細田傳造「スザンナ、スザンナ」(「Ultra Bards」36、2021年10月31日発行)
細田傳造は何を書いている。「他人」である。そして、「他人」とは自分の中の一番遠くて一番近い存在である。と、書くと矛盾したことを書いているようだが、そう書くしかない。ことばがとどく限りの一番遠いところ、ことばがとどかないところに突然現われる「超新星」のような輝き。それなのに、ことばにした瞬間、まるで自分のなかから生まれてきたような近さ。どうしようもない。ことばにしてしまったら、存在するしかない「力」。それが、「他人」である。
「スザンナ、スザンナ」では、こう書かれている。
巴里では
五日間
スザンナに乗っかっておった
朝から晩まで乗っかっておった
スザンナは観光バスである
車体両脇に流麗な横文字Suzanna おゝスザンナ
スザンナ嬢は
われらが入間郡農協釣上支部御一行様の
貸切バスである
昼飯時にはスザンナを大通りに停めて
わしらだけでにぎやかに飯を食った
バスに戻ると
購買部長のミー坊がガイドに
女郎買いの案内を乞うている
「その森には行かないでください危険ですから」
ガイドの佐藤さんはきっぱりとミー坊を牽制
「しゅっぱーつ。ほらほら左手に有名なミラボー橋が見えてきましたよ」
有名なミー坊橋を見てみんなして笑った
有名なスケバな橋である
スザンナは今
旧区の石畳み下地の
アスファルトの轍の道を
無口になって滑ってゆく
「みなさまお待ちかねのノートルダムにもうすぐ着きます」
フランスまできて水なんか見てもしょうがあんめい
ミー坊がガイドの女性を咎めている
セーヌの水は濁っている
されどわれらの巴里は
清澄な五日間であった
長い詩(私が引用するには、という意味である)だが、全行引用した。
「他人(ミー坊)」について語るだけなら、「購買部長ノミー坊がガイドに」以降の行だけでも、冒頭に書いた「趣旨」は説明できるだろう。だが、それではだめなのだ。「購買部長」から「女郎買い」へと動いていく、その動きのぬるりとした、滑るような、とめることができない、つかむことができない動きに「他人」の本質がある、と書いても、それでは不十分なのだ。
「スケベ」ごころを抱えたまま、無口になって、ノートルダムと言われて「フランスまできて水なんか見てもしょうがあんめい」と無駄口で反論する。やっぱりフランスに来たからにはフランスでしかできないこと、フランス女を買わずにどうする、ということなのだが……。
でもね。
私は、きょうは他のことを書いておきたい。もちろん、ここに書かれている「ミー坊」こそが「他人」であることによって「細田自身」なのだが、その「ミー坊」を生き生きと動かしているのは何か、ということについて書いておきたい。
「巴里」なのだ。漢字で書かれた「巴里」はもうすでに「パリ」ではない。ことばのとどく一番遠いパリであり、「巴里」と書いた瞬間に、その遠いところが一番近くなる。パリは「巴里」だった。そして「巴里」と書いた瞬間に「巴里」になった。パリのままなら「女郎買い」ということばはやってこない。「女郎」ということばはやってこないだろう。「スケベ」も時代とともにかわる。「女郎」ということばで娼婦をもとめる人は、いまはいない。「娼婦」ということばも、もう遠いかもしれない。
「パリ」は場所だが、土地の名前だが、それは、ことばのとどく一番遠い場所だ。
ここから、もう少し考えてみる。細田は「巴里」を知っている。だから「巴里」と書けた。おそろしいことに、私たちは「知らない」ことは書けない。「知っている」ことしか書けない。つまり、「他人」を書いたつもりでも、それは「知らない他人」ではありえないのだ。どこかで「知っている人間」だからこそ書けるのだ。ここに、とんでもない「矛盾」がある。ミー坊のスケベを書けるのも、細田がスケベを「肉体」として知っているからなのだ。
しかし、「知っている」ことを「知っている」と確認する。それが、ことばなのだ。
こういうことは、書き始めると「面倒くさい」ので端折ってしまう。
「知っていることを知っていると確認する」と、どうなるか。細田は「清澄」ということばを引っ張りだしてきている。「濁り」が消えてしまうのだ。「他人」でも「自分」でもなく「人間そのもの」にもどり、うまれかわるのだ。
これは、とんでもない「まぼろし」だ。だからこそ「現実」なのだ。
ほんとうの「声」を聞いたあと、何か、自分の頭の上というか、肉体の上を、さーっと光が駆け抜けたような、風が鳥の声になって渡って行ったような感じがする。「ミー坊」の声は、「だみ声」のようにも聞こえるかもしれないが、細田がそれを語り直すとき、そのあとに残される「沈黙」は、いままで存在しなかった響きなって広がってくる。語り直されることで「清澄」が残される。
その不思議。
書き出しの四行、終わりの三行。美しいなあ。
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