詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案再読(35)

2021-11-11 10:57:36 |  自民党改憲草案再読

(現行憲法)
第87条
1 予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基いて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。
2 すべて予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。第88条
 すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。
第89条
 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
(改正草案)
第87条(予備費)
1 予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基づいて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。
2 全て予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。
第88条(皇室財産及び皇室の費用)
 全て皇室財産は、国に属する。全て皇室の費用は、予算案に計上して国会の議決を経なければならない。
第89条(公の財産の支出及び利用の制限)
1 公金その他の公の財産は、第二十条第三項ただし書に規定する場合を除き、宗教的活動を行う組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため支出し、又はその利用に供してはならない。
2 公金その他の公の財産は、国若しくは地方自治体その他の公共団体の監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対して支出し、又はその利用に供してはならない。

 第87、88条は表記の改正。第89条の改正が複雑だ。宗教活動に公金を支出してはならないという部分に「第二十条第三項ただし書に規定する場合を除き」と挿入している。「第二十条第三項ただし書」って、何?

(現行憲法)
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
(改正草案)
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」が「ただし書」にあたる。現行憲法にはなかったものを追加している部分である。しかし「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」というのは非常にむずかしい。たとえば、ずーっと問題になり続けている「靖国神社(参拝/慰霊)」。死者を悼むことは「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」と言える。しかし、死者を靖国神社で慰霊することが「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」と言えるかどうかは問題である。神道には反対という人もいれば、キリスト教徒なのに神社に奉納されるのは人権侵害だと考える人もいるだろう。宗教の問題はあくまで個人の問題(個人の尊厳の問題)であって「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」を超える。何を信じるか、それを強制することは許されない。
 第20条での「信教の自由侵害を国に認める」という条項(国が宗教を押しつけることを推進する条項)を「財政」の面から補強するのが、改正案の目的である。何をするにしても金がかかる。宗教の押しつけを金で支援するためのものである。
 靖国神社での慰霊を強化することで、「安心して国のために死んでこい」と国民を戦場にかり出すために新設された条項だといえる。
 改正草案では「事前、博愛団体」への公金支出を別項仕立てにしている。その際、現行憲法の「公」を「国若しくは地方自治体その他の公共団体」と改正し、「支配に属しない」を「監督が及ばない」と改正している。国や自治体が「監督」できるようになるのだ。「支配に属する」と「監督が及ぶ」は微妙に違う。ある団体(組織)がどこに属するかというのは、単なる「構造」である。指揮命令系統があったとしても強固ではない。監督は、組織を超えて、国・地方自治体が「監督する」ということだろう。この条項は、逆に読めば国・地方自治体の「監督(指導)」に従わないならば、公金を支出しない(支出してはならない)という具合に読み替えることができる。
 これに関連することが最近起きた。「表現の不自由展」。すでに開催が許可されたものが、名古屋市長が批判し、それに国が同調することで、認可されていた予算が撤回された。「表現の不自由展」は、直接的には「宗教」の問題ではないが、公金の支出には関係する。すでに起きていること(改正草案の先取り実施)は、憲法が改正されればさらに頻繁に起きるだろう。
 「表現の不自由展」のとき、税金が国の方針(?)批判する(反日行為)もののためにつかわれるのは許されないという声があったが、税金を支払っているのは自民党支持者だけではない。共産党を支持する人もいれば、どの党をも支持しない人もいる。
 これ戦死者の慰霊に結びつけて言えば、靖国神社に奉納されたくない人もいればキリスト教徒もいるということである。そういうことを配慮せずに「国の監督」という名のもとで、信教の自由が侵害され、しかもそこに公金がつかわれるのだ。そういうことが確実に起きるのだ。

(現行憲法)
第90条
1 国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない。
2 会計検査院の組織及び権限は、法律でこれを定める。
(改正草案)
第90条(決算の承認等)
1 内閣は、国の収入支出の決算について、全て毎年会計検査院の検査を受け、法律の定めるところにより、次の年度にその検査報告とともに両議院に提出し、その承認を受けなければならない。
2 会計検査院の組織及び権限は、法律で定める。
3 内閣は、第一項の検査報告の内容を予算案に反映させ、国会に対し、その結果について報告しなければならない。

 第90条の改正は私が何度も書いている「文体」の問題を端的にあらわしている。現行憲法は、まずテーマが「決算」であることを明確にしている。その「決算」のテーマのもとでふたつの「主語」が動く。会計検査院と内閣である。会計検査院が検査し、内閣が国会に提出する。
 ところが改正草案は「内閣は」と書き始める。内閣の仕事として、会計検査院の決算検査を受け、それを国会に提出し、承認を受けなければならない。これでは「テーマ」は「決算」ではなく、「内閣の仕事」になってしまう。この「文体」のままなら、「財政」ではなく「内閣」の章に含まれるべきものである。
 テーマを隠し、内閣(権力)を前面に打ち出す。すべてのことを内閣が「監督」する、「監督」という名の独裁をする。それが、ここにもあらわれている。
 そのことは、現行憲法の第2項が、いままで憲法に登場してこなかった会計検査院を定義するために書かれていることからもわかる。第1項だけでは会計検査院が何なのかわからない。だから、第1項を補足する形で第2項が書かれている。
 改正草案は、このあたりの「文体」がでたらめである。第1項で内閣を主語にし、第2項で会計検査院を主語にし、第3項でまた内閣を主語にしている。「文体」が統一されていない。これは逆に言えば「理念」がないということである。内閣の独裁を押し進めるために、できることだけ詰め込んでおこう、というのが改正案のやっていることなのだ。

(現行憲法)
第91条
 内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少くとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。
(改正草案)
第91条(財政状況の報告)
 内閣は、国会に対し、定期に、少なくとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。

 現行憲法にあった「国民」が削除されている。「国会」にだけ報告すればいいことになる。国民の軽視がここにもあらわれている。
 ここでは書き出しが現行憲法も改正草案も「内閣」である。これはこの条項が先に書いている「決算」の補足であるからだ。「決算」をテーマにして定義しているが、そのなかで別個、「内閣」の主語にすることで補足する必要がなるので、そういう「文体構成」になっているのである。
 これは「財政」のはじまりが、まず財政の定義ではじまり、税収、支出、つまり予算とはどういうものかを定義した後で、その予算を補足するために「内閣」を主語にした第80条が書かれているのと同じである。
 予算があって、具体的な支出があって、その検査があって、そのあとの仕事は「内閣」が報告するということ。
 「テーマ」と「主語」の明確な区別。それが現行憲法の「文体」であり、「テーマ」の強調が「これを」ということばでの重複提示スタイルなのである。改正草案は、このスタイルを「これを」削除することで見えにくくする。「テーマ」は存在しない。存在するのは「内閣」だけである、という「独裁」指向が、こういうところに隠れている。
 「文体」問題は、見逃してはいけない問題なのである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇120)Roberto Mira Fernandez

2021-11-11 09:24:16 | estoy loco por espana

Obra Roberto Mira Fernandez

 

Hay un momento, de repente, un día, en el que puedo entender todo.
(Esa puede ser mi ilusión.)

 

Los dibujos de Roberto Mira Fernández me parecieron algo lejano.

No he visto su obra de teatro, pero conozco sus poesías y sus esculturas y me encantan ellos.

Sin embargo, las pinturas son incómodas para mi. Observandolas, permanezco una extraña ansiedad.

Pero en otro dia, Roberto me dijo: "Me gusta Dalí".

"¿Es así?"  Te dije,….es decir que…..Quiero te decir que: “Ahora te entiendo ”


Tengo que mirar el espacio en blanco que rodea la "forma", no la "forma" que dibuja Roberto.

Tengo que mirar “NADA”.

Para mí, Dalí es un pintor que dibuja un espacio absoluto.

Dibuja muchas cosas, pero lo que importa no es el objeto dibujado, sino el espacio que lo rodea.

 

No dibuja la perspectiva de la vista cercana, la vista media y la vista lejana, sino que dibuja un espacio eterno. Los humanos están vivos en él.

La eternidad también significa ABSOLUTO NADA.

Hay una distancia infinita y los humanos no pueden alcanzarla. Allí los humanos están siempre solos.

Incluso si hay varias cosas, todos los humanos se sienten solos.

 

Somos impotentes para el "espacio absoluto". La solidaridad no puede llenar el espacio.

Para las dos obras subidas aquí, el espacio que las rodea me parece más absoluto que las formas (líneas) dibujadas.

Es muy difícil vivir luchando contra este espacio absoluto.

Esto se debe a que todas las perspectivas creadas por los humanos se sienten como ilusiones.

Pero Roberto siente que es una realidad, no una ilusión.

 

Tengo que mirar el espacio en blanco que rodea la "forma", no la "forma" que dibuja Roberto.

Tengo que mirar “NADA”.

 


ある日突然、ああ、あれはこういうことだったのか、と納得できる瞬間がある。

Roberto Mira Fernandezの素描は私には、何か遠いものに思えた。

芝居は見たことがないが、私は彼の詩と彫刻に親近感を覚える。

ところが、絵画はどうも落ち着かない。見ていて、妙な不安が残る。
しかし、あるとき、Robertoが「ダリが好きだ」と言った。
その瞬間に、私は「そうだったのか」と納得したのである。

私には絶対的な空間のなかで人間を描く画家である。

近景、中景、遠景という遠近感ではなく永遠の空間があり、そのなかで人間が生きている。永遠というのは絶対的という意味でもある。果てしない遠さと、いまそこにあるものだけが存在する。それは激しい孤独感と言ってもいい。

この孤独感は、たとえそこに複数のものが存在していても孤独という感じである。

私たちは私たちを存在させる「絶対的的空間」に対しては無力である、という感覚。

ここにアップしたふたつの作品も、描かれた形(線)よりも、その周辺にある空間の方が、私には、絶対的なものに感じられる。

この絶対的な空間と戦いながら生きていくのは、非常に厳しい。
人間がつくりだす遠近感はすべて幻のように感じられてしまうからだ。

しかし、見なければなさらないのは、その「空間」としての「無」なのだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする