「常識がない(知識がない)」という批判は、意味がない。だれもが自分を基準にして世界をみているだけだからである。
考えるか、考えないかが問題である。
正しいか、間違っているかも問題ではない。
考えなくても「正しい」ことを言うことができる。借りてくればいい。でも、それはそのひとが考えたことではない。
借りてきたことばを話しているひとと対話するとき、いったい、私はだれと話しているのだろうか。目の前のひとが。それとも、その背後にいる「正しいことば」を語る別のひとだろうか。
どんなに「正しい」ことでも、伝達の途中で変わってしまうことがある。「間違い」になってしまうことがある。もしかすると、そういう「間違い」を語る人の方が、考えているかもしれない。考えたから、他人のことばをそのままそっくり語ることができないのだ。自分の考えがまぎれこむから「間違い」が生まれる。「正しい」と違ったものになってしまう。
考えるか、考えないかが問題である。
正しいか、間違っているかも問題ではない。
考えなくても「正しい」ことを言うことができる。借りてくればいい。でも、それはそのひとが考えたことではない。
借りてきたことばを話しているひとと対話するとき、いったい、私はだれと話しているのだろうか。目の前のひとが。それとも、その背後にいる「正しいことば」を語る別のひとだろうか。
どんなに「正しい」ことでも、伝達の途中で変わってしまうことがある。「間違い」になってしまうことがある。もしかすると、そういう「間違い」を語る人の方が、考えているかもしれない。考えたから、他人のことばをそのままそっくり語ることができないのだ。自分の考えがまぎれこむから「間違い」が生まれる。「正しい」と違ったものになってしまう。