詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

稲川方人「自由、われらを謗る樹木たち、鳥たち」

2022-07-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)

稲川方人「自由、われらを謗る樹木たち、鳥たち」(「イリプス」37、終刊号、2022年07月10日発行)

 稲川方人「自由、われらを謗る樹木たち、鳥たち」をどう読むべきか。その一連目。

あなたの掌を解き、
握られた紙片をふたたび世に戻すと
陽の翳りに、遠く生き急いだ命の数々が
短く在ったみずからの声の幸福を響かせている
ラジオの鳴る冬の縁側に
一旦はただ人として座ったあなたが
郵便配達人の自転車を待つ間
その数日の間に、
わたしは僅かな未来へとあなたの遺志を繋げるために、
蒼空の幼い階音(はるもにあ)を聴き続けた

 うまいないあ。でも、うまければいいのかどうか、よくわからない。なぜ、うまく感じるか。ことばの「呼応」がしっかりしているからだね。しっかり呼応し、しっかり完結している。
 問題は、そのあと。
 いまどき「ラジオの鳴る縁側」って、いったいどこにあるのだろうか。「いま」ではなく「記憶」を書いていると言われればそれまでだけれどね。 
 同じことは「郵便配達人」「自転車」。自転車に乗った郵便配達人というのは、いつまでいただろうか。いまも、いるかなあ。
 なんだか志賀直哉よりももっと前の、昭和初期、大正末期の短編小説みたいだなあ、と思う。母を思う子供のきもち、がテーマなんだろうけれど。
 
 それから。

 私は困惑してしまうのだ。一連目の緊密な「呼応」が二連目では「すかすか」になる。
 「合理の生」とか「永遠精神」とか。
 とくに「合理の生」は二度出てくる。
 稲川の意識のなかでは「意味」があるのだろうけれど、何のことかわからない。稲川の詩には、どこか「出自」のわからないことばがあって、その出自をわかる人だけが読めばそれでいい、という開き直りのようなものがある。
 まあ、いいけれど。
 でもね、それって結局、生きている「肉体」の否定にならないか、と私は問いたいのである。
 ことばにはことばの肉体といのちがある。その肉体といのちを稲川は引き受けている。そう開き直られれば、私は単なる「反知性主義(これでよかったかな? 何度か、こんなふうに私は呼ばれたことがあるような記憶があるが、何といってもそんなことばを日常的につかうひとが私のまわりにはいなのので、ことばが私の肉体にまでしみこんでこない)」ですと引き下がるしかない。
 こんな詩、いやだなあ、と聞こえるように言いながら。

 

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Borja Trénor Suárez de Lezo

2022-07-21 15:30:20 | tu no sabes nada

 

Borja Trénor Suárez de Lezo のアトリエを訪問した。
有名な画家の作品がいっぱい。大好きな彫刻家の作品もたくさんある。
写真に撮ろうとしたら、「それは撮らないで」。
「君は私の作品を見に来たのかね、他の人の作品を見に来たのかね」
私は最初の計画はすぐに忘れてしまう人間のようだ。
私はもともと写真で記録するより、目の記憶を信じる人間だけれど、あまりの感激に頭が混乱しそう。


            
La visita al estudio de Borja Trénor Suárez de Lezo.
Hay muchas obras de pintores famosos. Incluso muchas obras de mi escultor favorito.
Cuando intenté hacerles una foto, me dijo que NO.
"Has venido a ver mis trabajos, o las de otros artistas?
Me parece que soy una de esas personas que olvidan rápidamente el plan inicial, cuando veo las cosas inesperadas.
Soy una persona que confía en la memoria de mis ojos más que en la  fotográfica, pero estoy tan impresionado que mi cabeza parece confundirse.
ボルハの自宅にも招待された。私の好きな画家の絵もあった。名前は出せないが、思わず「これ、本物?」と聞いてしまった。自宅訪問というより、美術館訪問。ここでも、私はボルハの作品ではなく、他の人の作品に目を奪われてしまった。写真は撮ってもいいが、公開するのはダメ、と念を押された。

También me invitó a su casa. Hay cuadros de mis artistas favoritos también. No puedo mencionar su nombre, es secreto. Entonces no pude evitar preguntarle a Borja: "¿Esto es original?" Fue más bien una visita a un museo que a una casa indvidual. Una vez más, mis ojos no se fijaron en la obra de Borja, sino en la de otros. Me dijo de nuevo que podía tomar fotografías, pero no mostrarlas al público.

 


Borjaは映画関係の仕事をしていたので、アトリエにはディレクターズ・チェアや映画でつかった有名画家の作品もあった。サインに「Borja」の名前が見える。Borjaに献上したのだ。
映画の話をしたとき、ビスコンティが素晴らしい、で意見が一致。「家族の肖像」「ベニスに死す」と話題が広がり、
「私はベニスに行ったことがない」
「ベニスを知らないなんて、、、」
それから、Borjaの体験した素晴らしい一夜のことを聞いた。
誰もいない夜のサンマルコ広場。
妻と二人で歩いていると、バイオリンの調べ。
二人だけで踊った。
ああ、まるで映画そのもの。
そういうことを本当に体験する人がいるのだ。

           
Borja trabajaba en el cine, por lo que en su estudio hay una silla de director y obras de pintores famosos utilizadas en las películas. En la obra puedo ver el nombre "Borja", esa obra fue dedicada a Borja.
Cuando hablamos de películas, coincidimos en que Visconti es excelentisimo. La conversación se centró en “Retrato de familia” y “Muerte en Venecia”.
“No he estado en Venecia todavia”.
“No puedo creer que haya una persona que no conozca Venecia".
Y me contó de una noche maravillosa que había vivido Borja.
“La plaza de San Marcos por la noche, no había nadie…..”.
Mientras él y su esposa caminaban solos, escucharon el sonido de los violines. Bailaron, la pareja sola.
Ah, como es la hermosa película.
Hay personas que realmente tenían experiencia esas cosas.


   
   
肝腎のBorjaの作品。
アトリエで見た1枚の絵が忘れられない。無彩色で構成されたとても静かな絵だ。
孤独が向き合っている。孤独の背中(頭)と孤独の顔。どんなことばが交わされているのか。ことばは必要ないかもしれない。ことばを交わさずとも、互いの感じていることはわかる。
周囲のにぎやかさから離れて、部屋の隅で呼吸している。
Borjaの周囲にある作品は、彼の社交のようににぎやかだが、Borja自身はそのにぎやかさのなかに染まってしまわずに、自分を守っているという感じがする。
そんなことを感じだ。

El trabajo de Borja.
No puedo olvidar un cuadro que vi en su estudio. Es un cuadro muy tranquilo compuesto por colores acromáticos.
La soledad es enfrentarse. La espalda (cabeza) de la soledad y la cara de la soledad. ¿Qué palabras se intercambian? Las palabras pueden no ser necesarias. Aunque no intercambien palabras, saben lo que siente el otro.
Esta obra respira en un rincón de la sala, alejada del bullicio de su entorno.
Las obras que rodean a Borja son tan animadas como su vida social, pero tienen la sensación de que el propio Borja. Se protege si mismo puro.

 

 

 

車でホテルまで送ってもらうとき、こんな話をした。
スペインには偉大な彫刻家が3人いる。「〇〇と〇〇と、Joaquinだ。私のなかでは、Joaquinがいちばんだ」
ここでJoaquinの名前が出てくるところが、うれしい。すでに書いたが、私はJoaquinの作品に出会うことで、次々にスペインのアーティストに出会った。いわば、彼の作品はスペインアートの入り口である。
「画家も3人。〇〇と〇〇と、あとひとりが名前を忘れてしまった」
「あ、知っている。ナンバーワンはBorjaだ」
それから、病気だとか、手術だとか、年齢の話をした。
私のほうが2週間ほど年上とわかった。「私の方が年上なんだから、君は私を尊敬すべきだ」という減らず口をたたいて別れた。
Borjaの包容力は、私をリラックスさせる。
                       
Mientras me llevaba al hotel, tuvimos esta conversación.
“Hay tres grandes escultores en España.: **,** y Joaquín. En mi opinión, Joaquín es el major, mi buen amigo". Me alegro de que el nombre de Joaquín se menciona Borja.
Como ya he escrito, la obra de Joaquín me llevó en el mundo de artistas españoles. Su obra es la puerta de entrada al arte español.
“Pintores:**, ** y uno más cuyo nombre no viene en mi menta".
“Oh, yo lo sé.  Es Borja y el número uno es Borja”.
Entonces hablamos de nuestras enfermedades, de operación, de edades.
Notamos que tengo unas dos semanas más mayor que él. Pore so le digo a Borja: "Soy pobre, pero soymayor que tú, deberías respetarme, jajaja".
La receptividad de Borja me relaja.

 

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安俊暉『武蔵野』

2022-07-21 00:01:29 | 詩集

安俊暉『武蔵野』(思潮社、2022年05月17日発行)

 安俊暉『武蔵野』は短いことばがつらなっている。28ページに、こう書いてある。

古里の
葦の葉
急ぎ揺る
われ
君に会いてのち
揺るごと

君に会いて
のちより
古里の
葦の葉の
急ぎ揺る

 最初の連と次の連とどこが違うのか。どちらかひとつでいいと思うが、安は一方を削除するのではなく、両方を残している。
 55ページは、こうである。


生けし花
山ごぼうと
すみれ
小ビンの
中に


生けし
野菊
小ビンの中に
また
小さく

 何にこだわっているのだろう。83ページから84ページにかけて。

無花果
伸びゆく
幾度かの
思い
重ねつつ

幾度かの
思い
重ねつつ

無花果の葉
散りゆく

 「思い/重ねつつ」が繰り返される。あ、安は繰り返すことで「思い」を重ねているのだ。「重ねつつ」あるのだ。この「つつ」が安のことばの動きの基本なのかもしれない。思いを重ねるけれど、重ねておしまいではない。重ねつづけるのである。「つつ」は「しながら」という意味を持っているが、それはある動詞に別の動詞を重ねるということだろう。そうやって少しずつ動いていく。
 これは詩というよりも、小説のことばの動き方だろうと思う。
 安は瞬間を書いているのではなく、変化していく時間を書いている。しかも、それは激しく変化していくというよりも、どこが変化したのかわからないような、けれど、振り返れば「変わった」としか言いようのない動きである。たぶん、それは安には切実に、くっきりと見える。そして、私には、くっきりとは見えない。ああ、また繰り返しかと読んでしまう何かなのだが、私はここでは、その見えない何かを明確にしたいときは思わない。不明確なまま、そういう動きがあるということだけを見つめていたい。
 他人のことは、わかるはずがないのである。そして、わかるはずがないにもかかわらず、わかってしまうものなのである。そして、その「わかった」は強引にことばにしてしまうと、たぶん、私の「結論」の押しつけになってしまう。安が書こうとしている、「書けないもの」とは違ってしまう。
 書いているが、「書けないもの」がある。その「書けないもの」が、少しずつ重なって何かになるのを、ただ、見つめていればいいのだと思う。

カボチャ花
黄の
安らぎてある
午前
君と別れゆく

カボチャ
初花の
黄の
昼またず
しぼみゆく

 「午前」を「昼またず」と言い直している。ここに、何か、切実なものがある。ここには「重なり」ではなく「ずれ」がある。「午前」と「昼またず」は「意味」としては同じかもしれない。つまり、たとえば「午前10時」という意味では同じかもしれない。しかし、それは「午前」なのか「昼またず」なのか。「またず」のなかに、時間の長さへの切望がある。
 191ページから192ページ。

君来れば
時現れる

君と
語りをる
時重なりて
無限となる

 「思い/重なりて」が「時重なりて」に変わる。「思い」は「時」のことである。「時」とともにあり、「時」ともに変化していく。そして、その「変化」のなかに「無限(永遠)」がある。
 安がことばを動かすのは、その「無限」へ向かってのことなのである。

鳥の声
君と僕の
位置

その都度
新しき

積み重なりて
来る


終わることなく
四十雀
またくる

 「くる」「時」を、受け止めるための詩なのだ。

「つつ」と「て」の使い方について、書いてみたい衝動に私はとらわれているが、長ったらしくなりそうなので、その使い方に安の「思想/肉体」を感じたとだけメモしておく。

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石毛拓郎「車夫のことばで書け!」

2022-07-20 14:59:04 | 詩(雑誌・同人誌)

石毛拓郎「車夫のことばで書け!」(「潮流詩派」270、2022年07月10日発行)

 石毛拓郎「車夫のことばで書け!」は魯迅の「小さな出来事」に関する感想(批評)である。私は、魯迅の作品の中で、この作品がいちばん好きである。その好きな作品を石毛が取り上げて書いている、と書いただけで、私は、石毛の文章への感想を書いた気持ちになってしまう。あ、石毛も、この作品が忘れられないのだ、と思うと、それだけで石毛を信頼できると思うのである。

 魯迅は、ある日、人力車に乗る。急いでいる。街角で、老婆と人力車がぶつかる。老婆はケガをしているようにはみえない。老婆をほっぽりだして、そのまま走ってくれ、と思う。ところが車夫は老婆を助け起こし、なんと派出所へ「事故届け(?)」に行く。そのときのことを書いている。
 私は、この作品を読み、はっとした。
 私は魯迅のような金持ちではない。貧乏農家の生まれである。特権意識というものはない、と思っていた。しかし、この「小さな出来事」のようなことはなくても、ときどき「わがまま」になる。
 たとえばバスのなか。年取った老人が、なかなか料金を払えずに、手間取っている。「乗る前にちゃんと準備しておけばいいのに……。映画がはじまってしまう」というようなことを思ってしまう。どこかで「傲慢」が顔を出してしまう。そんなに映画の開始時間が大事なら、私がもっと早く家を出発すれさえすればいいだけなのに、である。
 でも、それができない。
 そして、いらいらしてしまう。
 魯迅は、この出来事の最後の方で、警官にお金を渡してしまう。これは、たとえて言えば、なかなか料金が払えない老人に代わって、硬貨を料金箱に入れてしまうような行為に似ているかもしれない。私はそこまではしたことがないが、ときどき「お金は私が払うから、早く下りてください」という気持ちになることがある。いらいらしていると、とんでもないことを考えてしまうのである。
 これを、どこまで正直に書けるか。

 私が魯迅から学んだことのなかで、いちばん大事なのは、この「正直」である。
 目の前で何かが起きる。そのとき、自分のなかにあるいろいろな要素(?)、たとえば年齢だとか、年収だとか、身分だとか、欲望とか、その日の計画とか、そういうものを完全に捨てて、ひとりの人間として、向き合えるか。いや、年齢とかあれこれを気にしてもいいのだけれど、気にしながら、それを捨てて、ひとりの人間として、出来事に向き合えるか。「正直」になれるか。
 「正直」というのは、素裸になれるか、ということでもある。
 そして、このときの「素裸」というのは、ちょっと、むずかしいが、その人の、そこにいる「立場」に忠実であるかどうかということなのだ。
 この作品のなかで、車夫は、車夫であることを守り通す。今で言えば、タクシードライバーになるのだと思うが、その仕事をしている限り、その仕事を通してまもらなければならないものがある。事故を起こしたら、被害者を最優先にする。事故を起こしたことを、きちんと警察に届ける。それが、車夫の場合の「素裸」ということが。職業と自己を正確に結びつけ、その仕事によって自己を存在させる。

 ちょっと脱線して。

 日本国憲法に「公共の福祉」ということばがある。車夫のとった行動は、この「公共の福祉」に合致するものである。それは魯迅の「利益」には合致しない。魯迅がどんなにえらい人間であろうが、「魯迅個人の利益」よりも「公共の福祉」を優先する。事故が起き、ケガをしているかもしれない人がいれば、まずその人を助ける。事故がどのようにして起きたか報告し、事故が起きないようにする。車夫がそこまで考えていたかどうかわからないが、私は、そう考えるのである。
 ここから自民党が2012年の改憲草案で「公共の福祉」ということばを削除し、「公の利益」ということばに置き換えたことも思い出したりもする。自民党は「利益」を考えるが、「福祉」を考えない。

 「正直」に話をもどすと。
 魯迅は、このとき、「魯迅の正直」が「車夫の正直」に完全に負けた、ということを自覚したのだ。「正直さ」において、魯迅は車夫よりも劣る、と自覚したのだ。
 世の中には「正直」なひとがたくさんいる。そのひとたちは「正直」ゆえに、ときとして貧しい生活をしているかもしれないが、「正直」の豊かさは魯迅よりも上回っている。
 この「豊かな正直」に向き合うために、何をしなければならないか。その「豊かな正直」が「豊かな正直」でありつづけるために、魯迅自身はどんな仕事ができるのか。魯迅は、それを考え続けた人間だと思う。
 「正直」は、ときには、とても不思議な形をしてあらわれるときがある。「正直」がきづついてあらわれることがある。「狂人日記」や「阿Q正伝」は、そういう作品だと思う。ひとは「正直」しか生きられないのである。

 これでは石毛の書いた批評(感想)への感想になっていないなあ、とも思う。思うけれど、こういう感想しか私には書けない。
 私は魯迅の「小さな出来事」が大好きである。それを読んだとき、私が何を思ったか、それからその思いをどんなふうにいまとつなげて持ち続けているか、ということを書くことが石毛の書いた文章への感想になると思う。
 石毛の文章が、魯迅の執筆活動全体と把握しながら「小さな出来事」をとらえ直しているとか、「小さな出来事」を通して魯迅の精神の変化を克明に浮き彫りにしているとか書いてみたって、そこには「うそ」が入ってしまう。私は魯迅は大好きだが、大好きだからといってその作品を全体を把握しているわけではない。何かそういうことを書こうとすれば、そこに「他人のことば(既存の魯迅への評価)」というものがまぎれこんでしまう。それは私の考えている「正直」とはかなり違う。
 だから、最初に書いた感想に戻るしかないのだ。
 私も、石毛同様に(ほんとうは「同様」ではないかもしれないが)、この作品が大好き。この作品が好き、この作品について何か書いているというだけで、私は石毛を信頼する。石毛と私の考えていることは、「同様」どころか、完全に違っているかもしれないけれど、それは気にしないのだ。違っていたとしても、「小さな出来事」を読み、読んだ以上は何か書かずにいられない、ということが一致しているなら、それで十分なのだ。

 もうひとつ、ぜんぜん違う話をつけくわえておこう。
 私はスペインを約一か月旅行した。好きなアーチストの彫刻を絵を見てまわった。その過程で、ある友人の作品について別の友人と話す。そのとき、「あの友人の、あの作品が好き」ということで、ふいに意見が一致するときがある。この瞬間、なんだかとても幸福な気持ちになる。私がその作品をつくったわけでもないのに、私がつくった作品のように自慢したくなる。それは話し相手も同じ。それがわかった瞬間の幸福とでもいえばいいのかなあ。

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Antonio Pons

2022-07-19 00:13:04 | tu no sabes nada

 

Antonio Pons のアトリエを訪問。
彼の作品をみて、すぐに思い浮かぶことばは「ソフィスティケート」である。
形にむだがなく、どのラインにも迷いがない。シンプルなのに、それが何をあらわしているか、すぐに想像できる。造形が、抽象と具象のあいだを素早く行き来している。
あまりにシンプルなので、もしかすると私にもつくれるかな、と思ってしまう。つくってみたい、という誘惑してくる。

Visito al estudio de Antonio Pons.
La palabra que viene inmediatamente a mi mente al ver su obra es "sofisticación".
No hay desperdicio de forma, ni vacilación en ninguna de las líneas. Es simple, pero es fácil imaginar lo que representa. Las formas se mueven rápidamente entre la abstracción y la figuración.
Es tan sencillo que me hace preguntarme si seré capaz de hacerlo. Me tienta querer hacerlo.

しかし、フェイスブックの写真で見るのと実際はまったく違う。
繊細でソフィスティケートされているのは変わりがないが、細部の丁寧さにはとても追いつけない。これは、とても私にはつくることができない。(あたりまえだが。)
肉眼は、何でも見てしまうのだ。そこにある形や色だけではなく、私自身の「可能性」も。
Lucianoの作品について触れたとき、私が作品を見るのではなく、作品が私を見るのだ、と書いた。
私の考えていることを見るだけではなく、私に何ができるかという才能まで見抜いてしまう。

 


Sin embargo, lo que se ve en las fotos de Facebook es muy diferente en la realidad.
Sigue siendo delicado y sofisticado, pero la atención al detalle es muy difícil de entender. Esto es algo que nunca podría hacer.
Mis ojos lo ven todo. No sólo las formas y los colores que tienen las obras, sino también mi propio "potencial".
Cuando mencioné la obra de Luciano, escribí que yo no veo la obra, sino que la obra me ve a mí.
No sólo ve lo que pienso, sino también el talento de lo que puedo hacer.

Antonioの作品で、何よりも驚くのは、鉄、アルミ、紙、段ボール、セラミックといった性質の違った素材が組み合わされ、しっかり結合していることだ。
組み合わせたあと分離させない、というのは大変な技術だ。
ソフィスティケートは、技術の確かさの上に存在する。
さらに、彼は下書き、模型、実作というプロセスを大切にしている。プロセスに手抜きがないというのもソフィスティケートの重要な要素なのだ。
しかも、そのプロセスで、彼は柔軟に変化している。下書き、模型では安定していた形が、実際につくってみると不安定な印象になるときがある。そういうときは、その段階でデザインを変更するのだ。
ソフィスティケートというのは、柔軟性をもっているものなのだ。状況にあわせて変化できるの能力のことなのだ。

Lo más sorprendente de la obra de Antonio es la forma en que se combinan y mantienen unidos los distintos materiales: hierrro, aluminio, papel, cartón y cerámica.
Es una habilidad muy difícil combinar estos materiales y no separarlos.
La sofisticación se basa en la seguridad técnica.
Además, da gran importancia al proceso de hacer la obra, modelado y producción real. El hecho de que no recorte en el proceso es también un elemento importante de sofisticación.
Además, es flexible en su proceso. Hay veces que una forma que era estable en los borradores y modelos parece inestable cuando se hace realmente. En estos casos, cambia el diseño en esa fase.
Los sofisticados son flexibles. Es la capacidad de cambiar con la situación.
    
ソフィスティケート、洗練についての補足。
ある作品が素晴らしくソフィスティケートされていると感じるのはなぜだろう。
印象を決定づける要素の一つに大きさがある。
この作品は小さい。小さ目といったほうがいいのかもいいのかもしれない。
日本語の小さ目ということばの中に目という文字がある。
目で何かを判断し、それが印象につながる。
大き目だと、ソフィスティケートされているという印象が消える。
余分を感じる。
小さ目の場合は余分を感じない。
何かを足りないかもしれないが、その足りないかもなにかにむかって、感情が動く。意識が動く。目が誘われる。
アントニオの洗練は、見ているひとを誘い込む洗練である。

Complementaria sobre la sofisticación y el refinamiento.
¿Por qué nos parece que una determinada obra es maravillosamente sofisticada?
Uno de los factores que determina la impresión es el tamaño.
Esta obra es un poco pequeña(小さ目). 
En el idioma japonés, la palabra "小さ目" contiene el carácter de "目(ojo)".
Juzgamos algo con nuestros ojos y esto nos lleva a una impresión.
Si es grande la obra un poco grande, la impresión de sofisticación desaparece.
Cuando es un poco grande, me siento extra. No es un poco grande, es un poco pequeño, pore so me siento muy bien.
Puede faltar algo, pero el sentimiento se dirige hacia ese algo que falta. La conciencia se mueve. El ojo está invitado.
El refinamiento de Antonio es un refinamiento que atrae al espectador.

 


このAntonioと私が取り囲んでいる作品、テーマがわかりますか?
この作品は今までフェイスブックで見てきたものと違うので私は興奮してしまった。
それまでフェイスブックで見てきたものは、たとえば「花」、たとえば「楽器」とすぐに現実に存在する何かを連想できた。
たとえばAntonioの左側にあるのは「楽器」だ。
だが、この作品は、そうした単純なことばでは言いあらわすことができない。
なんだろう。
このときなのだ。私が作品に見られている、というのは。

¿Reconoces el tema de esta pieza de la que Antonio y yo estamos rodeados?
Me emocioné porque esta pieza era diferente a todo lo que había visto antes en Facebook.
Las cosas que había visto en Facebook, por ejemplo "flores" e "instrumentos musicales", las podía asociar inmediatamente con algo real.
Por ejemplo, la obra a la izquierda de Antonio, es un "instrumento musical".
Pero este trabajo no puede describirse en términos tan simples.
¿Qué es?
Es este momento. El trabajo me hace ver.

画面から金属(アルミ、かな?)がはみ出して波うっている。上部は海に見える。下は海ではない。ならば陸地か。
海から陸へ漂ってくる漂流物(木、だ)。不定形の船、難破船か。これは「難民」をテーマにしているのだ。「難民」がどこにいるか、ではなく、漂流と越境が「難民」を象徴しているのである。
写真ではわからないが、下の「陸地」を見ると、そこにはいろんなものがコラージュされている。新聞か、雑誌の切り抜きか。そこに「難民」問題が書かれているかどうか、わからない。だが、その記事は「現実」なのだ。
Lucianoにも、難破船の上で男が綱渡りをしている作品がある。Caloにも、ボートに乗った難民を描いた作品がある。
生きていること、いま、作品をつくることは、どんな作品をつくるにしろ、どこかで現代と向き合うことになる。
私が作品からおまえは何者なのだ、何を知っているか、と問われているように、作家たちも作品をつくることでおまえは何者かと問われているのかもしれない。
だから、そこに自分がいま体験していることを反映せずにはいられないのだ。

Metal (¿aluminio, quizás?) que sobresale de la pantalla, y es ondulado. La parte arriba es el mar. Entonces, ¿la abaja es la tierra?
El objeto (árboles, creo) va del mar a la tierra. ¿Es un barco de forma irregular o un naufragio? Antonio se trata de los "refugiados". Lo que simboliza a los "refugiados" no es el lugar donde se encuentran, sino la deriva y el cruce de la frontera.
No está claro en la foto, pero si se observa el "terreno" de abajo, hay un collage de varios objetos. ¿Es un periódico o un recorte de una revista? No sé si el tema de los "refugiados" se menciona allí o no. Pero los artículos son "reales".
Luciano tiene una obra en la que un hombre camina por la cuerda floja en un naufragio; Calo tiene una obra sobre refugiados en un barco.
Vivir y hacer obra ahora significa que, sea cual sea la obra que haga, en algún lugar le enfrenta a lo contemporáneo.
Al igual que a mí me pregunta por sus trabajos quién soy y qué sé, al crear su obra a los artistas les pueden preguntar quiénes son.
Por lo tanto, no puedo evitar reflejar lo que estan viviendo en este momento.
 

ところで。
彼のアトリエには古い時代の新聞があって、私の誕生日にスペインで何があったか調べることになった。
そのとき、日本旅行するなら広島、長崎をぜひという話になった。
それから広島原爆の記事を探したのだが、なかなか見つからない。
8月7日(新聞だから一日遅れ)には見当たらない。
やっと見つけたが、その記事の小ささ。見えます? 見つけられます?
ここで私たちが話したことは……。
広島原爆は秘密だったのだ、とすぐに意見が一致した。
戦争で起きたことが事実としてあらわれるには時間がかかる。原爆の被害は、アメリカがすぐに把握していたはずだ。しかし、それを世界に対して報告しなかった。アメリカは、それを隠そうとしたかもしれない。
ロシア、ウクライナの戦争もきっと、私たちの知らないことがたくさんあるはずだ。報道されているニュースは、誰かが、どこかで「整理」したものに違いない。
政治、現実と芸術はどう向き合うことができるか。
「難民」をテーマにしたAntonioの作品から、何が見えますか?
やはり、私が、作品から見られるのだ。Antonioから見られるのだ。

Hay algunos periódicos antiguos en su estudio y averiguamos qué había ocurrido en España el día de mi cumpleaños.
Entonces, hablamos de Hiroshima y Nagasaki, y le recomendi a visitar  Hiroshima cuando vengas a Japon.
Luego buscamos un artículo sobre el bombardeo de Hiroshima, pero no lo encontremos.
No pude encontrarlo el 7 de agosto (era un periódico, así que llegó un día tarde).
Finalmente lo encontremos, pero el artículo era pequeño. ¿Lo ves? ¿Puedes encontrarlo?
Esto es lo que hemos hablado: .......
Quizas…. la bomba de Hiroshima era un secreto.
Se necesita tiempo para que aparezcan los hechos de lo ocurrido en la guerra. Los daños causados por la bomba atómica habrían sido conocidos inmediatamente por los Estados Unidos. Pero no lo informó al mundo. Los Estados Unidos pueden haber intentado ocultarlo.
Seguramente hay muchas cosas que desconocemos sobre la guerra en Rusia y Ucrania. La noticia que se está comunicando debe haber sido "arreglada" por alguien, en algún lugar.

 

 

 

 

 

 

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デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(3)

2022-07-18 00:00:00 | 詩集

デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(3)(七月堂、2022年05月05日発行)

 デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』を読み進むと、だんだん暗い気持ちになる。それが、なかなか気持ちがいい。
 「自由とは」の途中から。

                           わたし
は、責任をもってじしんの身体のケアをする男だ、身体と切り離し
えぬみだしなみもきちんと整える男だ。着るものにも意を用いるし、
容貌にも、わたしは鏡のなかのわが容貌をうつくしいとおもうもの
だが、それもきっちりと手入れをする。でも、知りたいのは、歯を
磨くことからも自由になり、顔や首のあたりも洗わずにいたり、足
指のあいだも洗わずにいたりするとして、それはどんな感じのもの
なのだろうということだ。知りたいのは、排便も怠り、健康維持の
ための食物も遠ざけ、下着は替えぬままにいたりするとして、それ
はどんな感じのものなのか、またぐらから、わきのしたから、にお
いが立ちのぼるままにするとして、それはどんな感じのものなのか、
ということだ。

 こんなことは知りたくないが、知りたいと言われてみると、知りたい気持ちになってくる。どんな感じなのだろうか。たぶん、デイヴィッド・イグナトーは肉体的に強靱なのだと思う。私は肉体的に脆弱なので、たぶん、彼が書いているようなことを「知りたい」という気持ちにはならなかった。肉体が強靱なら、つまり、こういうことをしてもすぎに元の肉体にもどれるという自信があるなら、こういうことをしてみたいと思う。これは、強靱な肉体を生きた記憶が言わせることばなのだろう。その強靱さを感じ、何か、楽しい気持ちになるのだ。
 詩は、こんなふうに終わる。

               バスルームに寝転んでゆかにぴた
りと背をつけてみる、生命がわたしの身体からしみでてゆくのがわ
かる、先月からなにも食べていないわたしだ、死んでゆくのだ。わ
たしは自由だ。

 自分の肉体(デイヴィッド・イグナトーは「身体」と書く)のケアをしなくてもすむようになる。それを「自由」と呼んでいる。
 こんなふうに死んでみたい、と思えてくるから不思議だ。もう、暗い気持ちはない。 「空」という詩。

わたくしは父と母のそばに埋められたいです
その声が聞こえるように よしよし かわいい息子よ
もうすこしなんとかできたかもしれないね
でも おまえのことは愛しているよ わたしたちはね
さ 横になりなさい ここに あおむけになって 空をみなさい

 デイヴィッド・イグナトーが父、母とどんな関係にあったのか知らない。たぶん、十分にいい関係ではなかっただろうと思う。しかし、そのことが逆に父、母を思い出すきっかけになっている。いろんなことがあったが、「父のことも、母のことも愛しているよ、わたしはね」という気持ちがあるから「おまえのことは愛しているよ わたしたちはね」という声が聞こえてくる。
 デイヴィッド・イグナトーは、なんにでも「なる」。なってしまうのだ。すべてと一体になる。ことばを通して。
 横になり、仰向けになって空を見るとき、デイヴィッド・イグナトーは、きっと空になっている。地中に埋められているが、空になっている。
 彼は、自分自身の死を救っている。だれも自分の死を救ってくれないと知っているから、自分で自分の死を救うようにして生きたのかもしれない。

 あ、書きすぎてしまった。消せばいいのかもしれないが、消せば消したで、妙なものが心に残る。だから、書いて、書きすぎたと書いて、消せばよかったと書くしかない。

 

 

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デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(2)

2022-07-17 10:59:00 | 詩集

デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(2)(七月堂、2022年05月05日発行)

 「プロローグ」という詩は、「わたしのじんせいはくるうようにつくられた人生でした。」という行ではじまる。「じんせい」と「人生」がつかいわけられている。そのつかいわけについては、ここではそれ以上考えない。ただつかいわけられている、ということだけを意識しておく。
 このあと、

わたしじしんをゆるし、このさき
ものをたべつづけるためには、わたしは、あなたと、
おなじことをしなくてはなりません。

 「あなた」が出てくる。だれのことか、わからない。わからないけれど「あなた」が出てくる、ということだけを覚えておく。
 読み進むと、抽象的だったことばの世界が、突然、生々しく変わる。

わたしは、ささやかななぐさめをもとめあった
ちちとははからうまれました。
父と母が出会った時、ふたりは愛撫し
合いましたが
きづいたらたがいを逆撫で、し合っているのでした。

だからあなたは、あなたのおとうさんが卑猥な
写真をみて日々をすごしていると知ったとき、
ほっとしてしあわせをかんじるのです。
胃が痙攣し、頭が重くなり、
囁きがきこえはじめるのです、あしがふるえるのです。

 「ちちとはは」が「父と母」にかわる。デイヴィッド・イグナトーが、そのことばをどう書き換えているのか、私は知らない。千石英世は、何らかの「違い」を強く感じ、それをひらがなと漢字につかいわけている。
 「わたし」と「あなた」は、それに類似した「つかいわけ」かもしれない、と私は感じる。
 「ちちとはは」が「父と母」であるように、「わたし」は「あなた」かもしれないと思う。そのあと、「父」は「おとうさん」と言い換えられているが、このとき「おとうさん」は「わたし」かもしれない。つまり、「おとうさん」になっている。「おとうさん」と同じように、気づいたら「卑猥な/写真をみて日々をすごしている」。そして、ああ、あれはこういうことだったのかと思う。
 「こういうことだったのか」というのは、特に、言い換えて説明しなくてもいい。ただ「肉体」で、それを思い出すのだ。ことばで「説明」すると、きっと違ってくる。
 「わたし」を「あなた」と呼ぶように、何か、突然、自分を客観化して理解するような感じ、客観化することでより主観的になるというと変だけれど、より複雑に融合して、分離不可能になるような感じ。
 それは「じんせい/人生」「ちちとはは」「父と母」の関係についても言えるかもしれない。
 それから「愛撫/逆撫で」ということばのなかに「撫」という漢字が共通するところにも通じるかもしれない。
 私は、こういうことは、これ以上明確にしない。明確にしようとすると、そこに「うそ」がまじる。感じていることではなく、頭が、勝手に「論理」のようなものをつくり出して、それを「結論」にしてしまうことを知っているからだ。そうなってしまうと、もう、そこには私の読んだ詩はなくなる。
 ただ、最終連の

ほっとしてしあわせをかんじるのです。

 という一行は、とてもいいなあ、と思う。ここでは「ほっとする」と「しあわせ」がとてもやさしく融合している。「じんせい/人生」「わたし/あなた」「ちちとはは/父と母」にも、そういう「融合」があったはずなのである。そう、思うのだ。
 この感じは「ひとつの存在論」のことばと重なり合う。

闇のなか、ベッドをぬけだし、
台所へむかう。
かべをまさぐる。
ざらざらしたところ、つるつるしたところ、
われたところ、あなになったところ、
もりあがったところ、へこんだところ、それぞれ、そのたびに、
わたしの手がそのかたちになる。
ゆかが軋み、たわむ。
そのくりかえし。そのたびに
あしのうらはそのかたちになる。

 肉体(手/足)が触れたものの「かたちになる」。このとき「かたちになる」は、きっと「かたち」を超えて、そのものになる、ということだと思う。手は壁になる。足は床になる。つまり、区別がなくなる。ほんとうは壁が手になり、床が足になる、と言い直したいくらいである。
 この一体感(存在するのは、わたしの肉体だけ)という感じは、「プロローグ」の「わたし/あなた」の一体感に通じる。
 「ひとつの存在論」は、実は、つづきがある。私は、引用した部分で終わっていると思ったが、デイヴィッド・イグナトーはさらにことばをつづけている。それを読みながら、私は苦しくなってくる。
 私が引用した部分だけでは「抽象論」になってしまうのだろう。それだけでは満足できない「ことば/肉体」があり、どうしても動いてしまうのだ。それは「胃痙攣」のように、自分の力では制御できない「訴え/異変」である。動くだけ、動くにまかせるしかないものなのである。
 もう、これ以上書かない。ただ、そのどうしてもデイヴィッド・イグナトーが追加しなければならなかった行を引用しておく。最後まで読むこと、それがデイヴィッド・イグナトーになることだから。「なる」ということを味わう詩集だ。

せまい廊下なので肩がつかえる。台所までつかえつづけて、
ようやくたどりつく。あかりがまぶしい。
ゆくべき方向がわからないので、わたしは
食べる。わたしはぱんの
一部となり、みるくの一部となり、ちーずの一部となる。
わたしはそれらのやすらぎとなる。わたしはわたしによってえいようを
あたえられるのだ。ベッドへもどる。わたしはマットレスになって、
わたしのうえにねむる。
めをとじて、ねむりになる。ねむりはゆめになる。わたしは転々する。
制御不能を得て、わたしはいたるところでわたしになる。
それがわたしだ。わたしとはわたしになってしまうもののことだ。
わたしが移動するとすべてがいどうするので、
わたしはそのいどうするすべてだ。
わたしになってしまわなければ痛みはない。
だがわたしがあるので、わたしはあるところのものである。

 だが「なる」はむずかしく、いつでも「ある」が顔を出す、とつけくわえておく。いま、私が追加で「ある」と書いたように。

 

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Joaquín Llorens

2022-07-16 22:32:39 | tu no sabes nada

Joaquin のアトリエを3年ぶりに訪問することができた。
私をスペインの芸術家に導いてくれたフェニックスはきょうも私を温かく迎えてくれた。
フェニックスの子ども(?)も元気だった。このアトリエは私にとっての古里のようなものかもしれない。帰省するように何度も何度も訪ねたい場所だ。

Visito el estudio de Joaquín por primera vez en tres años.
Phoenix, que me presentó a los artistas españoles, me dio una cálida bienvenida hoy.
El niño Fénix (?) también gozaba de buena salud. Este estudio puede ser como un viejo hogar para mí. Es un lugar que quiero visitar una y otra vez, como si volviera a casa.

だれのアトリエでもそうかもしれないが、アトリエにある作品には、展覧会の会場では見せない表情がある。
それぞれの作品が、他の作品がどうやって生まれてきたかを知っている。
兄弟の感覚。
気取ってみても、その気取りさえ似通ったところがある。
ここでは、寛いだ方が勝ちなのだ。
自然な呼吸がアトリエをさらに落ち着かせる。
その呼吸に合わせてみる。
すると私のからだのなかに、その空気が入ってきて、少しうれしくなる。
私はホアキンの作品ではない。作品をつくったホアキンでもない
でも、こうやって呼吸を合わせると、ここで生きている作品の兄弟になれるかもしれない、と錯覚するのだ。

Como puede ocurrir en el estudio de cualquier persona, las obras en el estudio tienen un aspecto que no se muestra en la sala de exposiciones.
Cada pieza sabe cómo surgieron las otras.
Ellos tienen un sentimiento de hermandad.
Incluso las pretensiones son similares.
Aquí, cuanto más relajado estés, más importantes.
La respiración natural calma aún más el estudio.
Intento igualar esa respiración.
Entonces el aire entra en mi cuerpo y me siento un poco feliz.
No soy el trabajo de Joaquín. Yo no soy Joaquín, que creó la obra.
Pero cuando respiramos juntos así, me siento como si pudiera ser un hermano de la obra que está viva aquí.


 

時間がたって……。
ホアキンのアトリエ訪問の記録としてどの作品を選ぶか。
どれにする?とホアキンが聞いてくる。
私はアトリエでこの作品を見たときから、これ、と決めていた。
ホアキンはこれ? と聞いたが。
彼は代表作と思っていないのかもしれない。
でも、私はこの作品が好き。
フェイスブックで初めて見たときも書いたが、折り鶴を連想する。日本人は祈りをこめて鶴を折る。
ホアキンも祈りをこめてこの作品を作ったと感じたのだ。
何を祈った? 世界の平和、かもしれない。
もっと身近な祈りかもしれない。
作品の背景に家族の写真がある。両親、祖父母かもしれない。家族の安全、健康、無事を祈っている、と私は強く感じた。
地味な感じだが、祈りは地味な方がいい。
欲望のまじりこまない、素朴で誠実なものがいい。
ホアキンの作品には、身近な、親密な温かさがある。
私はいつもそれにひきつけられる。

Despues de la conversacion .......
¿Qué obra es major para sacar foto de recuerdo de visita al estudio?
¿Cuál obra? me pregunta Joaquín.
Me decidí por éste desde el momento en que lo vi en su estudio.
Joaquín pregunta: "¿Este? Pregunté.
Tal vez no cree que sea su obra maestra.
Pero me gusta esta obra.
Yo ya la he escrito cuando la vi por primera vez en Facebook, me recuerda a las grullas de papel dobladas. Los japoneses doblan las grullas con la oración.
Sentí que Joaquín también hizo este trabajo con una oración.
¿Por qué rezó? La paz mundial, tal vez.
O quizás una oración más familiar.
Hay una foto de familia en el fondo de la obra. Pueden ser los padres, los abuelos. Tuve la impresión de que rezaba por la seguridad, la salud y el bienestar de su familia.
Parece sencillo, pero las oraciones deben ser sencillas.
Debe ser sencillo y sincero, sin rastro de deseo.
Hay una calidez familiar e íntima en la obra de Joaquín.
Siempre me atrae.

 

 

 

 


何度もブログやフェイスブックで書いてきたことだが、もう一度書いておこう。
ホアキンの作品には、他の彫刻家とは違う独特の雰囲気がある。
先に家族のことを書いたが、家族と関係している。彼の一族の仕事と関係している、と私は感じている。
ホアキンの身の回りには、彼が小さいころから鉄があった。
その鉄をつかってホアキンは作品をつくっている。鉄を「素材」として買ってきて、それを加工するというよりも、そばにあった鉄、工場でつかいきれなかった鉄をつかってつくっている感じがする。
そういう鉄は様々である。三角形であったり、四角い柱形だったり、丸い棒だったりする。
ホアキンの作品には、そういう、言わば余った鉄をつかってつくったという印象がある。
しかも、そのときホアキンは、手でそれを加工するのだ。もちろんハンマーや金床、火もつかうだろうが、なぜか、手の力だけで形をととのえたのではないかと思わせる不思議な「肉体感覚」がある。
特に地中海の波をテーマにした作品(と、私が勝手に思っている作品)がそうだ。
二枚、あるいは三枚の錆びた鉄板が組み合わされている。そのカーブ、その表面の滑らかな感じ。それは、手で、粘土を伸ばして形作ったような印象がある。
手の力、というか、ホアキンの肉体の力だけでつくったような、不思議な手触りがつたわってくる。
もちろん手の力、肉体の力だけでは鉄は加工できないから、私の「印象」は間違っている。
けれど、私は、そう感じたいのだ。
ホアキンは幼いころから、そばにあった鉄に触れながら、鉄がどういうものかを知識ではなく、暮らしとしてつかみ取ってきた。
平たい板ならどう組み合わせることができるか。円柱ならどうか。細い針金ならどうか。
捨てられたものというと変な言い方になるが、何かをつくりだしたあと、はみ出してしまったもの、取り残されたものに、視線を注ぎ、それに新たな命を吹き込む。
そこにあるものすべてを生かす。何一つ無駄にしない。どんな断片にも命を与える。
そういう芸術のあり方。暮らしそのものを芸術にしていくあり方。
「工芸」にいくぶん通じるかもしれない。特別なものをつくるわけではない。そこにあるものを美しくととのえることで、もっと大切につかいたいという意識を呼び起こす存在。

He escrito sobre esto muchas veces en mi blog y en Facebook, pero lo escribo de nuevo.
Las obras de Joaquín tienen una atmósfera única, diferente a la de otros escultores.
Tiene que ver con su familia, como he mencionado antes, yo creo.
Joaquín ha estado rodeado de hierro desde que era pequeño.
Joaquín hace su trabajo con hierro. Más que comprar el hierro como "material" y procesarlo, me parece que Joaquin hace sus obras con el hierro que estaba a su alrededor o que no se utilizaba en la fábrica.
Hay varios tipos de hierro. Pueden ser triangulares, columnas cuadradas o barras redondas.
Las obras de Joaquín dan la impresión de estar hechas con esos excedentes de hierro.
Además, Joaquín los procesa a mano. 
Por supuesto que utilizó un martillo, un yunque y el fuego.
Pero me da impression extrano que él armó las formas utilizando sólo el poder de sus manos.
Esto es especialmente cierto en las obras sobre el tema de las olas en el Mediterráneo.
Se juntan dos o tres placas de acero oxidadas. Las curvas, la suavidad de la superficie. Da la impresión de haber sido formado a mano.
La obra tiene un aire misterioso, como si estuviera hecha únicamente por el poder de la mano, o mejor dicho, por el poder del cuerpo de Joaquín.
Por supuesto, mi "impresión" es errónea, ya que el hierro no se puede procesar sólo con la fuerza de las manos o la fuerza física.
Pero así es como quiero sentirlo.
Joaquín ha estado en contacto con el hierro desde que era un niño, y ha captado lo que es el hierro, no a través del conocimiento, sino como una forma de vida. Un martillo, un yunque el fuego, ellos son manos de Joaquín.
¿Cómo se pueden combinar las placas planas? ¿Y los cilindros? ¿Qué pasa con los cables finos?
Las cosas que han sido abandonadas o dejadas atrás después de haber creado algo, y Joaquín les da nueva vida.
Aprovecha todo lo que hay. No se desperdicia nada. Da vida a cada fragmento.
Este es el camino del arte. Una forma de hacer arte a partir de la vida misma.
Puede ser algo parecido a la artesanía. No se trata de hacer algo especial. Es una existencia que evoca la sensación de querer cuidar mejor las cosas que hay haciéndolas bellas.


 

もう少し語りなおそう。
たとえば、私が大好きな、この波が絡み合ったような作品。
二つの波が対話している。交流している。愛し合っている。そういうことを感じさせる。
どの作品にも、ある部分と別の部分との対話がある。絆がある。
それを強く感じる。
それは基本的に、家族の愛なのだと思う。親子の愛、夫婦の愛、兄弟の愛。一家の愛。
愛れが奏でる音楽がある。

私がホアキンの作品から感じるのは、その愛が、彼の家族を支えた鉄の血、鉄の肉というものと一体になっている感じだ。ホアキン一家のの血、肉が一体になった魅力である。
塊には塊の魅力が、変形したものには変形したものの魅力が、錆びたものには錆びた魅力がある。
鉄は強靱だが、なかには細く繊細なものもある。
だから、ホアキンはときに強靱なものを、ときに繊細なものをつくる。
それぞれの表情をホアキンは、鉄から大事にくみ取っている。

Voya hablar un poco más de ello.
Por ejemplo, me encanta esta pieza de ondas entrelazadas.
Las dos olas dialogan. Están interactuando. Se están queriendo. Eso es lo que me hace sentir.
En cada pieza, hay un diálogo entre una parte y otra. Hay un vínculo.
Lo siento mucho.
Creo que es básicamente el amor a la familia. El amor entre padre e hijo, entre marido y mujer, entre hermanos. El amor de una familia.
Hay música interpretada por el amor.

Lo que siento de la obra de Joaquín es que ese amor está unido a la sangre y la carne de hierro que sostenían a su familia. Es la atracción de la sangre y la carne de la familia de Joaquín convirtiéndose en uno.
Un bulto tiene el encanto de un bulto, una cosa deformada tiene el encanto de una cosa deformada, y una cosa oxidada tiene el encanto de una cosa oxidada.
El hierro es duro, pero parte de él es fino y delicado.
Por lo tanto, Joaquín hace a veces objetos fuertes y a veces delicados.
Joaquín extrae cuidadosamente cada expresión del hierro.

 

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岡井隆『あばな』

2022-07-16 16:05:06 | 詩集

岡井隆『あばな』(砂子屋書房、2022年07月10日発行)

 岡井隆『あばな』は遺稿歌集。「あばな」は「阿婆世」と書く。

ああこんなことつてあるか死はこちらむいててほしい阿婆世といへど

 という歌に出てくる。「阿婆世」を私は「あばよ」と読んでしまうが、それは死と向き合っている、死んでいく人間の声として聞こえるからである。
 この歌だけでは、何が書いてあるかわかりにくいが、この歌の前には、この歌がある。

死がうしろ姿でそこにゐるむかう向きだつてことうしろ姿だ

 これは、すごいなあ、と思う。
 死んだことがないからわからないが、よく「お迎えがくる」という。「お迎え」というからには、向こうからだれかが岡井のところへやってくる。そう想像する。しかし、岡井はそうではない、という。「お迎え」なら、当然、岡井の方を向いているはずなのに、その誰かは岡井の方を向いていない。
 死は「お迎え」にくるのではなく、岡井を知らない場所へつれていくのである。それがどこかも知られず、「ついてこい」と背中で岡井を導いていく。
 「うしろ姿」と書いて、「むかう向き」と書いて、もう一度「うしろ姿」と書いている。だれもこんなことを書いていない(言っていない)から、自分のいいたいことをなんとしても正確に伝えたいという「欲望」(聞いてほしい)が、ここにこもっている。
 そのうえで

ああこんなことつてあるか

 と嘆く。しかも、口語で嘆く。
 私は、この岡井の、露骨な口語の響きが大好きである。
 そして、こんなことを遺稿歌集の感想として書いていいかどうかわからないのだが、思ったことなので書くしかない。この露骨な口語(俗語、というか、地口、というか……)に、それに拮抗するような「文語(雅語)」をぶつけて、ことばを活性化するところがとても生き生きしていておもしろいと思う。
 いつでも岡井は、ことばを活性化したいのだ。知っていることばを最大限に輝かせたい。そのためには「枠」にはめるのではなく「枠」を破ることが大事なのだ。「枠」を破ったあと、どこへ出て行くか、それは知らない。しかし、まず「枠」を破る。それがことばを活性化する第一歩だ。

 それにしてもね。
 死が、岡井の書いているように、顔もわからない誰かのうしろ姿についていくしかない「未知」の世界なら、これは、つらいね。「あばよ」と後ろを振り向いて、知っている誰かにあいさつしたいけれど、振り向いているうちに「死の背中」を見失って、どこへ行っていいかわからないということにでもなったらたいへんだ。真剣に、「死の背中(うしろ姿)」をみつめて、おいかけていかなければならない。振り返って「あばよ」と言えない……。
 
 この他の歌では、

魚焼いた臭ひを逃すべく空けし窓ゆ見知らぬ夜が入り来ぬ

ひむがしの野にかぎろひの立つやうに新年よ来よ つて言つたつてよい

 が、私は好きだ。
 「魚焼いた」の「焼いた」という口語活用のことばが「臭ひ」からつづく日常的な動きにぴったりだし、それが「ゆ」という古語を経由することで「見知らぬ夜が入り来ぬ」の「見知らぬ夜」が実は、ことばの奥底(伝統)のなかで知っているものであることを告げるところがとてもいい。「ことば」にとって「知らぬ」ものなどない。ことばみんな知っている。その「知る/知らぬ」の交錯のなかに「魔」が動いている。ことばは「魔」だ。「魔」を目覚めさせるのが「詩のことば」だ。
 「ひむがしの」は、この歌集で、私がいちばん好きな一種。最後の「つて言つたつてよい」が強い。何を言ったってよい。それは短歌にかぎらない。私はこの「つて言つたつてよい」に励まされる。

 

 

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読売新聞の「文体」

2022-07-16 09:46:51 | 考える日記

 2022年07月16日の読売新聞(西部版、14版)に安倍銃殺事件のことが書かれている。
 なぜ、容疑者は安倍を狙ったか。(番号は私がつけた。)
↓↓↓
①山上容疑者が理由として挙げるのが1本の動画だ。
 「朝鮮半島の平和的統一に向けて、努力されてきた韓鶴子総裁に敬意を表します」。昨年9月、民間活動団体「天宙平和連合(UPF)」が韓国で開いた集会で、安倍氏が寄せた約5分間のビデオメッセージが流された。
(略)
②安倍氏を巡っては、首相在任中から同連合とのつながりを指摘する声が一部にあった。そうした中、安倍氏が公の場で韓氏を称賛する動画が流れたことで、SNS上では安倍氏と同連合が深いつながりがあるかのような根拠不明な投稿が広がった。
(略)
③「動画を見て(安倍氏は同連合と)つながりがあると思った。絶対に殺さなければいけないと確信した」と供述する山上容疑者。安倍氏の殺害を決意したのは、昨秋のことだった。

④ビデオメッセージは、同連合と関わりがあるUPFが安倍氏側に依頼して実現したという。しかし、安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。
↑↑↑
 ①から③までは、すでに何度も報道されていることである。容疑者の「動機」を語っている。安倍は、容疑者の家庭を崩壊させた統一教会と関係がある。だから、殺そうと思った。要約するとそういうことになる。
 そういう一連の報道を踏まえた上で、読売新聞は④以下の「作文」を書き始める。①から③までは、事実だが、④は事実ではない。「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。」と書いているが、そのときの「事実」とは何か。「事実」を確認したのは、誰か。
 「確認されていない」にはふたつの意味がある。
 調べたが「確認できなかった」と、「調べていない」である。
 読売新聞は、だれが、いつ、どのようにして調べたかを書いていない。つまり、「調べていない」のである。「調べていない」から「確認できていない」。これを「確認されていない」とあいまいに逃げている。この「確認されていない」は、主語を補って言えば「捜査機関によってか確認されていない」なのだが、それを捜査機関が調べない限り「確認されていない」はつづく。なぜ、捜査機関はそれを調べないのか、ということを不問にして「確認されていない」と言っても意味はない。
 本来ならば、なぜ、捜査機関はそれを調べないのかを追及しないといけない。そして、捜査機関が調べないことを、読売新聞が独自に調べ、「事実」を明らかにしないといけない。ジャーナリズムとは、そういう存在である。「権力」が捜査しないなら、自分たちで調べる。そこから「特ダネ」も生まれる。捜査機関が発表したことだけを、そのまま垂れ流していたのでは、捜査機関にとって都合のいい「情報」だけが流布することになる。
 ④では「事実」ということばもつかわれている。ここでいう「事実」とは何か。安倍はすでにビデオメッセージを送っている。それは「支援」ではないのか。私から見ると「支援」である。読売新聞は「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。」と書いている。この文章を補足すると「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、直接支援したりした事実は確認されていない。」。つまり、ビデオメッセージは「間接支援」であり「直接支援」ではない、といいたいのである。
 ここでは「直接」の定義が問題になる。「事実」の定義と同様に。
 こういう部分を厳密にせずに、雰囲気で「作文」している。ここに大きな問題がある。最初から、安倍は統一教会と無関係であるという方向で「作文」しており、それを論理づけるために「事実」とか「直接」ということばが、あたかも「客観的視点」を代弁しているかのようにつかわれている。
 「直接関係」「直接支援」、あるいはその「事実」とは、ではいったい何が想定されているのか。金をもらっている。その代償として安倍が動いている、ということだろう。金の動きが証明されない限り「事実」はない、というのが読売新聞の立場である。ビデオメッセージの代償として金が動いていれば、安倍と統一教会は「直接」関係している。金をもらってビデオメッセージを送っていれば、「直接」支援したことになる、という考えである。
 しかし、「金」というのは、現代では単純に「円(札束)」を指すとはかぎらない。金を動かさず、人員を無償で送り込み、活動させるというのは「金」の動きを隠すための「方便」である。「ボランティア」を装い、無償という「金」の流れをつくりだすことができる。安倍のビデオメッセージにしても「無償」を言い張るかもしれないが、なぜ、宗教団体に(私は悪徳商法団体と思っているが)、「無償」のビデオメッセージを送るのか。なぜ、その団体なのか。その団体を選んだ段階で、それは「直接支援」になるだろう。

 この作文のあとで、読売新聞は、こうつづけている。
↓↓↓
⑤動画を見ただけで、安倍氏を殺害するというのは、動機としてはあまりにも不可解で、論理に飛躍がある。
⑥精神科医の片田珠美氏は「動画やSNS上の根拠不明な情報を見て、『怒りの置き換え』が生じたのではないか」と指摘する。
「怒りの置き換え」とは、元々怒りを向けていた相手にぶつけられず、他の人物に矛先を変えることを指す。
(略)
⑦片田氏は「容疑者は恨みの感情に長年とらわれ、相手を置き換えてでも復讐を果たさないと精神の安定が保てない状態に陥っていたのだろう」と推測する。
↑↑↑
 ⑥は読売新聞(記者)の考えである。記者には「動機」が理解できず(不可解)であり、「論理(動機)に飛躍がある」ように見えた。(私には、容疑者の動機も論理も、自然なことのように思える。合理的に見える。)
 読売新聞(記者)は、その「理解不能な論理」の説明するために、⑥のように精神科医の「分析」を持ってきている。代弁させている。精神科医も、こう言っている、というわけである。
 この手法は、なんというか、私には「墓穴」のように見える。
 もし容疑者が、⑦で精神科医(これが、問題)の指摘するように、「精神の安定が保てない状態」だったとしたのだとしたら、容疑者は裁判では「無罪」になるかもしれない。罪は問われないことになるかもしれない。安倍を擁護する一方、容疑者を裁けなくなる可能性が出てくる。
 読売新聞(記者)は、そこまでは考えずに精神科医を取材し、「作文」を書いている。ただ、安倍を擁護するためにだけ、記事を仕立てている。

 新聞記事には、「事実」を書いたものと、「事実」というよりも「意図的な作文」がある。
 「事実」には、第三者(捜査機関、あるいは、今回のような精神科医)の調べたこと、主張していることがある一方、記者が独自に調べた「事実」がある。そのなかには、今回の「作文」のように、記者が独自に(単独で)精神科医に取材したもの(他社の記者が同席していたわけではないだろう)もある。
 この関係を見極めながら報道を読む必要がある。

 

 

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Calo Carratalá

2022-07-15 22:16:04 | tu no sabes nada

Calo Carrataláの展覧会。ここには、私がブログで書いた感想が、そのまま展示されている。日本語とスペイン語で。(私のスペイン語は、もちろん間違いだらけなのだが、それをそのままつかってくれている。)

写真では見えにくいだろうから、ブログに書いたものをそのまま転写しておく。

*


ほぼ同じ構図の2枚の「ジャングル」。私は茶色いジャングルの方に、引きつけられる。こういう絵を見たことがないからだ。空気が乾いていて、光が軽い。しかし、それは印象派の描く光ではない。

そう書いて、すぐに、いや緑のジャングルの方がいいなあ、と思う。

重たく湿った空気のなかで、光は動くというよりも、緑の上にとどまっている。これも、印象派の描く光ではない。

鏡のように、遠いところにある光を受け止めて、動かずにいる。

 

この光の中にいると、光とは別なものも見えてくる。水だ。

 

どちらの絵も、木々は具体的には描かれない。

色の塊。ジャングルとは、塊のことなのかもしれない。

木々の一本一本は、たがいに深く絡み合っている。

決して切り離されない。繋いでいるのは「水分」である。

水は、木々の内部を流れる。水は、木の外部では湿度として存在する。

水は、いたるところにある。

湖面の水がそれを強調している。

水平に広がる水とは別に、地上には垂直に立ち上がる水があるように感じられる。

湖面の逆さまの木々を、垂直に立つ水面が木々を地上に映し出す。

地上こそが「鏡」なのだ。

そうやって、水平と垂直が融合する。

融合したものだけが獲得した静けさと、強さがある。

 

Dos "selvas" de composición casi idéntica.

Me atrae más la selva marrón.Esto se debe a que nunca había visto un cuadro como éste.El aire es seco y la luz es ligera.Pero no es la luz retratada por los impresionistas.

Escribo eso e inmediatamente pienso, no, prefiero tener una selva verde.

En el aire pesado y húmedo, la luz permanece en el verde en lugar de moverse.

Esta tampoco es la luz que retratan los impresionistas.

Como un espejo, capta la luz en la distancia y permanece inmóvil.

 

Cuando estás en esta luz, también ves algo más que la luz.El agua.

 

En ninguno de los dos cuadros se representan los árboles de forma concreta.

Una masa de colores. Tal vez la selva sea una masa.

Los árboles individuales están profundamente entrelazados entre sí.

Nunca se separan. Lo que los mantiene unidos es el "agua".

El agua fluye por el interior de los árboles. El agua existe fuera de los árboles en forma de humedad.

El agua está en todas partes.

El agua en la superficie del lago lo acentúa.

Aparte del agua que se extiende horizontalmente, parece que hay agua que se mantiene verticalmente en el suelo.

Los árboles están al revés en la superficie del lago, y el agua en posición vertical refleja los árboles en el suelo.

El suelo es el "espejo".

De este modo, lo horizontal y lo vertical se fusionan.

Hay una quietud y una fuerza que sólo la fusión ha logrado.

 

 

私がCaloの作品をはじめてみたのは、別の絵である。

この絵を見た瞬間、長谷川等伯を思い出した。

Calo Carrataláは知らないという。

何が長谷川等伯を思い出させるのか。

遠近感の処理の仕方である。

遠近感は、「空気」そのもののなかにある。

木に空気が触れる。水に空気が触れる。そして、空に空気が触れる。

そのとき空気の密度が変わる。

凝縮と拡散がある。

その運動が遠近感になっている。

それにしても、この中央の果てしない広がりの輝きは何だろう。

沈黙が輝いている。

それは左右の沈黙をより凝縮させるのか、それとも隠れている沈黙に対して、私は待っている、と誘いかけているのか。

写真だけではわからない。

この絵の前に立って、この遠近感と向き合わなければならない。

絵から展示室にあふれだすこの空気、この遠近感は、私をその世界へ連れて行ってくれるだろ。

展示室そのものを、この絵の「現場」へと連れて行ってくれるだろう。

 

そのとき、私は、この絵が1枚の絵なのか、それとも2枚の絵が向き合っているのかもわかるだろう。

孤独な2枚の絵が、きっと私のなかで1枚の絵になる。

あるいは1枚の絵だったものが2枚にわかれて、沈黙のことばを交わし始める。

そのとき、きっと私の中の沈黙もことばを発する。

その声は、この絵の中の、中央の沈黙を超えて、どこまでも広がっていくだろう。

 

En el momento en que veo esta imagen, recordo a Hasegawa Tohaku.

Pero Calo Carratalá me dice que no le sabe nada.

¿Por qué me recuerdo a Hasegawa Tohaku?

Así es como se maneja la perspectiva.

La perspectiva está en el "aire" mismo.

El aire toca el árbol. El aire toca el agua. Y el aire toca el cielo.

En ese momento, la densidad del aire cambia.

Hay condensación y difusión.

El movimiento da una sensación de perspectiva.

Pero, ¡qué brillante central! ¡que extensión infinita!

El gran silencio brilla.

¿Condensa el silencio de izquierda y derecha, o me invita a esperar el silencio oculto?

No se puede comprender solo por las fotos.

Tiengo que llevarme frente a esta pintura y enfrentarme a esta perspectiva.

Este aire que desborda de los cuadros hacia la sala de exposiciones, esta perspectiva, me llevará al mundo.

La propia sala de exposiciones se convertirá en el "lugar" de esta pintura..

 

En ese momento, sabré si esta imagen es una, o dos imágenes enfrentadas.

Dos imágenes solitarias seguramente se convertirán en una sola imagen en mí.

O lo que era una imagen se divide en dos y comienza a intercambiar palabras en silencio.

En ese momento, el silencio en mí seguramente hablará.

Las tres voces se extenderán más allá del silencio central de esta pintura.

 

 

Calo Carratalá の展覧会で、とても信じられないことが起きた。

難民と思われる人々が小さな舟に乗っている。

この作品はパーティションの壁に直接描かれているので、展覧会が終われば消されてしまう。儚い運命の絵である。

それを見ていたとき、窓から入ってきた光が床に反射し、難民のひとりをスポットライトのように強烈に浮かび上がらせたのだ。

絵自体に塗り方のムラ(?)があるので、光があたっていないときの絵を知らない人は、塗り方の違いと思うかもしれない。だが、それは作者の意図を超えた偶然の一瞬なのだ。

夕方の光が動き、スポットライトが立っているひとのところに移った時は、また印象が違う。

座っている女に光が当たったとき、難民ボートの印象が鮮明になる。

ボートは描かれた絵ではなく、描かれたボートは現実の世界にむかって動き出したのだ。

そういうことがあったので、この絵は忘れられないものになった。

消されて存在しなくなるけれど、私の記憶からは絶対に消えないはずだ。

 

En la exposición de Calo Carratalá ocurrió algo muy increíble.

Las personas, presumiblemente refugiados, están en un pequeño bote.

La obra está pintada directamente sobre el tabique y se borrará una vez terminada la exposición. Es un cuadro con un destino fugaz.

Cuando lo miraba, la luz que entraba por la ventana se reflejaba en el suelo y daba vida a uno de los refugiados con la misma intensidad que un foco.

El cuadro en sí está pintado de forma desigual (?). Si no conoce el cuadro cuando no está iluminado, podría pensar que se trata de una diferencia en la forma de pintar. Sin embargo, se trata de un momento de coincidencia más allá de la intención del artista.

Cuando la luz del atardecer se desplaza y el foco se desplaza hacia la persona que está de pie, la impresión es diferente.

Cuando la luz ilumina a la mujer sentada, la impresión del barco de refugiados se hace más clara.

El barco no es un cuadro pintado; el barco pintado se ha desplazado hacia el mundo real.

Por ello, el cuadro se convirtió en algo inolvidable.

Se borrará y dejará de existir, pero nunca desaparecerá de mi memoria.

 

後日、アトリエを訪ねた。巨大な倉庫のようなアトリエである。
展覧会場には、難民の絵と同じように、直接パーティションに描かれた絵が合計三枚あった。
Caloの絵はたいていが大きいが、会場で直接描いているところからわかるように、最初から「空間」を意識している。空間の大きさと絵の大きさが意識されている。だからこそ、おおきな「空間」としてのアトリエが必要なのだ。
もちろん小さな絵もあるが、やはり大きな絵の方がおもしろいと私は思った。
アトリエでは昼食会があり、コレクターや大学教授らが集まってきた。コレクターのひとりはCaloの幼なじみだという。みんなが、学校が終わり、さあ、サッカーをやろうと言っているとき、Caloだけは、私は絵を描くといって単独行動をしていた、というエピソードを教えてくれた。

他のひととは違う別の時空間をを生きていたということだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)

2022-07-15 10:48:28 | 詩集

デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(七月堂、2022年05月05日発行)

 デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)は、読み始めてすぐにひきつけられる詩である。
 「病院の受付係」。

その人の名前と住所を
その人の年齢と生地を
その人自身の口から聞き取って
以来、もうその人たちは何人死んでいったのだったか?
新生児の登録もした 出産の番号札をつけて
受付係だから

 三行目の「その人自身の口から聞き取って」が、一行目と二行目の事務的手続きを強く揺さぶる。「口」という肉体の存在、聞き取るときの、書かれてはいない「耳」と「手」の動き。そこに他人の肉体と、詩人の肉体の交渉がある。「その人自身」という個へのこだわりが、必然として個の消失、死を暗示させる。どきりとさせられる。だから、その後につづく「死ぬ」という動詞が、なまなましく、また避けることのできない「必然」として迫ってくる。
 ああ、この人は、生きながら「死ぬ」ということを考え続けたのだ、考えることを迫られたのだと、一瞬息が止まる思いがする。「以来」ということばで、詩人は、その衝撃を必死に緩和しようとしている。
 さらに、逆のことも書いて、自分自身を救い出そうとしている。死ぬものがあれば、生まれるものもある。だが、その生まれた人の「名前と住所」「年齢と生地(これは聞かなくてもわかる)」は「その人自身の口から聞き取る」わけではないのだ。
 だからこそ、三行目は、絶対に書かなければならなかったキーセンテンス(キーとなる一行)なのだ。そして、この絶対的な「ことば」、「その人自身の口」から発せられるものこそが、詩なのである。それがたとえ「名前、住所、年齢、生地」という、一般に詩とは感じられないものであっても、それが詩なのだ。一回限り、そこで存在した「ことば」なのだ。
 そういうことを意識しながら、詩は、二連目に入る。

ここで詩を書くのだ 死と生の数々に囲まれて
受付係として
それで深くなったか? ウソをいわなくなったか? ぼくときみは?

 「ここ」ということばが重い。「名前、住所、年齢、生地」が固有名詞なら、「ここ」も固有名詞なのだ。そして「受付係」さえも固有名詞だ。詩は、固有名詞のなかにある。個(固)のなかにのみ存在し、生きている。
 この固有名詞、個の存在と向き合い続けるのは、とてもむずかしい。「普通名詞(一般名詞)」になって「流通」してしまう。「ほんとう」が「ウソ」に変わってしまう。固有名詞は、その深さを測る基準がない。どこまでも深い。そして絶対的真実である。ウソを受け入れない。そこへ、たどりついたか?
 詩人は自問している。
 そして、この詩は問いかけてくる。この詩に対して、私は「私自身の口」から「私自身のことば」で、「私の名前、住所、年齢、生地(アイデンティティー)」を語ることができるかと。
 私は、感想を書くことで私自身を語り得ただろうか。私の感想のなかにはまじっていないか、つまり、私はウソをついていないか。
 詩を読むのではない。詩の方が私のことばを読む。その真剣な視線の前で、私はどれだけ自分自身に対して正直になれるか。新生児として生まれ変われることができるか。それが、これから詩集を読んでいくとき、私に求められることだ。

 「だからまたぐ」という詩がある。

わたしは
石ころ一個とのつながりで
わたしじしんを了解する

 この「石ころ」とは「固有名詞」としての「詩」である。そこにある「固有名詞としての石ころ(詩)」と「わたしじしん」をどうつなぎ、そこで何を語ることができるか。他人のことばではなく、自分のことばで。
 詩人はつづけている。

肉と骨であるもの
わたしは石ころに向かってひれ伏すべきだろうか?

 そう、ひれ伏すべきである。固有名詞の存在の前で、「わたし」と「人間」とか「市民」とかという「普通名詞」に逃げてはいけない。「固有名詞」にならないといけない。全体的存在としての「石ころ(固有名詞)」の前で、詩の前で、できることは、「ひれ伏すこと」、無力であることを自覚すること、無になること……。

これは聞こえてきた声 わたしの声
わたしは正面から石ころに対峙したい
プライドをもって
しかしわたしはこわれうるものである
わたしはあらそいをこのまぬものである
だから
石ころをまたいで過ぎる

 「しかしわたしはこわれうるものである」の「こわれる」をどう読むべきなのか。私は悩むが、「こわれる」を可能性と読む。固有名詞(詩)の前で、私は私であってはいけない。私を壊して、私でなくならないといけない。生まれ変わらないといけない。
 だが、こういうことは、頭で言うのは簡単である。ことばは、いつでも、自分の都合のいいように頭の中で動いてしまう。ウソを、かっこいいことを書いてしまう。
 詩人は、ここで踏みとどまっている。
 そこまでは、できない。
 だから、石ころ(詩)という全体的存在を認めながら、いまは、そっとそれを「またいで過ぎる」。この「またぐ」という動詞に、何とも言えない正直を感じる。これは「保留」のひとつの態度である。

 「夜の読書」にも、同じものを感じた。

なにを学んだから
わたしはいずれ死ぬんだ
という単純な事実から離れていられるのか?
本から学んだ考えは、わたしを素通りしてゆく
本を閉じる、わたしは閉じ込められる、闇につつまれる、急遽、
本をひらく
本のひかりがわたしの顔を照らすのを待つ

 「自分自身のことば」をみつけなければならない。しかし、ことばはいつでも「本」(他人)からやってくる。やってくるものは、たいてい、通りすぎても行く。通り越して行く。それは、しかし、通り越すにまかせるしかない。それは「自分自身のことば」ではないからだ。
 本のひかり、本のことばが、「わたし」を「照らす」。照らされたそのひかりのなかに、私自身のことばを見つけなければならない。「照らす」力を借りて、「私自身」を探す、ということだろう。ここにも「保留」がある。
 詩は(固有名詞は)、私を「固有名詞」に引き戻してくれる「ひかり」である。

 この詩集の前で、私はどれだけ正直になれるか。それが問われている。急いではいけない。ことばがウソをつきそうになったら、その直前で立ち止まり、「保留」することが必要なのだ。だから、きょうは、ここまでしか書かない。


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高野尭『マルコロード』

2022-07-14 22:51:34 | 詩集

高野尭『マルコロード』(思潮社、2022年07月20日発行)

 高野尭『マルコロード』を読む。私は最近までスペインにいたので、日本語の詩を読むのは約一か月ぶりである。だから、そこに書かれていることばに、うまく適応できない。読み違いをしてしまううだろうが、まあ、そこにはそれなりの必然がある、と「弁解」から書いておく。高野の詩が、よくわからないのである。
 「蝦蟇の罠」という作品。

逆流にあらがう蛙はうつくしい、おとなになる

 書き出しの一行で、私は私の青春時代、つまり1970年代にもどる。そのころの、詩のことばを思い出す。私の詩、というよりも、60年代の、安保敗北後の詩のことば、ことばの屈折を思い出してしまう。
 まず「逆流」がくる。ここには社会と個人の対立が象徴されている。まだ社会に対して、立ち向かう若者がいた。反抗する若者がいた。それは「うつくしい」。結局敗北するのだが、敗北もまたうつくしい。抵抗し、敗北し、敗北を受け入れることが「おとなになる」ということだった。(清水哲男兄弟の詩風、特に哲男の詩風を思い出してもらいたい。)
 これは、次のようにいいなおされる。

片手に発泡酒缶をにぎり、蛙になる
間がもてない、うつくしい青年だ、青年だ

 あの頃はまだ発泡酒というものはなかったから、高野は70年代を描いているわけではなく、もっと今に近い時代を描いている、あるいは現在を描いているのかもしれないが、ことばは70年代を生きている。
 「うつくしい青年」には自己陶酔がある。詩人の特権である。自己陶酔しなければ、だれが「うつくしい青年」と呼んでくれるものか。
 このあと、その自己陶酔が、それこそうつくしいことばを呼び寄せる。

がらんどうの胸襟をひらいて青年になった
つれない風にうなじをこそがれ
しわぶく蛙の喉、しわぶきのあたりに
泡をふいて青年になっていく

 「しわぶきのあたり」の「あたり」が絶妙だなあ。ここには、高野独自の音楽が響いている。これをもっと聞きたいと私は思うが、高野はこの音楽を自覚していないかもしれない。だからこそ、私は、そういうことばを「キーワード」と呼ぶのだが、ここではこれ以上のことは書けない。「あたり」ということばがどれだけ深く高野の肉体に食い込んでいるものなのか、どこまで無意識化されているものなのか、まだ高野の「文脈/文体」になじめないでいるからだ。(きっと旅の「時差」のようなものが、私の肉体のなかにしつこく残っていて、それがじゃましている。)

蛙だ、青年になる、青筋がたって
つめよってくる、ぞうの意象をはらい
切り詰めるひとの芽は不思議に思う
あそこにもここにも、なんの矛盾もない

 この「転調」に、私はとまどう。特に「ぞうの意象」ということばのなかにある、「ぞう」と「象」の交錯の前で、「あたり」ではなく、この「ぞうの意象」のような瞬間的な、あるいは主観的なずれこそが、重複が高野のことばの本質(キーワード)かもしれないと思ったりもする。よくわからない。わからないが、いま引用した部分で言えば「あそこにもここにも、なんの矛盾もない」の「あこそにもここにも」という軽い響きに、「あたり」に通じる音楽を感じる。「なんの矛盾もない」という明るさもいいなあ、と感じる。

カーソルをすりよせ、結局フリーズしている
昼休みのログオフを長押しすれば
カップ麺の汁をすする、少年だった
すり鉢の貧乏ゆすりに、波風をたてる
鈍感な蝦蟇だ

 ああ、ここから先は読みたくない。「うつくしい青年」を高野は最終的に「無垢な少年」と言い直すのだが、これでは「逆行」というものだろう。それが、新しい詩なのか。「うつくしい青年」は敗北することで「大人になる」が、敗北を「無垢な少年」に押しつけるのは、「大人になる」のではなく、「こどもになる」ことだ。
 「還暦」ということばがある。高野は、そのことばどおり、「還暦」後を、「無垢な少年」として生きていこうとするのか。
 それもいいかもしれない。でも、いまは70年代ではない。それより以前の60年代にまで引き返す覚悟があるのかどうか、私には、高野の書いていることばがよくわからない。その運動の方向が、わからない。

 

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「お友達政治」を徹底追及する好機

2022-07-14 19:14:30 | 考える日記
安倍は殺害された。
しかし、それは安倍の政治信条が原因ではない。
たとえば、安倍の提唱する改憲運動に反対する誰かが安倍を殺害したのではない。
アベノミクスによって貧困に陥れられた誰かが安倍を殺害したのでもない。
安倍は、悪徳商法団体(宗教団体を名乗っている)の宣伝をしていた。悪徳商法に深く関係していると思われていた。(実際、無関係ではないだろう。)そして、悪徳商法の被害者(そのひと自身は、被害者とは思っていないかもしれない。なぜなら、そのひとにとっては、その団体は「宗教団体」だったからだ)の家族によって殺害された。
ここには、ふたつの認識が交錯している。
どの認識の側に立つかは、それぞれの「宗教観」「道徳観」によって違うだろう。私は「無宗教/無神論者」なので、単純に悪徳商法団体と被害者(の家族)、悪徳商法団体とそのPR活動の視点から、今回の事件を見ている。
つまり、安倍は、政治家として殺害されたのではなく、悪徳商法団体の宣伝マンとして殺害された、と私は見ている。
で、これが、なんというか、問題をややこしくする。
悪徳商法団体の宣伝マンが殺害された(いわば、一般市民が殺された、営業活動に熱心だったひとが殺された)ということになる。
では、そのひとが悪徳宣伝マンだったから殺害されていいかどうかになると、これは、また違った問題になる。
どんな人間だって、殺されていいわけではない。殺したっていいわけではない。
どんなときでも殺人に対しては、それを否定しないといけない。
で、ここからである。
殺人は否定しなければならないが、その否定の過程に、事実関係以外のものが入ってくるとおかしくなる。
安倍は、私の見る限り、悪徳商法団体の宣伝マンをしていたから殺されたのであって、政治家として殺されたのではないのだから、今回の事件の本質を見極め、加害者の行動をどう批判していくかは、慎重にならないといけない。
でも、その一方で、安倍が悪徳商法団体の強力な宣伝マンになりえたという背景には、安倍が政治家だったからという側面がある。安倍が政治家でなかったら、安倍は宣伝マンにはなり得なかった。
ここからまた別の問題が出てくる。
なぜ、安倍は悪徳商法団体の宣伝マンになったのか。きっと悪徳商法団体から多額の金が安倍に流れていたからだと思う。
金をもらわずに、安倍が、宣伝マンになるはずがない。「お坊っちゃま、偉い」と言って、金をくれるひと以外を優遇するはずがない、と私は安倍を把握している。
安倍は、宣伝マンになるとき、政治家という肩書を利用したのである。
安倍の政治家としての「資質」が問題になってくる。
この「資質」を抜きにして、安倍を擁護するのは、なかなかむずかしい。
「政治家としての資質」がないから、その政治家を殺していいとは言えないからだ。
殺害は悪いことである。
それを基準というか、論理の出発点にしてしまうと、問題は簡単にすり替えられてしまう。
経済的困窮に陥った男が、現実認識をあやまり、安倍という政治家を殺害した。安倍は完全な被害者だ。
政治家を追放するには、政治家を選ばない(選挙で落選させる)だけでいい。命を奪う必要はない。これが民主主義の鉄則である、という論理があっというまに広がる。
でも、こういう論理を広げてしまう人たち(さらには安倍のやってきた政治的失敗を、功績のように言い立てる人たち)は、いったい何を見ているのだろうか。
「政治の理念」「政治倫理」、あるいは「人間の倫理」について、ほんとうに考えているのか。
悪徳商法団体から金をもらうこと、悪徳商法団体があるのをしりながら、その団体を規制する法律をつくろうとしない「政治家」がほんとうに「政治家」といえるのかどうか。
安倍だけではない。多くの「政治家」が悪徳商法団体とつながりをもっている。なぜなのか。金が動いているからだろう。悪徳商法団体が市民をだまして奪い取った金が政治家に還流しているからだろう。
日本では「金の流れ」を「政治」と呼んでいる。「金の流れ」によってできる人間関係を「政治」と呼んでいる。その「人間関係(だれがだれに金を供与するか、その見返りになるにするか)」が「政治」と呼ばれている。
別なことばで言えば、「だれとだれがお友達であるか」が「政治」なのである。「お友達」であれば、たがいに助け合う。「お友達」でなければ、知らん顔。
ここまで書いてくると、安倍のやってきた「政治」そのものと重なる。
だから。
ある意味では、ほんとうに「日本の政治」が問われているということでもある。
いま、「殺人」という衝撃的な事実によって、「安倍の政治(お友達政治)」が隠蔽されるなら、日本には「政治」(民主主義)は存在しないことになる。
「司法」によって、「金」と「お友達政治」の関係を明確にする必要がある。
安倍のつくりあげようとした民主主義ではなく、本来の意味での民主主義が、いま、たいへんなところに追い込まれている。
でも、この「たいへん」は、逆に考えれば、「安倍のお友達民主主義」を徹底的に批判する好機でもある。
私は、そう考えている。
国会で(なぜ、すぐに開かないのか)、弱小化した野党が(特に立憲民主党が)、この問題をどれだけ追及できるか。
それが、これから問われる。
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第二の豊田商事事件

2022-07-13 08:49:48 | 考える日記
私は、宗教にはぜんぜん関心がないので、統一教会は宗教団体だと思っていた。
で。
もし、統一教会が悪徳商法団体だったと仮定すると。
思い出すのは、豊田商事事件(豊田商事社長殺害事件)だなあ。
そうなると、もうこれは、政治とは関係がないなあ。
あるいは逆に、政治そのものだなあという気もしてくる。
安倍に、統一教会から、いくら金が流れていたか。
金の流れが、自民党を支配している。
自民党は、金さえ入ってくれば、それがどんな金か気にしない。
自民党は「マネーロンダリング組織」ということになるかもしれない。
私はテレビを見ないし、新聞も熱心に読んでいるわけではないが、どうしてだれも豊田商事事件を引き合いに出さないのだろうか。
豊田も、たしか、白昼堂々(?)と殺されたと記憶しているのだが。
まあ、豊田を出せば、安倍殺害は、「第二の豊田商事事件」になってしまうから、それをマスコミは避けているのかもしれない。
そうだとしたら、これは、問題だね。
「第二の豊田商事事件」にしてしまうと、被害総額なんていうのも書かないといけない。
どうしたって金の流れを克明に追うことになるからね。
でも、書いてほしいなあ。
そういう「取材能力」のある記者はいないのかな?
 
 
 
 
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