13日の今日、日本が生んだ不世出の大投手、稲尾和久氏が
他界した。謹んで氏のご冥福を祈りたい。
ところで、稲尾氏他界の訃報は韓国でもその日のうちに連合
ニュースなど複数のメディアが報道していた。
ただ、残念なことには「ヲタク」が目を通した連合ニュースの記事で、
稲尾氏の元所属チームである「西鉄」が「セイテツ」と紹介されて
いた。
当然のことながら、韓国では「ニシテツ」の知名度は全くない。
皮肉な話になるが、この印象的な(?)誤りさえなければ、わざわざ
連合ニュースの記事を翻訳練習の課題に取り上げることはなかった
であろう。そういう意味では実に珍しい記事だ。
なお、原文では「セイテツ」が3ヶ所に登場するが、全て「西鉄」と
訳している。
・・・・・・・・・・・・・・・・
■ 日 50년대 프로야구 '전설적 투수' 이나오氏 타계
稲尾元投手他界、戦後日本プロ野球界の伝説的投手
(連合ニュース 11月13日)
1950년대 후반 일본 프로 야구계의 전설적인 투수로
이름을 떨쳤던 이나오 가즈히사(稻尾和久)씨가 13일
후쿠오카(福岡) 병원에서 악성종양으로 타계했다.
향년 70세.
1950年代の後半、日本のプロ野球界で大活躍した伝説的な
投手、稲尾和久氏が13日、福岡病院で他界した。享年70歳。
死因は悪性腫瘍。
이나오씨는 세이테쓰(西鐵.현 세이부 라이언즈)의
에이스로 활약하며 시즌 최다승인 42승을 올리는 등
통산 276승을 기록하며 현 세이부 라이언즈의
전성기를 이끌었다.
稲尾氏は西鉄(現西武ライオンズ)のエースとして活躍し、シーズン
最多勝記録の42勝を上げるなど通算276勝を記録し、現西武
ライオンズの全盛期を支えた。
규슈(九州) 오이타(大分)현 출신으로, 고교 졸업 후
세이테쓰에 입단한 1956년 21승 6패로 신인왕을
차지, 프로야구계를 깜짝 놀라게 한 데 이어 이듬해에는
20연승의 프로야구 타이기록을 세우는 등 59년까지
3년 연속 30승 이상을 올렸다.
出身は九州の大分県。1956年、高校を卒業し西鉄に入団した。
1年目に21勝6敗の成績を上げ野球界をあっと驚かせ、その年の
新人王を獲得した。また、その翌年には20連勝を達成し日本タイ
記録を打ち立てるなど、59年まで3年連続30勝以上を達成した。
1958년에는 일본 시리즈에서 자이언츠와 맞붙어 3연패한
뒤 내리 4경기에 연속 출전해 4연승의 역전극을 연출,
'가미(神)사마, 호토케(佛)사마, 이나오(稻尾)사마'라는
별칭을 얻으며 마운드의 신화적인 투수로 인기를
한몸에 받았다.
1958年には日本シリーズで読売ジャイアンツと対戦し3連敗した
後、4試合連続で登板、4連勝を収め大逆転劇の立役者となった。
その活躍から「神様、仏様、稲尾様」という流行語を生み出すなど、
まさにマウンド上の生きた神話として人気を集めた。
1961년에는 프로야구 타이기록인 시즌 42승을 마크했으며,
1969년 현역을 은퇴한 뒤 세이데쓰, 롯데 등의 팀에서
8년간 감독으로도 활약했다.
1961年には日本タイ記録のシーズン42勝をマークし、1969年、
現役を引退した後、西鉄やロッテなどで8年間、監督としても
活躍した。
통산 성적은 756 경기에 등판, 276승 137패, 방어율 1.98,
2천574 탈삼진을 기록했다. 1957년과 58년 퍼시픽리그
의 최우수선수의 영예를 차지했으며, 최다승 4회, 최우수
방어율 5회 등의 타이틀도 획득했다.
通算756試合に登板、276勝137敗、防御率1.98、奪三振
2574の記録を残した。1957年と58年、パシフィック・リーグの
MVPに輝くなど、最多勝4回、最優秀防御率5回などのタイトルを
獲得した。
(終わり)
← 応援のクリックをお願いします。