ルイ・マクニース『秋の日記』(2)(辻昌宏、道家英穂、高岸冬詩訳)(思潮社、2013年03月31日発行)
ルイ・マクニース『秋の日記』はタイトル通り「日記」なのだと思う。「日記」であるから、ルイ・マクニースには何のことかわかる。そして、読者には「わからない」ことがある。
たとえば、「9」。比較的わかりやすいのだけれど、やはりわからない部分がある。
「やっと我々は平常に戻り」と書き出されているから、この日記の前には「平常」ではないことがあったのだ。それが何を指すかわからない。しかし、それが「あった」ということだけは「わかる」。
何があったか。「渓谷のガードレールに/激突した人たちがいる」は現実の事故のようにも読むことができるが、そして、その事故がひどかったために事故の悪夢にうなされ、夢のなかで事故を追体験するということもなくなったが、という具合にも読めるが。
私はそのあとに出てくる「議論」ということばが、事故そのものの議論(原因追求などの議論)というよりも、ほんとうの「議論」(テーマはわからない)のようにも思えるのである。何か複雑な哲学的テーマで議論している。その議論で頭がいっぱいになる。その議論の複雑な道を踏み外し、渓谷のガードレールに激突し、渓谷に落ちていった人もいるが「我々」はその議論に勝って(?)、平穏な日常にもどったとも読むことができる。
つまり「悪夢の道」も「渓谷のガードレール」も「事故」も比喩として読むことができる。もしほんとうの交通事故(?)なら叙述はもっと具体的になるように思えるのだ。そして、それが私が書いているように「議論」がテーマであるとするなら。「あった」ことが「議論」であったとするなら。
その「テーマ」を直接書かないのはなぜだろう。詩人の関心がテーマよりも(議論の内容よりも)、精神がどんな具合に動いたか、感じたか--その「実感」を書きたいからということになる。
事実よりも実感。
とはいいながら、「実感」(感情)というものは、いつでも「肉体」のなかにあるように見えて、そうではない。「肉体」のなかにあるときは、本人にもわからない。わからないという言い方は変かもしれないが、つかみとれない。つかみとるためには、それは「外」に出て来ないといけない。
で。
唐突に、だれにでもわかる日付といっしょに、雨とロンドンの公園が描写される。こういう「切り返し」のなかに、強い「個性」がある。「議論」「激突」という抽象ではなく、詩人はいま「十月」という時間にいて、雨のロンドンの公園を歩いたことがあるのだということが「肉体」として感じられる。抽象ではなく、溝から溢れる水に足首までぬらしたという「こと」が具体的に「わかる」。その具体的に感じに、「個性」というか、「肉体」というか、ごつごつした「強さ」を感じる。
その「肉体」にはもちろん、「議論」(水に墜落したときの「波紋」)が「白い波」という形で残響のように影響しているのだが。
「比喩」を整理して、ルイ・マクニースに起きていることを言いなおそうとすれば、できるかもしれない。いま、私が書いたことを、もう一度整理して、ルイ・マクニースはある議論を複数の人と戦わせ、そのなかで激しい感情の揺れを感じた云々。それが比喩の形で炸裂している云々。
あ、でも、そういうことをするのは「めんどうくさい」ね。
つまり、そういうことをするよりも、「悪夢の道の不安定な勾配を/横滑りする」とか「渓谷のガードレールに/激突した」とか「土がむき出しになった溝をあふれさせる」とか、読めばわかるけれど、自分ではすぐに思いつかないことばに覚醒される感じ--それをただ味わっていたい。見えるものをただ見る感じ、そして驚く感じ。
この「わかるけれど自分では思いつかない何かに覚醒される」あるいは「驚き」というのは。
私の「感覚の意見」では、「一目惚れ」のようなもの。
だれかを好きになる瞬間のようなもの。
何でもないようであって、そこには「個性」がある。その人独自の何かがあって、それが「感じられる」。あ、この「感じ」。それは、まあ、時間をかけて別のことばで言いなおすこともできるかもしれない。整えなおして、だれにでもわかるように(村上春樹の小説のことばのように)、することができるかもしれない。
でも、ふつうは、そういうことはしないね。
ただ、あっ、かっこいい。あっ、あれを真似したい(自分のものにしてしまいたい)。そんなふうに思う。真似したいとか、自分のものにしてしまいたいというのは--その欲望は何でもないようであって、実は、自分が新しく目覚めるということ。刺戟を受けて、それまで知らなかった自分を発見するということ。
この瞬間が、詩。
そのつもりはなくても、自分が自分でなくなる瞬間。それまでの自分が瞬間的に死んでしまって、知らないうちに生まれ変わる。
そんなふうにして「死」と「詩」は出会う、と言っておこうか。
あ、なんだか脱線してしまうなあ。
うまくつづくかどうかわからないが、詩に戻ってみる。
詩はつづく。
あ、やっぱり最初に書かれていたのは「議論」による「衝突/事故」だったんだね、と思う。ふいに、ある状況にひきもどされる。何かしら、激しい「往復」が起きる。意識の往復。意識が何かを形作ろうとして動く。
ゲシュタルト、でいいのかな?
そこにあるものが「ひとつの形」を目指して運動する。その「運動」をわかりやすく書くと(言い換えると抽象的にすると--抽象的は、論理的ということでもあり、論理的とは、わかりやすいということ)、村上春樹になるのだが、ルイ・マクニースの場合は、抽象化せずに、そこに「具体」をかき混ぜる。
「具体」と言っても、それは「断片」。「恋」「楽しみ」「毎日」「つらい」「涙」。それをつなぐことばはいらない。だれの「肉体」にも、それをつないでしまう「肉体」がある。
だから、そこにルイ・マクニースのつらい恋の体験が具体的に書かれていなくても、そこにはルイ・マクニースの「肉体」そのものがあり、私たちはその「肉体」が「議論」をひっかきまわしているのを目の当たりにする。見る。
「恋」「楽しみ」「毎日」「つらい」「涙」--そういう「日記」は平凡なものかもしれないけれど、平凡に見えない。なぜだろう。「議論/哲学/衝突」が同居しているから?
そうかもしれない。
何かはっきりとはわからないが、ルイ・マクニースは「異質なことば」を往復している。その「往復」を「肉体」が支えている。「肉体」のなかで「異質なことば」が出会っている。(「異質なもの(こと)」が突然出会うとき、そこに詩が生まれる--というのは、「現代詩の定義」そのものだね--というのは、余分なことかな?)
ルイ・マクニースのことばを読んで感じるのは、そこに「肉体」がある、ということなのだ。
ルイ・マクニース『秋の日記』はタイトル通り「日記」なのだと思う。「日記」であるから、ルイ・マクニースには何のことかわかる。そして、読者には「わからない」ことがある。
たとえば、「9」。比較的わかりやすいのだけれど、やはりわからない部分がある。
やっと我々は平常に戻り、頭もやっと
日常の平穏な状態に戻って、
悪夢の道や不安定な勾配を
横滑りすることもなくなった。
我々は無事だが、渓谷のガードレールに
激突した人たちがいる。轍が土手に残っているが
事故のあと我々にできるのは、議論することと
彼らが沈んでいった場所にひろがる波紋を数えることだけ。
十月がやってくると、夜に雨が白い波となって
足首のまわりに打ち寄せ
土がむき出しの溝を溢れさせる(ロンドンの公園は
ひどい有様になる)。
「やっと我々は平常に戻り」と書き出されているから、この日記の前には「平常」ではないことがあったのだ。それが何を指すかわからない。しかし、それが「あった」ということだけは「わかる」。
何があったか。「渓谷のガードレールに/激突した人たちがいる」は現実の事故のようにも読むことができるが、そして、その事故がひどかったために事故の悪夢にうなされ、夢のなかで事故を追体験するということもなくなったが、という具合にも読めるが。
私はそのあとに出てくる「議論」ということばが、事故そのものの議論(原因追求などの議論)というよりも、ほんとうの「議論」(テーマはわからない)のようにも思えるのである。何か複雑な哲学的テーマで議論している。その議論で頭がいっぱいになる。その議論の複雑な道を踏み外し、渓谷のガードレールに激突し、渓谷に落ちていった人もいるが「我々」はその議論に勝って(?)、平穏な日常にもどったとも読むことができる。
つまり「悪夢の道」も「渓谷のガードレール」も「事故」も比喩として読むことができる。もしほんとうの交通事故(?)なら叙述はもっと具体的になるように思えるのだ。そして、それが私が書いているように「議論」がテーマであるとするなら。「あった」ことが「議論」であったとするなら。
その「テーマ」を直接書かないのはなぜだろう。詩人の関心がテーマよりも(議論の内容よりも)、精神がどんな具合に動いたか、感じたか--その「実感」を書きたいからということになる。
事実よりも実感。
とはいいながら、「実感」(感情)というものは、いつでも「肉体」のなかにあるように見えて、そうではない。「肉体」のなかにあるときは、本人にもわからない。わからないという言い方は変かもしれないが、つかみとれない。つかみとるためには、それは「外」に出て来ないといけない。
で。
十月がやってくると、
唐突に、だれにでもわかる日付といっしょに、雨とロンドンの公園が描写される。こういう「切り返し」のなかに、強い「個性」がある。「議論」「激突」という抽象ではなく、詩人はいま「十月」という時間にいて、雨のロンドンの公園を歩いたことがあるのだということが「肉体」として感じられる。抽象ではなく、溝から溢れる水に足首までぬらしたという「こと」が具体的に「わかる」。その具体的に感じに、「個性」というか、「肉体」というか、ごつごつした「強さ」を感じる。
その「肉体」にはもちろん、「議論」(水に墜落したときの「波紋」)が「白い波」という形で残響のように影響しているのだが。
「比喩」を整理して、ルイ・マクニースに起きていることを言いなおそうとすれば、できるかもしれない。いま、私が書いたことを、もう一度整理して、ルイ・マクニースはある議論を複数の人と戦わせ、そのなかで激しい感情の揺れを感じた云々。それが比喩の形で炸裂している云々。
あ、でも、そういうことをするのは「めんどうくさい」ね。
つまり、そういうことをするよりも、「悪夢の道の不安定な勾配を/横滑りする」とか「渓谷のガードレールに/激突した」とか「土がむき出しになった溝をあふれさせる」とか、読めばわかるけれど、自分ではすぐに思いつかないことばに覚醒される感じ--それをただ味わっていたい。見えるものをただ見る感じ、そして驚く感じ。
この「わかるけれど自分では思いつかない何かに覚醒される」あるいは「驚き」というのは。
私の「感覚の意見」では、「一目惚れ」のようなもの。
だれかを好きになる瞬間のようなもの。
何でもないようであって、そこには「個性」がある。その人独自の何かがあって、それが「感じられる」。あ、この「感じ」。それは、まあ、時間をかけて別のことばで言いなおすこともできるかもしれない。整えなおして、だれにでもわかるように(村上春樹の小説のことばのように)、することができるかもしれない。
でも、ふつうは、そういうことはしないね。
ただ、あっ、かっこいい。あっ、あれを真似したい(自分のものにしてしまいたい)。そんなふうに思う。真似したいとか、自分のものにしてしまいたいというのは--その欲望は何でもないようであって、実は、自分が新しく目覚めるということ。刺戟を受けて、それまで知らなかった自分を発見するということ。
この瞬間が、詩。
そのつもりはなくても、自分が自分でなくなる瞬間。それまでの自分が瞬間的に死んでしまって、知らないうちに生まれ変わる。
そんなふうにして「死」と「詩」は出会う、と言っておこうか。
あ、なんだか脱線してしまうなあ。
うまくつづくかどうかわからないが、詩に戻ってみる。
詩はつづく。
一週間で僕は仕事に戻り、古代ギリシャ人研究の興行主として
講義と指導を行なう。
古代ギリシャ人はキントを着て、魚とオリーブを主食とし、
徒党を組んで哲学やみだらな話を語り合った。
あ、やっぱり最初に書かれていたのは「議論」による「衝突/事故」だったんだね、と思う。ふいに、ある状況にひきもどされる。何かしら、激しい「往復」が起きる。意識の往復。意識が何かを形作ろうとして動く。
ゲシュタルト、でいいのかな?
そこにあるものが「ひとつの形」を目指して運動する。その「運動」をわかりやすく書くと(言い換えると抽象的にすると--抽象的は、論理的ということでもあり、論理的とは、わかりやすいということ)、村上春樹になるのだが、ルイ・マクニースの場合は、抽象化せずに、そこに「具体」をかき混ぜる。
一たび恋のページをめくってしまったら、
人生は何になる、どんな楽しみがあるのか、と誰かが言っていた。
毎日がさらにつらくなり、涙を流してやっと生きている者に
有利な目は出ない。
「具体」と言っても、それは「断片」。「恋」「楽しみ」「毎日」「つらい」「涙」。それをつなぐことばはいらない。だれの「肉体」にも、それをつないでしまう「肉体」がある。
だから、そこにルイ・マクニースのつらい恋の体験が具体的に書かれていなくても、そこにはルイ・マクニースの「肉体」そのものがあり、私たちはその「肉体」が「議論」をひっかきまわしているのを目の当たりにする。見る。
「恋」「楽しみ」「毎日」「つらい」「涙」--そういう「日記」は平凡なものかもしれないけれど、平凡に見えない。なぜだろう。「議論/哲学/衝突」が同居しているから?
そうかもしれない。
何かはっきりとはわからないが、ルイ・マクニースは「異質なことば」を往復している。その「往復」を「肉体」が支えている。「肉体」のなかで「異質なことば」が出会っている。(「異質なもの(こと)」が突然出会うとき、そこに詩が生まれる--というのは、「現代詩の定義」そのものだね--というのは、余分なことかな?)
ルイ・マクニースのことばを読んで感じるのは、そこに「肉体」がある、ということなのだ。
秋の日記 | |
ルイ マクニース | |
思潮社 |