サラマーゴの文体、時制の選択
きのう書いたことのつづき。
サラマーゴは突然あらわれた女(私は、「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」といった女が「生まれ変わった」姿として読んだ)が放火するシーンは現在形で書かれている。
私が感動したと紹介した部分(228ページ)、女が「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」と言った部分からはじまる文章さえ、
la mujer habló, A donde tu vayas, ire yo
女は言った(habló)、「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」と過去形で書かれている。聞いた眼帯の老人も、
El vieno de la venda negra sonrió
黒い眼帯の老人は笑った(sonrió)と、その反応を過去形で書いている。
そういうことを理解すると、放火シーンがなぜ現在形なのかがわかる。
さらに、生々しさだけで言うなら、医師の妻たちが強姦されるシーンはどうか。210-211ページ。
La mujer del medico se arrodilló
医師の妻はひざまずいた(se arrodilló)
やはり過去形なのだ。なぜ、生々しいシーン、そこれこそスケベごころを刺戟するシーンが過去形なのか。ここが現在形で書かれていたら、私なんかは、スケベだからもっと興奮する。若いときなら勃起したかもしれないし、オナニーをするために読み返したかもしれない。
だが、そんなところ(描写)はサラマーゴにとって重要ではなかったのだ。こんなところで、思春期の少年が興奮するように興奮してもらっては困るのだ。人間の「本質」とは関係がないのだ。「生きる」ということとは関係がないのだ。
この小説の中に、女は何度でも生まれ変わる、というようなことが書いてある。(サングラスの少女が言う。)「生まれ変わる」瞬間、新しい自分が生き始める瞬間、それは絶対に「過去形」ではないのだ。こういうことこそが、「文体の思想」である。ことばは、その人が到達した思想の到達点を示すといったのは、誰だったか。三木清だったか。
そうした「思想としての文体」を訳出しない限り、それは翻訳とは言えない。
私はポルトガル語ではなく、Basilio Losadaという人が訳したスペイン語版を読んでいるのだが、ポルトガル語とスペイン語は姉妹言語だから、翻訳するときに「時制」を変えるということはしていないだろう。サラマーゴの「文体」は正確に踏襲されているはずである。
意味というのは「ことば(単語)」のなかにあるのではなく、「文体」のなかにある。それは、そして「名詞」のなかにあるだけではなく、「動詞」のなかにこそあるし、その「動詞」は「時制」という複雑な「味」を持っている。これを読み取ること、味わうことが文学の楽しみだと私は思っている。