熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

シュンペーター「ブレーキはより速く走る為にある」・・・プロとしての建築と土木の違い

2005年12月11日 | 政治・経済・社会
   経済発展の理論で、経済成長は、イノベーションによる創造的破壊によって起こるのだと説いて一世を風靡した偉大な経済学者アロイス・ヨーゼフ・シュンペーターが、「自動車のブレーキは、より速く走る為にあるのだ」と言っている。
   何故ブレーキがあるのか質問すると、大概の人は、「分かってるじゃないですか。車を止める為にあるのです。」と答える。
   しかし、良く考えてみれば、ブレーキがあり、何時でも思い通りに車を止める事が出来るので、思い切りアクセルを踏んで車を走らせることが出来る。
   このように速く走る為にブレーキがあるのは至極当然だが、しかし、本来、ブレーキがなければ、車そのものが機能しない。
   逆転の発想でも何でもない、極普通の真理なのだが、人は、その物理的な機能のみに目を取られて、その本来の貴重な働きを忘れてしまう。

   今朝、10チャンネルのサンデープロジェクトの「耐震強度偽装事件」報道を見ていて、このシュンペーターのブレーキ論を思い出した。
   本件は、総研を筆頭とするモラル欠如の一群のビジネス集団に問題があると思っているが、今回は、民間確認検査機関の業務が焦点となっていたので、この点に絞って考えて見たい。

   この確認検査機関が、何故偽装を見抜けなかったかと言うことであるが、東工大の先生が指摘していたように、極めて初歩的なミスで、業務上の怠慢以外の何物でもない。
   要するに、制度上も業務上も、適法かどうかと言った最低条件の偽装チェックさえ機能していなかった、即ち、車を止めるべきブレーキが働いていなかったと言うことである。
   耐震強度偽装問題だけ解決するのなら、法制度を含めたトータルシステムを改正すれば比較的容易である。
   しかし、大手ゼネコンが巻き込まれているとするならば、チェックシステムの問題だけではなく、日本の社会経済構造の問題で深刻である。
   その問題はさておいて、今回の件では、日本人のモノの考え方に問題があるのではないかと思っている。

   端的に言えば、日本人のブレーキ軽視の風潮である。
   平成バブルに苦しんだ日本の遠因の一つは、財務諸表のコントロール軽視、即ち、企業の経理財務部門の業務を軽視していたことで、担当者を帳付けとか会計屋と称して1ランク下においていたが、このブレーキ機能軽視である。
   監査役軽視に至っては、限度を超えており、社外役員制度や委員会制度導入でお茶を濁しているが、コーポレートガバナンス等未だに機能不全で、要するに、カタチだけ整えるがブレーキ機能はお飾りと言う風潮は変わらない。
   しかし、このブレーキ機能が、如何にうまく機能し信頼に足る働きをしているのかが、社会の安寧と秩序を守り人々の平和な生活を保障しているのを忘れてはならない。

   ところで、耐震強度偽装問題に戻る。構造設計に対する日本人の考え方に問題があるようで、欧米と比べると、構造設計に対する機能と資格要件が甘いようであるが、その前に、構造設計の位置づけを考えてみたい。
   日本の場合は、土木と建築は、構築物によって分かれていて、技術者は両方とも工学部で教育されて、夫々、土木科と建築科から巣立つが、欧米の場合は、意匠設計は芸術学部で教育され、それ以外の建設技師・技術士はすべて工学部土木(?シビル・エンジニアリング)学科で教育を受け、当該の構造設計技師は、当然ここで学位を取得する。
   日本では、建築学科でも構造設計は比較的陽の当たらない部門のようで、優秀な専門家は非常に少ないと聞く。

   イギリスの場合であるが、意匠設計を担当するアーキテクトは、非常に尊敬される専門職だが、エンジニアリングの世界もそれと同様で、建設業界では、工事施工以外のエンジニアリング部門を担当するクオンティティ・サーベィヤー(QS)の役割と地位は非常に高い。
   建築申請における意匠と構造設計の位置は同等に重要であり、構造設計者の顔は最初から克明に見えている。
   また、QSのエンジニアーが発注者側に立って、建設工事の最初から最後まで徹底的に図面と工事をチャックして設計会社や工事業者を監視しているので、日本のような鉄筋を抜いて工事費を浮かせて儲ける等考えられない。

   ここで強調したかったのは、欧米の場合は、プロフェッショナルには、必要な教育を施して高い資格と地位を与えてそれなりに遇していることで、プロフェッショナルも誇りを持ってプロなりに振る舞い、それに、プロフェッショナル・ライアビリティ等保険制度も含めて社会全体に整備されていることである。
   日本は、プロに対しては、プロ野球やプロサッカーに対する認識が強いが、プロフェッショナルとは、弁護士や会計士、建築士等々、特別な教育を受けて資格を取った夫々の道の専門家を言うのであって、その機能は、社会が複雑化すればするほど重要になってくる。
   しかし、日本では、形にならない相談やアドバイス、コンサルティングなどは只だと思っている人も多く、また、専門的なプロの行うサービスに対しても十分に対価を支払う商習慣は成熟しているとは思えない。
   
   余談だが、商法は、プロの経営者による会社経営を期待しているが、プロの経営者を育成する制度は日本にはまだない、それが、日本の経営のモラルを低下させているのかも知れない。
   
コメント
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