ここ何回、助っ人に出かけただろうか。
そこに出かけられるのも、初心者の会員さんが、喜んで、「また来てください」と言ってくださるから、出しゃばりと思いながらも、精一杯をやってくる。
そう迷いの中に居るのは、その教場の指導者さんには、確かに「来てください」言われた記憶がないからで、でも、行くと、うれしそうにしてくださるので、行ってもいいのだなぁと思うことにします。
まさか、先輩の横暴とは、思っていないでしょう。
これも、野田 芦孝会長のおっしゃる組織力の一環として、許されることと思えば、できること。
なによりも、新会員さんからの、強い手ごたえがあり、上昇志向に刺激されます。
ですから、予定の合わせられる限りと思って、頑張れる。
東京連絡所と言われていたころから、複数の教場が首都圏に散らばっていましたが、そのころは、まだ、会長も「どこの教場へ行ってもよい」とは、おっしゃっていなかったのですが、すでにそのお気持ちは、おありになっていたのでしょうが。。。
ただ、私の気持ちとしては、最初に所属した、野田 芦孝先生が教えている中央会が、私の教場で、月に1回が少ないと思う気持ちはありませんでした。
他教場へ足しげく出席するようになったのは、長期休眠期間を終えて、復帰した時、ブランクを埋めるために、練習量を増やすため、他教場へ通うようになりました。
そうして通ううちに、まだ、初心者の多かった女性たちが、ご自身の声の高さで、私と合吟すると目に見えて吟詠がかわっていくのを実感して、そちらの「手助け」と思う気持ちにシフトしていったように思います。
男性指導者の低い音で、新しい吟を習い、1回乃至、2回の独吟のチャンスに、急に自分の高さで吟詠するのは、音感の優れた方でない限り、音がつかみにくかったと思います。
自分の吟詠を思いだすために、私は、自分のための練習をさせていただきながら、誰かの役に立てていると思いで、他教場へ行くことへの罪悪感を消していきました。
そんな時に、「芦孝会はどこの教場へも自由に参加してよいです」と、芦孝先生が声高らかにおっしゃったときは、ほっとしたものです。
そして、今では、芦孝会のみなさんは、可能な限りの練習を積むために、所属教室以外へも、当たり前のように足を運んでいらっしゃいます。
それぞれが、それぞれの意義をもって、自分の責任で、複数の指導者のご指導を頂いています。
その中で、偶々のタイミングで、古くからの一つの教場へは、未だ足を運ぶチャンスがなく、それから、新しくできた教場のなかのいくつかには、まだ、伺うことができていません。
芦孝会の画期的システムには、いまだに、ちょっとした齟齬感があります。
何かはっきりとした行かねばならぬ理由付けが、あると、さっさと訪れて、今ある19の全教場に参加したことがあると言えるようになるのですが。
「全部」という記録を作るが如くの気持ちではねぇ。
なんだかだと言いながら、このオープンシステムの中で過ごしていると、だんだんと、垣根が低くなってきたようで、始めてお目にかかった先生に対しても、聞きたいことを遠慮なく質問をしてしまい、気を使わせてしまったという場面もしでかしてしまいました。
いろいろなこだわりと、折り合いを付けながら、一つ一つの出来事から、学ぶことがあり、一つのことを続けていることで、まだまだ、成長しているのかもしれないという実感は、何よりもうれしく、来月大台に乗る年齢をしばし、忘れておりました。
そこに出かけられるのも、初心者の会員さんが、喜んで、「また来てください」と言ってくださるから、出しゃばりと思いながらも、精一杯をやってくる。
そう迷いの中に居るのは、その教場の指導者さんには、確かに「来てください」言われた記憶がないからで、でも、行くと、うれしそうにしてくださるので、行ってもいいのだなぁと思うことにします。
まさか、先輩の横暴とは、思っていないでしょう。
これも、野田 芦孝会長のおっしゃる組織力の一環として、許されることと思えば、できること。
なによりも、新会員さんからの、強い手ごたえがあり、上昇志向に刺激されます。
ですから、予定の合わせられる限りと思って、頑張れる。
東京連絡所と言われていたころから、複数の教場が首都圏に散らばっていましたが、そのころは、まだ、会長も「どこの教場へ行ってもよい」とは、おっしゃっていなかったのですが、すでにそのお気持ちは、おありになっていたのでしょうが。。。
ただ、私の気持ちとしては、最初に所属した、野田 芦孝先生が教えている中央会が、私の教場で、月に1回が少ないと思う気持ちはありませんでした。
他教場へ足しげく出席するようになったのは、長期休眠期間を終えて、復帰した時、ブランクを埋めるために、練習量を増やすため、他教場へ通うようになりました。
そうして通ううちに、まだ、初心者の多かった女性たちが、ご自身の声の高さで、私と合吟すると目に見えて吟詠がかわっていくのを実感して、そちらの「手助け」と思う気持ちにシフトしていったように思います。
男性指導者の低い音で、新しい吟を習い、1回乃至、2回の独吟のチャンスに、急に自分の高さで吟詠するのは、音感の優れた方でない限り、音がつかみにくかったと思います。
自分の吟詠を思いだすために、私は、自分のための練習をさせていただきながら、誰かの役に立てていると思いで、他教場へ行くことへの罪悪感を消していきました。
そんな時に、「芦孝会はどこの教場へも自由に参加してよいです」と、芦孝先生が声高らかにおっしゃったときは、ほっとしたものです。
そして、今では、芦孝会のみなさんは、可能な限りの練習を積むために、所属教室以外へも、当たり前のように足を運んでいらっしゃいます。
それぞれが、それぞれの意義をもって、自分の責任で、複数の指導者のご指導を頂いています。
その中で、偶々のタイミングで、古くからの一つの教場へは、未だ足を運ぶチャンスがなく、それから、新しくできた教場のなかのいくつかには、まだ、伺うことができていません。
芦孝会の画期的システムには、いまだに、ちょっとした齟齬感があります。
何かはっきりとした行かねばならぬ理由付けが、あると、さっさと訪れて、今ある19の全教場に参加したことがあると言えるようになるのですが。
「全部」という記録を作るが如くの気持ちではねぇ。
なんだかだと言いながら、このオープンシステムの中で過ごしていると、だんだんと、垣根が低くなってきたようで、始めてお目にかかった先生に対しても、聞きたいことを遠慮なく質問をしてしまい、気を使わせてしまったという場面もしでかしてしまいました。
いろいろなこだわりと、折り合いを付けながら、一つ一つの出来事から、学ぶことがあり、一つのことを続けていることで、まだまだ、成長しているのかもしれないという実感は、何よりもうれしく、来月大台に乗る年齢をしばし、忘れておりました。