江戸川道場へ。
自分の詩吟が、自分の声が、どのように聞こえるのか、知りたいと言う。
私も、そうです。
2年前からやっているはずのことを、今年の2月に、まんまと直されて、一体私は、どういう吟詠をして居るのだろうと、知りたくてしょうがない。
半音の下げ、止め、最後の音を流さない。
微妙である。
ブレーキを踏んで、このくらいで止まるはず、このくらいセーブすれば、避けられると、見当を付ける。
見当が間違うと、ぶつかって、痛い思いをする。
あるいは、届かなくて、もう一度アクセルを踏みなおす。
これは自分で、はっきりと、理解できる。そして、体が覚えていく。
そんな具合に、吟詠も、自分で確かめられて、自分で試行錯誤できると良いねぇ。
声という見えないものは、ぶつからないし、耳の具合によって、受け取り方も違うしねぇ。
大体、感性というものは、そう簡単に、割り切って決めることはできないから。
目を見張る上達をしても、それでも、完璧からほど遠いと、いくらでもダメ出しが入る。
そのダメ出しがなければ、奮い立たたせて、頑張る気持ちを起こさせることもない訳で、ダメ出しと、ご褒美とあって、バランスが取れるねぇ。
今日は、私は、ご褒美組で、良いところを見つけることをした。
気持ちが良かった。
手放しで、誉めることができるのは、ダメ出しをする人がいてのことであるから、今日は、良い人の役をさせて頂いて、ありがとうございました。
吟詠も、関吟の流統から外れない限りは、それぞれの好みで、吟じて良いはず。
コンクールの規定通りの吟詠をするのも良し、自分の感性とテクニックで、好きに吟じるのも良し。
ご指導いただく先生によって、変わる場合もあるし、変わらない場合もある。
自由にのびのびと吟じて、その人らしさを演出するも良し。
型にはめながらも、自由に吟詠するのも良し。
一番型を重視する発言をしながら、実は、自由に吟じたいのは、私自身。
さて、あなたは、どっちを選ぶ?
場面場面によって、吟じ分けるそれって、
甘い?すっぱい?からい??
だから、詩吟は、面白い。
自分の詩吟が、自分の声が、どのように聞こえるのか、知りたいと言う。
私も、そうです。
2年前からやっているはずのことを、今年の2月に、まんまと直されて、一体私は、どういう吟詠をして居るのだろうと、知りたくてしょうがない。
半音の下げ、止め、最後の音を流さない。
微妙である。
ブレーキを踏んで、このくらいで止まるはず、このくらいセーブすれば、避けられると、見当を付ける。
見当が間違うと、ぶつかって、痛い思いをする。
あるいは、届かなくて、もう一度アクセルを踏みなおす。
これは自分で、はっきりと、理解できる。そして、体が覚えていく。
そんな具合に、吟詠も、自分で確かめられて、自分で試行錯誤できると良いねぇ。
声という見えないものは、ぶつからないし、耳の具合によって、受け取り方も違うしねぇ。
大体、感性というものは、そう簡単に、割り切って決めることはできないから。
目を見張る上達をしても、それでも、完璧からほど遠いと、いくらでもダメ出しが入る。
そのダメ出しがなければ、奮い立たたせて、頑張る気持ちを起こさせることもない訳で、ダメ出しと、ご褒美とあって、バランスが取れるねぇ。
今日は、私は、ご褒美組で、良いところを見つけることをした。
気持ちが良かった。
手放しで、誉めることができるのは、ダメ出しをする人がいてのことであるから、今日は、良い人の役をさせて頂いて、ありがとうございました。
吟詠も、関吟の流統から外れない限りは、それぞれの好みで、吟じて良いはず。
コンクールの規定通りの吟詠をするのも良し、自分の感性とテクニックで、好きに吟じるのも良し。
ご指導いただく先生によって、変わる場合もあるし、変わらない場合もある。
自由にのびのびと吟じて、その人らしさを演出するも良し。
型にはめながらも、自由に吟詠するのも良し。
一番型を重視する発言をしながら、実は、自由に吟じたいのは、私自身。
さて、あなたは、どっちを選ぶ?
場面場面によって、吟じ分けるそれって、
甘い?すっぱい?からい??
だから、詩吟は、面白い。