詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

サラマーゴの文体

2021-11-23 10:43:27 | その他(音楽、小説etc)

  何度か書いてきたことだが、サラマーゴの文体(『Ensayo sobre la ceguera 』)には驚かされる。

 主人公の女(眼科医の妻)が道に迷う。そして、帰り道を発見する。そのとき、それまでの三人称(ただし、会話では一人称)が、突然二人称に変わる。

 270ページから271ページにかけて。

 

 No estaba tan lejos como creía, sólo se había desviado un poco en otra dirección, no teneis más que seguir por esta calle hasta una plaza, ahí cuentas dos calles a la izquierda, doblas después en la derecha, esa es la que buscas, de numero no tehas olvidado.

 

 「No estaba tan lejos como creía, sólo se había desviado un poco en otra dirección」までは、作家のナレーション。状況説明。動詞は三人称。「estaba/se había desviado 」「彼女が」思ったほど遠くにいるのではない、ほんの少し反対方向へきてしまっただけなんだ。そのあと、「no teneis más que seguir por esta calle calle hasta una plaza ・・・・」。動詞に二人称。「teneis」主語は「君」。「君は」この通りを広場までまっすぐに行かなければならない。(以下の動詞も、二人称)

 つまり、ここでは主人公は、自分自身に対して「君は」と呼びかけている。これは彼女が道に迷った混乱から立ち直り、自分自身に、「こうしろ」と命令しているのである。いわば、客観化。この客観化によって、私は(読者は)、あ、主人公は混乱から立ち直りつつあるとわかる。

 私は、ここで、目が覚めました。

 以前、別の女(突然あらわれた女)が放火するシーンで「時制」が過去形から現在形に変わることを指摘したが、ここでは「人称」が突然変化する。私は、スペイン語の初心者(NHKラジオ講座の入門編がまだ終わらない)ので、これまでこういう「人称」の変化があったかどうか気がつかなかったが、ここでは、はっきりと気づいた。

 サラマーゴは、時制や人称を変化させることで、読者を「物語」そのものに引き込んでいる。ストーリーそのものもおもしろい(だから、映画にもなった)のだが、「文体」そのものが「小説」(文学)にしかできないことをやっている。

 これは、おもしろい、としか言いようがない。

 

 で、ね。

 ここからちょっと自慢。

 私はこの小説をスペイン人の友人に手伝ってもらいながら読み進んでいるのだが、私が「270ページから271ページにかけて、動詞の人称が変わっている。ここが、この小説のおもしろいところ。とても感心した」と話したのだが、私のスペイン語のせいもあって、その小説の「醍醐味」がなかなかつたわらない。つまり、友人は人称の変化を気にせずに読んでいた。無意識に、なんでもないことのように読んでいた。私が「もっと先から読み直してみて。突然、TU(君)が出てくるよ。とてもおもしろいと思わないか。サラマーゴの天才がここにあらわれている」と繰り返し、「彼女は、ここで自分自身と頭の中で対話している」と言いなおして、やっと私の言いたいことの「意味」が通じた。友人もびっくりしていた。彼女自身が対話している、ということは意識しなかったようなのだ。

 何が言いたいかというと。

 私は、どうも、ふつうの人が見落とす「文体の変化」に敏感らしいのだ。

 外国語でこうなのだから、日本語では、もっと気になるんだよなあ、この「文体の変化」。

 

 脱線からもどると。

 これも何度か指摘したことだけれど、雨沢泰の訳文は、当然のことのように、この「文体の変化」を訳出していない。

 「彼女は思ったよりも遠ざかっていなかった。別の方角へ大まわりしていたからだ。この通りをまっすぐ広場まで歩き……」。「心の声/頭の中の対話」が聞こえてこない。だから、喜びもつたわらない。心の躍動がつたわらない。

 

 

コメント
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