詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案再読(40)

2021-11-20 10:56:34 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(40)

 2021年11月20日の読売新聞に、「首相『改憲一部先行も』、4項目同時こだわらず」という記事が載っている。

 岸田首相は19日、内閣記者会のインタビューで、憲法改正を巡り、自民党がまとめた自衛隊の根拠規定明記など4項目の改憲案の同時改正にこだわらず、一部を先行させる形もあり得るとの認識を示した。
 首相は「4項目とも現代社会に必要な改正だが、結果として一部が国会の議論で進めば、4項目同時にこだわるものではない」と述べた。「これから先、主戦場は国会での議論になる」とも語った。

 何を、どう変えるかよりも、「変える」ことに主眼がある。これは、完全におかしい。憲法は「変える」ためにあるのではない。変える必要があるとすれば、今の憲法では国民の人権が守れないという事態が生じたときだろう。自民党の掲げている「改憲4項目」には、たとえば「夫婦別姓を認める」「同性婚を認める」というものはない。いずれも、いま社会で起きている「要求」(認められないために、人権が侵害されているという訴え)なのだが、知らん顔をしている。
 少し脱線するが、先日、ケビン・マクドナルド監督の「モーリタニアン 黒塗りの記録」(ジョディ・フォスター、ベネディクト・カンバーバッチ主演)を見た。9・11事件の「関連容疑者」をめぐる「実録」映画である。そのなかで非常に興味深かかったのは、「容疑者」を弁護するジョディ・フォスター、告発するはずのベネディクト・カンバーバッチがともに「憲法」を根拠に論理を展開していることだ。ジョディ・フォスターは「容疑者の人権」を守ろうとする。ベネディクト・カンバーバッチは「国の安全」を守ろうとする。二人にとって、憲法を守ること、国家に憲法を守らせることが、人権を守ることであり、国を守ることである。憲法を守れなかったら、人権も国家も守れない。立場は違うが、憲法を守らない限り、何もできないと主張していることだ。
 こういう意識が自民党にあるかどうか。絶対にない。
 自民党が守ろうとしているのは「権力」だけである。
 私たちは、安倍政権時代に起きた「人権侵害」の例を知っている。安倍の知人の男から女性が強姦された。だが、その男は逮捕、起訴されなかった。財務省の職員は、文書改竄を命じられ、それを苦に自殺した。けれどその深層は明らかにされていない。ともに安倍に問題が波及するからである。国民の人権ではなく、安倍の「利益」を守るために、憲法がねじ曲げられている。
 その流れを汲む岸田が、安倍の路線を引き継いで改憲を進めようとしている。憲法を守る、ではなく、憲法を変えることで、権力を守ろうとしている。憲法の基本を逸脱し、憲法そのものを破壊しようとしている。

 憲法改正について、現行憲法と改憲草案は、どう違うか。ともに2項あるが、1項ずつ見ている。

(現行憲法)
第九章 改正
第96条
1 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
(改正草案)
第十章 改正
第100 条
1 この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民の投票において有効投票の過半数の賛成を必要とする。

 「発議」の主体(主語)が、現行憲法では「国会」、改正草案では「衆議院又は参議院の議員」。「発議」のための条件が非常に緩和されている。現行憲法では「国会(衆議院、参議院の両方)」の賛成が必要なのに、改憲草案では「衆議院又は参議院の議員」のどちらかの議員だけで発議できるのである。しかも現行憲法では「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」が必要なのに、改憲草案ではそうは書いていない。改憲草案は「発議」のあと、「両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決」する。
 ところで、この「議決」とは何なのか。
 現行憲法には「議決」ということばは出てこない。国会はあくまでも「発議」する。国会は「憲法をこういう具合に改正したい」という案を国民に示すだけである。つまりその「発議」は国民の「承認」を必要とする。このときの「承認」とは実質的には「議決」である。国民投票によって、その成否が決まるのである。それまでは、いかなる「議決」(決定)も存在しない。繰り返しになるが、「国会」は議決などしない。あくまでも「発議」だけである。
 改憲草案は、そうではない。国会で「議決」までしてしまう。「議決」したものの「承認」を国民に求める。
 これは単なる「用語」の問題か。手続き的には同じことを言いなおしているだけか。
 そうではない。ことばというのは、とても重要だ。「議決」されたものを「承認」するのと、「議決されていない案」を投票にかけ、賛否を問い、「承認」を受けるのでは、印象がまったく違う。提案されただけなら、まだ、どんな意見もあらわれる可能性がある。しかし、「議決された」ものは、すでに「賛成」が「反対」を上回っているのである。「議決された」ものを覆すためには、そのための「論理展開」が必要である。それは「提案されたもの」の賛否を議論することとは全然違し、労力も必要になる。
 これは簡単に言いなおせば「心理」の問題になるかもしれないが、この「心理」の与える影響は大きい。もう決まっている。反対する人間はただ反対したいだけで、何もしない、という批判が出てくるだろう。自民党の多用することばで言えば、「野党は反対するだけで建設的ではない」。そういう「風潮」を利用して、改憲を押し切るのである。
 必要な賛成の数も、改憲草案では「有効投票の過半数」と変更されている。現行憲法では、「有権者の過半数」とも「投票総数の過半数」とも理解することができる。「その」という指示詞があるので、たぶん「投票総数の過半数」と読むのが正しいだろう。「投票総数の過半数」と「有効投票の過半数」は大きな問題になる可能性がある。書き込んではいけない何かを投票用紙に書いたとする。たとえば「9条を守れ」というようなひとことを書いたとする。その票が「無効票」と判断されたとき、それは「有効投票数」にカウントされるのか。私は「選挙」にはくわしくないからわからないが、きっと自民党に有利なように解釈されるだろう。つまり無効投票に数えられることになるだろう。無効投票が増えれば、それだけ有効投票数が減る。「分母」が小さくなり、「過半数」の数も小さくなる。少ない「賛成」票で改正案が成立してしまう。改正するのに少ない賛成ですむことになる。
 また現行憲法が、この国民投票を「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」と定義している。「特別の」ということばをつかっている。ここに、とても重要という意味合いが含まれると思う。しかし、改憲草案は「特別の」を削除し「法律の定めるところにより行われる国民の投票」と変えている。「国民投票」に何があるか。いくつあるか。私は知らないが、その「国民投票」と「同列」の投票になる。「特別」ではなくなる。これも、国民の目をごまかすことにならないか。

 第2項はどうか。

(現行憲法)
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
(改正草案)
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、直ちに憲法改正を公布する。

 現行憲法の「国民の名で」と「この憲法と一体を成すものとして」が削除されている。これは、どういうことなのか。なぜ、削除したのか。
 むずかしい。
 逆に考えてみよう。現行憲法は、なぜ「国民の名で」と「この憲法と一体を成すものとして」ということばを書き込んでいるのか。そこにはどんな意味が込められているのか。これは簡単だ。
 「国民の名で」というのは、この憲法が国民のものであるという「証拠」である。所有物には名前を書く。政府(権力)のものではない。国民のものなのだ。だから、「国民の名で」というのである。
 「この憲法と一体を成すものとして」というとき、「憲法」と「何が」「一体を成す」のか。「国民」である。「憲法」は「国民」なのである。逆に言えば「国民」が「憲法」なのである。つまり、「政府(内閣、岸田や安倍、菅)」が「憲法」なのではない。
 「国民の名で」と「この憲法と一体を成すものとして」を削除したのは、「国民が憲法である」という本質的意味を否定するためである。内閣が憲法である、と主張するためである。独裁のために、「国民の名で」と「この憲法と一体を成すものとして」を削除したのだ。
 追加されたことばも重要だが、同様に削除されたことばも重要である。なぜ削除したのか。削除するとどうなるのか。そのことを考えないといけない。きのうも書いたが、繰り返し書いておく。削除には追加と同じように、そして時には追加以上に重大な意味がある。

 ここで、もう一度、映画「モーリタニアン 黒塗りの記録」にもどろう。人は行動するとき、何を自分の指針にするか。「神」という人がいるだろう。この映画ではベネディクト・カンバーバッチは「神」を信じる人としても描かれていた。一冊の本(そのなかにあったことば)という人もいるだろう。そして、その「ことば」のなかには、「憲法」もある。「憲法」を指針にして行動する人もいるだろう。たとえば、この映画では、ジョディ・フォスターが演じた弁護士は、そうである。友人・同僚との「人間関係」よりも「憲法」をよりどころとしている。「憲法」を守ることが生きることなのだ。
 日本にもそういう人がいるだろう。9条を、そして国民の権利について書かれた条項(そのことば)を指針にして、それを守るために生きている人もいるだろう。憲法は、あくまでも国民のものなのである。自民党の一部の権力者のために、憲法が変えられてしまうのは、たまらなくいやなことだ。

 

 

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