 小島の場合、その「思い出」のきっかけというか、「新しい物語」とは、「水の音」なのである。「どの水音を遡ってここまで来たか」の「水音」。「チュルチュル、チュルチュルという水の音。」
 けれど、これはほんとうの「水の音」ではない。実は鳥の声である。桃の花のころ、桃の花の蜜を吸いに来たメジロが「チュルチュル、チュルチュル」。それを「水の音」と感じたのは小島か。あるいは、死んでしまった叔父か。その声に、ふたりは新鮮な気持ちになった。そういう記憶がある。そして「水の音だ」と誰かが言って、メジロの声を水の音と呼ぶことは「詩」の行為である、そう呼ぶひとは「詩人」であるというようなことも話し合ったのだろう。その過程でコクトーと「夢遊病者=詩人」という話も出たのだろう。
 その話をしたあと、叔父は(あなたは)「チュルチュル、チュルチュルって。/あなたは鳥の真似をして口笛を吹きながら、」病棟の廊下を歩いて行った。よほど気に入ったのだ。メジロの鳴き声が「水の音」に聞こえたということが、あるいは小島がその声を「水の音」と呼んだことが。「あら、どこに水が流れているのかしら、チュルチュル、チュルチュルって。」
 「物語」の「構造」としては、そういうことになるだろうと思う。これはそのまま「小説」の形に書き直してもとてもおもしろいものだと思うけれど、小島は詩にしている。そして、それを詩にするとき、ことばをまるで「分散和音」のように散らばしている。ひとつひとつの音では何のことかわからない。散らばった音を「肉体」のなかにとりこみ、「肉体」で演奏し直すとき(?)、それが美しく響く感じ。
 2連目の、そしてタイトルになっている「どの水音を遡ってここまで来たか。」という1行が特に強く響いてくる。そしてそれは、その1行だけでは不安定で何のことかわからないのだが、「チュルチュル、チュルチュル」という具体的な音として表現され、メジロの声で補足され、「口笛」で締めくくられるとき、そこにメロディーと和音が完成するのだが、このことばを散らばらせ、統合する手法こそが小島の詩なのかもしれない。
 「構造(物語)」ははっきり存在するのだが、最初から「物語」を前面に押し出してことばを統一するのではなく、「物語」が最初はわからないように、あるいは「物語」を突き破って、「水の音」「チュルチュル、チュルチュル」が独立して輝くように逸脱させる。さらにそれを「メジロ」で終わらせるのではなく、「口笛」という形に昇華させる。「口笛」という「逸脱」によって、「物語」を「独創(芸術)」にする。

 この「枠構造」と「逸脱」を押し進める強い力は、もしかすると詩よりも散文(小説)の方に向いているかもしれない。
 同じ号に書かれている「Infinity Net 」を読むと、そういう気持ちがさらに強くなる。若い中学教師に、「いきなり抱きつきキスをせがむ」少女を描いている。その「常識」からの「逸脱」を、カタツムリの残す「光る軌跡」のなかに統一し「そっち」と「こっち」の違いを「わかってよ」という聞こえない声を聞き取ることで、「世界」そのものの「構造」として再提出する。そのとき小島のつくりだす「構造(物語)」は同時に、いまある「世界の構造(流通構造)」を破壊する(再考を迫る)という形をとる。
 「既存の構造」と「新しい物語(構造)」のぶつかりあい--は、うーん、私にはやはり「小説」の仕事の方がより訴える力が強くなるように思える。「小説」を書くと、きっと小島は成功すると思う。
 詩を書いている人に、こういう感想を書いてしまうのはよくないことなのかもしれないけれど。






その人の唇を襲った火は―詩集
小島きみ子
洪水企画
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