いつもは金曜日ですが、都合で、月曜日になりました。3日遅れただけなのに、1週間以上も日にちが過ぎたように感じた山田先生の操法の日。
体は、調整していただくのを心待ちにしていたようです。
今一番感じるのは、右の股関節。
そのための体操をご指導いただいたのですが、変に力を入れてしまって、もともと冷えがちなひざ下であることもあってか、ふくらはぎが攣ってしまいました。
ふくらはぎをさすってなだめている間、先生は、時間を無駄にせず、その姿勢のままでできる足の後ろを伸ばす体操を教えてくださる。
そして、先生と、いつもの操法の間は、目を見合わすことがないまま話をするのですが、この態勢では、今までにない近さで、顔を見ながらのおしゃべり。
目を見て話すのと、操法を受けながら、声だけを聴いて、会話をするのとは、ずいぶん違うものだと、思う。
顔や目を見てしまうと、つい整えてしまいがちですが、天井あるいは、うつぶせで、目を閉じていると、思いが流れ出るような話し方ができて、作為や気取りがなくなり、心までなだめられるのですねぇ。
今日は、整体を始めて、最初に習った側腹の体操が、ことのほか難しく感じました。
最初の頃は、わけなくできていて、体操が覚えにくいとかやりにくいということがなかったのに。
却って、少しばかり分かった風に思ってきた今の方が、難しく感じてしまうようです。
山田先生は、きっと、私にワンランク上の、要求をもって、言葉を選んでいらっしゃるように思いました。
簡単な動きではありますが、奥の深い井本整体の体操であることを、また、改めて知りました。
そして、一番思うのは、体が正しいパランスへと向上して居るのですが、昔の、傾いたバランスの時の体の記憶で、動かそうとしてしまうので、バランスを崩してしまうのではないかと思う。
今日は、四角い鍋の話をしました。
鍋は、丸いから、撹拌がしやすいのであって、まんべんなく食材も回転して、均等に熱がくわわり、調味料が、行き渡って、おいしくなるのです。
餃子をなるべくたくさん並べて、くっつかないことを求めて、テフロン加工の四角いお鍋を買ったのが一年前。
テフロンの使いやすさは、チャーハンの時もご飯が焦げ付かなくて、良く混ざるのがあり難い。
つい、テフロンであるから焦げ付かないということだけに着目して、四角い鍋で、チャーハンを作ろうものなら、何倍もの手間となってしまう。
均等に撹拌しているつもりでも、四角い角に、食材が残ってしまうものだから、四隅に残った具材を真ん中に誘いだして、均等に撹拌するには、4×4=16倍!?は手間がかかってしまう。
熱をもって、周りを巻き込んで、同じ温度と味付けにすると言う作業は、何かに似ているなぁ。
自分の実力を甘く見て、四角い鍋を丸くかき混ぜて、四隅を残していることを認識せずに、限りなく冷めてしまっていることも知らないでいる。
それでも、丸い鍋と思っているから、ただかき混ぜる。
四隅に入りこんだ物は、意識しても困難なのに、置き去りにされて、真ん中との温度差がどんどん開いていく。
中華鍋の短時間・高温の料理を作る手際は、それは、すごいものがある。
それには、中華鍋と火を操る技術が、必要だねぇ。
丸くなくては、不可能ではあるが、丸いだけではいけないのです。
私の料理のレパートリーでは、餃子以外は、丸い鍋に限る。
山田先生には、この話、大いに受けました。
体は、調整していただくのを心待ちにしていたようです。
今一番感じるのは、右の股関節。
そのための体操をご指導いただいたのですが、変に力を入れてしまって、もともと冷えがちなひざ下であることもあってか、ふくらはぎが攣ってしまいました。
ふくらはぎをさすってなだめている間、先生は、時間を無駄にせず、その姿勢のままでできる足の後ろを伸ばす体操を教えてくださる。
そして、先生と、いつもの操法の間は、目を見合わすことがないまま話をするのですが、この態勢では、今までにない近さで、顔を見ながらのおしゃべり。
目を見て話すのと、操法を受けながら、声だけを聴いて、会話をするのとは、ずいぶん違うものだと、思う。
顔や目を見てしまうと、つい整えてしまいがちですが、天井あるいは、うつぶせで、目を閉じていると、思いが流れ出るような話し方ができて、作為や気取りがなくなり、心までなだめられるのですねぇ。
今日は、整体を始めて、最初に習った側腹の体操が、ことのほか難しく感じました。
最初の頃は、わけなくできていて、体操が覚えにくいとかやりにくいということがなかったのに。
却って、少しばかり分かった風に思ってきた今の方が、難しく感じてしまうようです。
山田先生は、きっと、私にワンランク上の、要求をもって、言葉を選んでいらっしゃるように思いました。
簡単な動きではありますが、奥の深い井本整体の体操であることを、また、改めて知りました。
そして、一番思うのは、体が正しいパランスへと向上して居るのですが、昔の、傾いたバランスの時の体の記憶で、動かそうとしてしまうので、バランスを崩してしまうのではないかと思う。
今日は、四角い鍋の話をしました。
鍋は、丸いから、撹拌がしやすいのであって、まんべんなく食材も回転して、均等に熱がくわわり、調味料が、行き渡って、おいしくなるのです。
餃子をなるべくたくさん並べて、くっつかないことを求めて、テフロン加工の四角いお鍋を買ったのが一年前。
テフロンの使いやすさは、チャーハンの時もご飯が焦げ付かなくて、良く混ざるのがあり難い。
つい、テフロンであるから焦げ付かないということだけに着目して、四角い鍋で、チャーハンを作ろうものなら、何倍もの手間となってしまう。
均等に撹拌しているつもりでも、四角い角に、食材が残ってしまうものだから、四隅に残った具材を真ん中に誘いだして、均等に撹拌するには、4×4=16倍!?は手間がかかってしまう。
熱をもって、周りを巻き込んで、同じ温度と味付けにすると言う作業は、何かに似ているなぁ。
自分の実力を甘く見て、四角い鍋を丸くかき混ぜて、四隅を残していることを認識せずに、限りなく冷めてしまっていることも知らないでいる。
それでも、丸い鍋と思っているから、ただかき混ぜる。
四隅に入りこんだ物は、意識しても困難なのに、置き去りにされて、真ん中との温度差がどんどん開いていく。
中華鍋の短時間・高温の料理を作る手際は、それは、すごいものがある。
それには、中華鍋と火を操る技術が、必要だねぇ。
丸くなくては、不可能ではあるが、丸いだけではいけないのです。
私の料理のレパートリーでは、餃子以外は、丸い鍋に限る。
山田先生には、この話、大いに受けました。