去年、須藤先生のお休みが決まったとき、先生がいらっしゃらないなら、その時間を私たちにいただこうと、当たり前のように結論しました。
先生もそのつもりだったようですが、私たちにあまりに、こだわりがなさすぎることとは、その時は、思いませんでした。
先生から、こだわらない大らかさを学んできたこともありますね。
それは、外から見ると、いかがなものかと、思うのですが、完全に中に入ってしまえれば、毎日を淡々と、いつものように変わりなくとり行うことが、出来るのです。
こだわりが少しでもあるということは、外から目線なのですねぇ。
さて、五日のコスモスの後で、先生とお話をしました。
これまで、数年の間、先生と二人で、打ち合わせをするにしても、あまり細かいことにこだわらず、生徒さんたちが困らないようにということにだけ気を付けながら、物事が決まっていきました。
ただ、今回のようなイレギュラーが起こると、今まで、きちんと話してこなかったことに思いが至りました。
そして、先生の方もどなたかからのご意見を取り入れられて、思いがけない指示が出てきました。
「教えに対する対価」は、いろんな考え方があります。
それをどうとらえるかは難しいのに、先生は、これというこだわりをお持ちではないので、こだわりを持つ側に立ってしまう私には、結論を出にくいのです。
この件は、須藤先生の意見として伺って、その意見をもって、詩吟の同朋と、それに対する思いを聞いて、相談してみようと思います。
先生もそのつもりだったようですが、私たちにあまりに、こだわりがなさすぎることとは、その時は、思いませんでした。
先生から、こだわらない大らかさを学んできたこともありますね。
それは、外から見ると、いかがなものかと、思うのですが、完全に中に入ってしまえれば、毎日を淡々と、いつものように変わりなくとり行うことが、出来るのです。
こだわりが少しでもあるということは、外から目線なのですねぇ。
さて、五日のコスモスの後で、先生とお話をしました。
これまで、数年の間、先生と二人で、打ち合わせをするにしても、あまり細かいことにこだわらず、生徒さんたちが困らないようにということにだけ気を付けながら、物事が決まっていきました。
ただ、今回のようなイレギュラーが起こると、今まで、きちんと話してこなかったことに思いが至りました。
そして、先生の方もどなたかからのご意見を取り入れられて、思いがけない指示が出てきました。
「教えに対する対価」は、いろんな考え方があります。
それをどうとらえるかは難しいのに、先生は、これというこだわりをお持ちではないので、こだわりを持つ側に立ってしまう私には、結論を出にくいのです。
この件は、須藤先生の意見として伺って、その意見をもって、詩吟の同朋と、それに対する思いを聞いて、相談してみようと思います。