徳永孝「空のくじら」、緒方淑子「知らず」、青柳俊哉「未知は寂しく」、池田清子「比較」(2021年10月1 8 日、朝日カルチャーセンター福岡)
カルチャー講座受講生の作品。
空のくじら 徳永孝
夜空に一頭の大きなくじら
キラキラした明かりをまとい
ゆったりと泳いでいく
通り過ぎた後には星屑の航跡
くじらが潮を吹くと
空気がふるえる
飛び跳ねると
世界が揺れる
空には月や惑星もすい星の星々
見てまわるのは楽しいだろう
時にはオールトの雲まで
遠出するのもいいかもしれない
でも少しさみしそう
くじらさん、君はひとりじゃないよ
世界のあちこちで夜空を見上げ
君を探している視ている人達がいるよ
それでも やっぱり
仲間に会いたいかのなあ
くじらの心は
わたしにはわからない
ここに書かれているのは、一義的には「空を飛ぶくじら」。その「空を飛ぶくじら」を書かせているものは何だろう。受講生の間から「孤独」ということばが何度か出てきた。「仲間に会いたいのかなあ」という最終連の一行を手がかりにすれば、くじらが孤独、ということになる。「さみしそう」ということばも、それを裏付ける。
そこから、少し進んでみたい。
「書かれている何か」があるとき、それを「書いている人」がいる。「書かせている何か」と言い換えることもできる。
「くじら」は四連目で「君」と言いなおされている。そして、「君を探している視ている人達がいるよ」ということばがつづく。「君を探している視ている人達がいる」とは誰だろう。私は、問いかけてみた。「さみしさを理解している地上の人達」という答えが返ってきた。そこで、私はもう一度問いかける。そこには作者は含まれるか。「含まれる」。
ここからである。
詩では「人達」と書かれている。複数。だから、どうしても多くの人のことを想像するのだけれど、ほんとうにそこには多くの人がいるのか。くじらが作者の「空想」(幻想)であるように、「人達」も空想、幻想かもしれない。つまり、はっきりしているのは、「人達」に作者が含まれるということではなく、逆に、作者が「人達」を含んでいる。「人達」ということばに誘われて、読者は「人達」のなかのひとりにすーっと入っていくことができる。徳永に感情移入し、徳永と一体になるより先に、自然に「人達」の一人なって夜空を飛ぶくじらを見上げることになる。自分の見たかったのは、空飛ぶくじらだったと気づくことになる。そのあとで(といってもほとんど同時だが)、読者は徳永になってしまう。
それから私はさらに聞いてみた。「さみしそう」ということばが出てくるけれど、「さみしそう」と「分かる」のは、どういうとき? もちろん、その人の様子がいつもと違うからだが、それが分かるのは「さみしい」ということを読者が理解しているとき。喜びのさなかに、隣にいる人が「さみしそう」と感じるときもあるかもしれないが、自分が「さみしい」ときの方がより静かな感じて「さみしさ」がわかるだろう。少なくとも「さみしい」という気持ちを味わったことがない人には「さみしそう」はわからない。
そうであるなら。
「仲間に会いたいのかなあ」という気持ちも「仲間に会いたい」という気持ちを味わったことがある人にしかわからない。空飛ぶくじらを見ながら「楽しいだろう」と思う一方で「仲間に会いたいのかなあ」という気持ちを想像するのは、徳永のこころのなかに「仲間に会いたいのかなあ」という気持ちがあるからだろう。
「くじらの心は/わたしにはわからない」のと同じように、人間には自分自身の「心は/わからない」。自分のことだからわかっているつもりでいるが、よく考えるとわからない。一人で夜道を歩き、空を見上げる。くじらが飛んでいる。そんな空想を持ってしまうのは、自分がさみしいからだろうか、仲間に会いたいからだろうか。それとも最初に出てきたように宇宙を見てまわるが楽しいからだろうか。
わからない。
わからないことを、どう書くか。これは、とてもむずかしい。徳永は、なんでもないことのように、
君を探している視ている人達がいるよ
と書いている。まるで客観的な事実のように。しかし、これもまた「空想」である。しかし、その空想は強い想像力に支えられている。この一行に、徳永の「孤独」があふれている。もし、だれかといっしょに「空飛ぶくじら」を見ることができたなら。その人が自分と同じ「孤独」、そしてくじらと同じ「孤独」を生きているだろう。「人達」の「達」のひとことは、とても重要である。孤独とは孤立したものである。しかし、孤独は孤独と共存し、呼びかけあっている。
この詩には、その孤独の「呼びかけ」がある。
*
知らず 緒方淑子
今朝の金木犀を撮って
誕生日の娘におくる
白く映る空
青く撮れば雲は羊に
往きに忘れた花のなまえ
帰り道 気付く 花のなまえ
わたし金木犀すきよ、ありがとう
知らず
10月になれば香り咲いていた花の
27年目の歳月を覚えた
「白く映る空/青く撮れば雲は羊//往きに忘れた花のなまえ/帰り道 気付く 花のなまえ」という行が印象的だという声。受講生は「最初、意味が入ってこなかった。ことばにして綱気ようとしていないところが新鮮」とつけくわえた。最終連の「知らず」という単独のつかい方にもおどろきの声があった。どちらも「散文」になっていないという指摘だと思う。「今朝の金木犀を撮って/誕生日の娘におくる」という書き出しの二行に「主語(私)」は書かれていないが、私が娘に金木犀の写真を撮って送った、ということがすぐにわかる。しかし、「白く映る空/青く撮れば雲は羊」はいろいろなことばを補わないと散文(意味の連続)にならない。
どういう状況だと思う?
金木犀を撮るとき、空がまぶしくて白く見えた。でも空だけ見つめると、空は青くて白い雲が羊に見えた。最初に見えた「白」はこの雲ではなく、光全体の印象。
作者の緒方に、確認する。そういうことですか? そうです。
散文でなくても、ことばを追いかけていくとき、私たちは無意識にいろいろなことばを補っている。その補ったことばを、ふつうはわざわざ口にしないが、口にしないまま納得している。そのときの「意識の飛躍」というとおおげさかもしれないが、意識の切断と持続の自由な感じのなかに「詩」というものがあるかもしれない。
「往きに忘れた花のなまえ/帰り道 気付く 花のなまえ」には意味と同時に「リズム」がある。対句形式がそれを支えている。それも、自然に詩を作り上げる。
最終連の「知らず」には、ふたつの意味がある、と緒方は言った。
そのことと関係するのだが、直前に出てくる「わたし金木犀すきよ、ありがとう」の「わたし」とは誰なのか?
「メールで写真を受け取った娘」「えっ、作者じゃないの? 作者が金木犀に好きよと言ったら、金木犀がありがとう、と答えた」
緒方の意図は、前者。娘が金木犀が好きだったということを知らなかった。ここに金木犀があるということを知らなかった。27年も。
でも、そういう作者の意図を超えて、金木犀と対話している、と読むのは楽しくないですか? 連歌(連句)では、先に書かれた句の意味をあえて「文脈」から解放し、別の「文脈」へ引き継いでいくが、それは詩を読むときだって、そうしていいのだ。もちろん作者には作者の「意味」があるが、読者は読者で自分自身の「意味」を抱えて生きているから、他人のことばを自分の「意味」に置き換えて読む。
それは、間違い?
学校のテストなら、「間違い/正しい」は「採点」のために設定されるだろうけれど、詩を読むのは試験を受けるわけではない。自分のことばを豊かにするためだ。どこまで自由に考えることができるか。感じることができるか。考えや感じを繰り返し、自分がかわっていければいい。成長か、後退か。そういう「価値」は与えずに、あ、こんなことも感じることができる、考えることができると楽しめばいいと思う。
最初に読んだ徳永の詩。徳永には徳永の「意味」があるようだが、それはあえて説明してもらうのを避けた。作者の思いを知ることも大事だが、それよりも自分の考えことばにすることが大事だと私は考えている。
この講座では、谷川俊太郎やその他の詩人の作品も読むが、そのときも、「意味/正解」を求めるのではなく、むしろ、どうやって「間違い」を広げていくかを中心にことばを読んでいる。どれだけ「間違い」を繰り返しても、だれの迷惑にもならない。特に、講座に同席しているわけでもない谷川や他の詩人の作品は、どんなふうに読もうと谷川に聞こえないわけだから、まったく自由。ほめるのもいいが、けなすことも大事。ことばは悪口を言うためにもある。
脱線した。
*
未知は寂しく 青柳俊哉
未知は寂しく
蒼穹の朝が 深くさけるように冴えわたって
鳥の声が絶える
人のうまれる朝があり 鳥のしぬ朝がある
いのちと隔絶しているために
朝はみちたりていた
空を切るようなモズの声に 水仙の花が散りこぼれる
蠅のように頭上を打つ 雨の羽音がまぶしい
すべての空が 人に親しいのではなかった
光が打ちよせて 明日の鳥がうまれる前に
みしらぬ空に 名を与えねばならない すべての朝に
隔絶する 蒼穹を打ち立てねばならない
「魅力的なことばが多い」「対比が美しい」。具体的にはどのことば? どの行? 魅力的とか、美しいとか、感動したというのは、詩を読まなくても言える。そうではなくて、具体的に言ってください。「空を切るように…の行」「すべての空が…の行」「最後の二行」
「でも、いのちと隔絶しているために/朝はみちたりていた、がわからない。いのちと隔絶していても存在しているのだろうか」
「前の行に生まれる、死ぬが出てくる。生死は必ずやってくる。すべてを含んでいるということが満ちているということでは?」
「隔絶」している、を別のことばで言いなおすと? 自分のことばで言いなおすと?
「隔たっている」「たどりつけない」
隔絶している、隔たっているというと、ふつう平面的な距離を思い浮かべるけれど、垂直だと、どういうかな?
「やっぱり隔絶している」
超越とか、超絶ということばはどうかな? 前の行の「うまれる」「しぬ」。それを超越した世界。いのちある人間や鳥は、生まれて死ぬ。朝の光も夜には消えるけれど、人間や鳥と違って、いのちが消えるわけではない。人間や動物のいのちを超越したものを朝の光は含んでいる。宇宙の運動ということかもしれない。いわば朝の光は、人間が生まれようが死のうが関係なく存在している。そういうことを「満ち足りている」と言っているのではないだろうか。「すての空が 人に親しいのではなかった」という一行も、そういうことをあらわしている。「親しい」の反対は親しくない、情がない、非情だに通じる。漢詩の世界のように、朝は「非情」なのである。
この「みちたりている」は、「死ぬのにみちたりている、というのは変」と論理的に読むと、きっと「変」なまま。「みちたりている」は、ことばを言い換えて「意味」をつかまえないといけない。辞書に書いてあるような「意味」だけではなく、作者がそのことばに込めようとしているものを読み取る。詩のことばは、日本語だけれど、日本語ではなく、それぞれ個人の「固有の言語」。ここは「青柳語」で書かれている。矛盾した形でしかいえないことが書かれている。
「方丈記」に、あした生まれ、夕べに死ぬ、というようなことばがあるけれど、そういうものを超越して、「朝」がある、それは自己完結している(足すものがない)から「みちたりる」という動詞をつかったのではないだろうか。二連目で「鳥がしぬ」と書き、四連目で「鳥がうまれる」と書く。これも矛盾というか、前に書いたことと齟齬があるけれど、そういう矛盾・対比が、この詩に力を与えている。それが簡潔にあらわされているのが二連目だと思う。
青柳は「蒼穹」ということばは古すぎ、強すぎるので、「蒼穹」と「青空」とどちらをつかうか迷ったが、宮沢賢治の詩にもつかわれているのでつかったということだった。
「青空」でも「意味」は違わないのかもしれないが、音から受ける印象は全く違う。詩を書くときは、リズムや音の響きも重要。この詩の場合「青空」あるいは「青い空」では響きが柔らかくすぎるという声が占めた。私もそう思う。
また受講生が指摘したが「蒼穹」の「蒼」には「暗い」という意味があり、それが「寂しい」ともつながる。
最終連で繰り返される「ねばならない」という強い響きにも「蒼穹」の方が似合っていると思う。
*
比較 池田清子
人と比べないことは
いいことだと思っていた
自分の中に入り込むと
人のことはどうでもよかった
視界はとても狭かった
しかし 中学高校では
学校側が人と比べてくる
一喜一憂してしまった
勉学以外では まだ
周りを全く見ていなかった
大人になって やっと
比べることは良いことだと思った
小さい時から もっとしっかり
見つめ 見渡し 気づいていたら
どんなに世界が広がっていただろう
自分がわかる
他人も 社会も見えてくる
年を重ねた今も
しっかり比べている
落ち込んでいる
「意味」にとらわれる意見がつづいた。「他人の見方が自分を広げてくれるから、比較は悪いことではない」「共感する」「学校の先生には、比較するな、と言われた」「ひとではなく、野生の動物の行動を見て、自分を振り返るときがある」
私が問いかけてみたのは四連目の「わかる」とはどういうことだろうか。「見える/見えない」とどう違うんだろうか。「わかる」を自分自身で言いなおすと、どういうことばになる? 「自信が出てくる」「自由になる」「環境に慣れる」
「最後の一行は自分を卑下しすぎている」という意見もあった。では、どう書き換える? これは、なかなかむずかしかった。「ケ・セラ・セラ」ということばが出てきたが、やはり「意味」のつづきのような気がする。 谷川俊太郎なら、どう書くと思う? 「まったく違うことばを書くと思う」「そうですね、谷川の詩は、最後に全然関係ないようなことばが突然出てくることがあるね」。
答えは必要はない。
ただ、書いている詩が行き詰まったとき、他人ならどう書くかなあと知っている詩人を思い浮かべてみるのもいいかもしれない。
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