熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

十二月大歌舞伎・・・情感たっぷりの「盲目物語」

2005年12月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昼の部の演目は、福助と橋之助の「弁慶上使」、勘太郎と七之助の「猩々」「三社祭」、勘三郎と玉三郎の「盲目物語」だが、やはり、感動的な舞台は、最後の盲目物語であった。

   乞食になって彷徨う座頭弥市が、琵琶湖の波打ち際に座って、昔仕えたお市の方を忍びつつ三味線を爪弾きながら「おもうとも その色ひとに しらすなよ 思わぬふりで わするなよ・・・」と歌い出す。
   目の見えない弥市の心の中にある深層風景の中に居るはずのお市が、ベールの陰から浮かび上がって琴を弾きながら唱和する。
   真っ暗な舞台に当った二つのスポットライトに照らし出された二人の奏する哀調を帯びた素晴しい音楽がフェーズアウトしながら幕が引かれる。

   この盲目物語の舞台は、架空の人物座頭の治療師弥市に語らせた同名の谷崎潤一郎の小説を基にしているが、逆に弥市を主人公にして、お市に対する弥市の限りないプラトニックラブに焦点を当てている。

   夫長政と男子が兄信長に殺され、信長に引き取れれるが、本能寺の変で信長の死後、柴田勝家に嫁ぐ。しかし、勝家も秀吉に滅ぼされて運命を共にし悲劇的な最後を遂げるお市に、小谷から清洲を経て最後まで仕えた弥市が、当時の信長や秀吉などの物語を交えながら、お市の生身の生き様を語っている。

   谷崎の原作と歌舞伎では、ニュアンスが大分違っていて面白いのだが、弥市の場合は、目が見えないので、お市や側近の話とお市の療治を通じて触れる手の感触だけが情報源のすべてだが、
お市への生身の愛を実感させる描写は、小説も歌舞伎も、弥市がお茶々を背負って城から逃げる時、お茶々の臀部に触れてその艶かしさが若い時のお市の方とそっくりの感触だと感じて、死んだ筈のお市が生き返ったような気がしてお茶々と共に「生きたい」と思うところである。
   それを嘴った為に歌舞伎ではお茶々に逃げられてしまうが、谷崎では、秀吉の許しを得てお茶々の側に仕える。
   あんなにお市に執心していた秀吉がお茶々を見て、お市が死んでも嬉々としているのは当然だと弥市が感じたと谷崎は書いているが、弥市は、お市の生き返りを感触で感じたのである。弥市は、療治を通じて手の感触の総てを通してお市を感じながらお市を愛し続けた。
   中国の宦官と同じで、男子禁制の奥へ唯一招じ入れられた弥市は、盲目ゆえに禁断の恋をし、幸せだったと言う。

   このお市への、止むに止まれぬ秘めた恋心を主題にしながら、当然だが、お市が全くこれには無関心。お市は、同じくモーションをかける秀吉を嫌い抜き、勝家に恋心を吐露するあたり、谷崎とは違った歌舞伎の黒白をつけた舞台展開が面白い。
   
   玉三郎のお市は、気品があって実に清清しい演技で、信長の妹としての威厳と毅然たる振る舞いと女としての優しさの綯交ぜが実に巧みで、素晴しい。
   夜の部の「船弁慶」の静御前も格別だが、奏する琴の調べも胸を打つ。
   イギリスのシェイクスピア役者は、歌って踊って演技して、とにかく、パーフォーマンス・アートは何でもこなすが、この点、日本では、歌舞伎役者と宝塚スターは同じだと思っているが、しかし、玉三郎の場合は、それぞれに秀でていて群を抜いている。

   勘三郎も、秀吉と弥市を演じたが、勘三郎になってから、大きくなったのであろう。
   秀吉は、何時もの勘三郎の地で行けるが、弥市の心象風景を膨らませながらの抑えた演技が上手いと思って見ていた。
   
   橋之助の勝家、薪車の長政、七之助のお茶々、夫々風格と艶があって良かった。
   玉三郎の起用とかで、笑三郎が侍女真弓で琴を弾いていたが、もっと聞きたかったし、もっと重要な役どころで観たかったと思っている。

   舞台設定だが、本来のしっかりした歌舞伎の舞台セットよりも、前述した視覚的な照明を上手く活用した舞台の方が効果的な場合もあるので、7月のニナガワ十二夜の様に、もっとアドホックなセットをドンドン取り入れた演出も面白いのではないかと思っている。

   余談だが、谷崎の物語では、勝家の最後の晩餐で、秀吉の間者である芸人朝露軒が三味線でお市の方をどう救い出すか音に乗せて問うたので、お市を救い出したい一心で弥市が、豊臣方に加担する返事を三味線でモールス信号のように弾きかえすくだりを描いているのが面白い。
   それを知ったお茶々が、弥市を嫌って遠避けたので、弥市は傷心して城を出て放浪の旅に発った。

   私の谷崎は、谷崎源氏物語からで結構読んだが、「鍵」には強烈な印象を持っており、京マチ子と先代中村鴈治郎の生々しい映画を今でも思い出す。
   この「盲目物語」だが、耽溺的な谷崎の小説にしては、さらっとした歴史小説であるが、ひらかなが多くてワーグナーの楽劇のように何時終わるのか分からないような谷崎独特の文章が、雰囲気を出していて読ませてくれる。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする